第25話 さあ、ゲット・セット・ドン(用意ドン)!! 🚩
その家は岡野の家の倍もありそうな、たいそうなお屋敷だった。門をくぐると石畳の先にもうひとつの門があり、立派な石灯籠が置かれていて、見事な松の木が塀の外まで枝を伸ばしている。玄関の二枚戸を開けて声をかけると、奥からきれいな女のひとが出て来て「あなた、文子さんね。お父さまからご連絡があったわ、さあどうぞ」
予想もしていなかった展開にどぎまぎしていると、磨きこまれた廊下を先に立って歩きながら女のひとは「わたしは良っていうのよ、よろしくね」気さくに自己紹介をしてから「文子ちゃんは八重のことを覚えているかな?」意外なことを付け加えた。「はい、よく覚えています」跳ねあがるようにして答えると「わたしの妹なのよ」
息が止まるほど驚いている文子に重ねて良は「八重はいま東京で暮らしているの。年に一、二度会うたびに文子ちゃんの話になってね、どうしているかな、幸せでいるかなっていつも気にかけているのよ」朗らかに歌うような口調で言う。八重母さんがわたしのことを? 夢を見ているのではないか。文子は信じられない思いだった。
(わたしは八重母さんを決して忘れなかったけれど、八重母さんも一度会っただけのわたしを忘れていなかったなんて、そんなすてきなことが実際にあるのなら、苦しみだらけのこの世もわるくはないよね。ううん、むしろ、これまでが辛かった分だけ、よろこびの濃度が際立つような気がする。神さま仏さま、ありがとうございます)
「はじめての家で疲れるでしょうから、今夜はわたしと一緒にやすみましょうね~」そう言って案内してくれた自室に落ち着いた良は「うちの夫と平太さんは仕事でいつも一緒なのよ。それに古くからの親せき同士でしょう。八重のことがあったからって疎遠にはなれないらしいの」文子の疑問を先取りするように簡潔に説明してくれた。
「明日は試験だから、今日は子どもたちにここへ来ないように言ってあるの。だから安心していて。お夕食もわたしとふたりよ。さあ、それまでひと眠りしておいてね」言いつつ座布団を二枚並べて文子を寝かせると軽い毛布を掛けてくれ、赤子にするようにお腹をトントンやさしく叩いてくれた。うれしい!! 文子の胸が凱歌をあげる。
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翌朝は良の方が張りきっていた。忘れ物はないか祖母のようにくどくど念を押した文子を自分の鏡台の前にすわらせると、やさしい指先で髪を結ってくれ、いい匂いのするふところからピンク色の新品のリボンを取り出して華やかな蝶に結んでくれた。数日来の環境と感情の目まぐるしい変転が信じられない。なにもかも夢のようだ。
(真綿にくるまれていた中田を離れた岡野では、え、どうして? と思うような目にばかり遭って来たけど、遠い親せきというだけでこれほど親身になってくれるひとがいる。やはり世の中、捨てたもんじゃないんだね。ううん、これは、おばあちゃんの功徳だわ。大事にしてもらえるむすめに育ててくれたおばあちゃんへのご褒美だわ)
じつのむすめの受験のように甲斐がいしく文子に付き添ってくれた良は「まず善光寺さんにお詣りして行きましょうね」と言うと、裾さばきもやさしく石段をのぼって山門をくぐり、手水所で優雅に手水を使ってから丁寧にお詣りする。一挙手一投足に見とれる文子には、八重母さんと似た面影がこの上なく慕わしくてならなかった。
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翌朝の合格発表にも良は当然のように付き添ってくれ「二十五番、ありました!!」文子の歓声に「よかった、よかった、文子ちゃん、本当によかったわね」大きな目を潤ませてよろこんでくれた。「さあ、一刻も早く郷里へ帰って、待ちわびている方々に合格の報告をしたほうがいいわね」せかされた文子は、ひとまずお屋敷へもどる。
母親の良から「さあ、あなたたち、文子さんは無事に合格したから、もう息をひそめていなくていいわよ」と言われ、わらわらと出て来た子どもたちに珍しそうに取り囲まれながら帰り支度を整えていると、良はあれは持ったかこれはと母親のように世話をやいてくれる。あれ、同じことをつい最近聴いた。あ、中田のおばあちゃんだ。
長野駅のホームまで見送ってくれて「気をつけて行っていらっしゃい。みなさまによろしくね。早く長野へ帰っていらっしゃい」いつまでも手を振ってくれる良に振り返しながら文子は、いま大きな一歩を踏み出そうとしている自分を意識した。「さあゲット・セット・ドン(用意ドン)!!」関先生の口調を胸のなかで諳んじてみる。
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