第21話 育ての親の祖父母と別れて冷ややかな生家へ 💧
いよいよ岡野へ出発という朝、何日も前から泣き通しで食事も喉を通らない祖母はいっそう身の置きどころがない様子で「文子、おいで。お髪を結ってあげようね」 言いきらないうちに、もう喉を鳴らせている。この愛しいひとを置いて出て行く自分が許せず、文子は何度も和枝にあとを頼んだ。その和枝の出発も迫っていたが……。
なみだにぐっしょり濡れた顔で祖母はなおも言う「持ち物は大丈夫か。忘れ物はないか」すべてを終えると「さあ、出来た、ああ、ああ」とだけ言う。いまこのひとに言えるのは、ああ、ああ、だけなのだ。そう悟った瞬間「おばあちゃ~ん!!」文子は祖母にしがみついた。がむしゃらに抱き合うふたりの喉がくうくうと鳴り合った。
「どうしたどうした、ふたりとも。またいつでも来れるだろうに」取りなす祖父の声もふるえている。「文子ちゃん、おばあちゃんのことは引き受けましたよ。わたしがついているからどうか安心して岡野へ行ってください」と言ってくれた春子に文子は「おばちゃん、どうぞよろしくお願いします」深々と他人行儀なお辞儀を返した。
祖父に連れられた文子が門を出るとき、春子や和枝、曲輪のひとたちに労わられながら悄然と立っていた祖母は「気をつけるんだよ、からだにな、気を……」言いかけてあとがつづけられず家のなかに駆けこみ、台所の板の間に腰をおろすと、おいおいもう人目もはばからずに声を放って泣きじゃくった。文子は春子に介添えを頼んだ。
*
小さな木綿縞の信玄袋がひとつ。それが、生まれて初めて生家の住人になりにゆく文子の全財産だった。単衣や袷の着物と小学六年生の教科書が入っているだけのそれを持った祖父が先に立って歩いて行く。ふたりをうしろから浅間山が見守っている。文子の心は春子と和枝に託して来た祖母を離れて、これから向かう家に飛んでいた。
べつにいまに始まったことではないが、ことごとく順番がおかしいのだ、自分に関することは……。今回だって、本来なら岡野の両親が中田へ出向いて来てこれまでの養育のお礼をねんごろに述べるべきだろう。それもなしに、こうして反対に祖父の方から挨拶に出向くとはどういうことだろう。子どもにだってわかる道理ではないか。
ひとえに文子のために選んだつもりの姪のお豊が存外に冷淡な性質で、自分の産んだ子ばかり可愛がって先妻の子の文子をないがしろにする事実に我慢がならない祖母は「いいかい、あの家のものは竈の下の灰までおまえのものなんだから」何度となく言い聞かせて文子に自信を持たせようとしてくれたが、その意味がよくわかった。
余計者の自分が行ってもよろこぶひとがいない家のどこにこの身を置けばいいのか想像するだけで胸が苦しくなる。あの家にいるのは短い期間で、すぐに長野の学校の寮暮らしになることだけが、いまの文子の縋れる藁だった。いまさらだが、父も義母も、そのことを思って長野の女子師範に入れたかったのだと、身に沁みてわかる。
*
文子は、祖父を岡野の家に入れたくなかった。口々に「貧乏じいさん」と言う叔父たちの嘲りはいまも忘れていないし、もてなし上手に見えるもうひとりの祖父・五郎も心から徳二を歓迎してくれるとは思われない。ささっと酒肴は出て来るし、酒が過ぎて遅くなれば客間の夜具の用意も、いまは十分な女手が黙ってしてくれるだろう。
なにかにつけ侮蔑の視線がついてまわることを、徳二自身が気づかないことだけが救いだったが、それだけに「わたしはもう大丈夫だから、早くおばあちゃんのところへ帰ってあげて」と繰り返して頼んでも「先方に挨拶するまでは」と気負っている。申し訳ないが、この鈍感さが中田の家の貧しさの遠因のような気がしきりにする。
「本当にもうわたしは大丈夫だから。それより、ひとりで泣いているおばあちゃんが心配でいられないから、一刻も早く中田へもどってあげて」「そうかい、そんなに言うなら帰らずか。気をつけて行けよ、あちらのみなさんによろしくな」なんとか説得して祖父を帰した文子は、今度こそひとりの背中を浅間に預け、敢然と歩き出した。
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