第20話 太鼓楼の天井の世界地図は子どもたちの道標 🪁



 小学校入学という孫の大事な節目を、なんとなくスルーされたかたちの祖父母は、それから六年間に自分たちも着実に歳を重ねたことでもあり、文子の卒業に当たってなにをどうしても岡野に引き取らせなければ、安心して老いていくこともできない、そう思って何度となく岡野に交渉してくれていることを、文子も薄々は知っていた。 


 その結果として「いたし方ないから引き取るしかない」という冷酷な言葉を父親の平太の口が吐いたことも承知していた。祖父母は告げたくなくても、たいていのことは春子を通して和枝から文子に伝えられた。六年間を密着して成長した文子と和枝は双子の姉妹のような絆を結んでおり、片方の悲しみはそっくり片方の悲しみだった。


 そのことを聞いた文子の心身を「許せない!!」という思いが駆けめぐった。自分の子どもを勝手に祖父母に押しつけておいてなんという言い草だろう。平太という男は本当に自分の父親なのか。自分の知らない事情があって父親の役目を演じているだけなのではないのか。でなければ、じつのむすめに、そんな言葉を吐けるわけがない。


 実際のところ、うその父親だったらどんなにいいだろう。他人ならどんな仕打ちも納得できる、なんせ赤の他人なのだから。だが、なまじ肉親と思うから、どうしても一抹の希望を抱いてしまい、そのつど裏切られ、そのつど、深く傷つくことになる。お願いですからお父さん、わたしにあなたのむすめではないと申し渡してください。



      *



 岡野の婚家の過労がもとで早逝した絹母さん、四歳まで溺愛してくれた福母さん、萎びた乳房に甘えさせてくれた喜井母さん(祖母)、それにほんのつかの間だったが線香花火のように美しい残像を結んでくれた八重母さん……文子の心が母なる愛を求めて彷徨し、いまもなお彷徨いつづけているのは、みんなあの男、平太のせいだ。


 文子は、自分の胸の部屋に、いつの間にか恨みの鬼が棲み着いていることに気づいていた。できれば鬼なんかとは無縁でいたいが、乾き始めた傷を繰り返し甚振られるような状況ではそうもいかない。むしろ、父親を、祖母が暗喩するように、その父をそそのかせているかもしれない義母を憎むことで少女の精神をやっと保っていた。


 その両親が文子の進路を決めたと言ってよこした。これまで放っておいたくせに、いまさら両親づらするのかと暗い気持ちで思ったが、上の学校へ進んで好きな勉強をつづけるには相当な財力が必要で、それは貧乏な祖父母には望むべくもないのだから、本当に口惜しいが、親のにせものと断定する両親に頭を下げるしかなかった。


 その父親が文子に命じたのは長野の女子師範学校への進学だった。岡野の家から通学できる範囲に谷川や小諸の女子師範もあったが、あえて寮生活の必要な遠隔地の学校を選んだ父の心情を推察すると、あらためて文子の背に寒いものが走るが、だからといってどうすることもできない。はい、ありがとうございますと従うのみ……。



      *



 一方の和枝にも、文子とはおもむきの異なる辛い未来が待っている。このあたりの貧乏人のむすめたちの例にならい、小学校在学中から製糸工場に身売りされていた。和枝によれば、春子は斡旋人としてやって来た若い男から一年分の前借りをしたので、否が応でも諏訪地方の製糸工場に働きに行かねばならないということだった。


 別れを惜しんで寸時も離れようとせず、夜はひとつ布団に入って手を握り合ったり抱き合ったりしている少女たちに世の中の仕組みがどうなっているのかわかるはずもなかったが、容易でないことだけは想像できた。ことに、劣悪な環境から不治の病の肺結核に罹患する少女が多いという製紙工女になる運命の和枝の未来はどうなる?


 頭が混乱して居ても立ってもいられなくなった文子が思いついたのは、去年までの担任だった関先生に相談することだった。和枝を誘うと「わたしはいいよ。ここでは貧乏だけど岡野は金持ちの文子ちゃんと、父さんのいないわたしでは月とすっぽん、恥ずかしいから行かない」と首を振るばかりなので、文子はひとりで学校へ走った。


 

      *



 職員室にいた関先生は、堰をきったような文子の話を黙って聞いてくれたうえで「おまえたちの未来は、だれにもどうしようも出来ない、それが運命というものだ。だがな、文子、先生はおまえたちを運命に負けるように育てた覚えはないぞ。担任のあいだに自分で乗り越えていく力をつけてあるつもりだぞ」力強く励ましてくれた。


「そうだ、今日はいいものを見せてやろう。和枝も連れて来ないか」と言ってくれたので、文子は家へもどると、わたしはいいと渋る和枝を連れて再び学校へ向かった。関先生が先に立って案内してくれたのは、全校生の憧れの的の太鼓楼だった。太陽が一日中さしている八角塔はむんむんしていて、窓から浅間や蓼科、八ヶ岳が見える。


 天井に描かれている世界地図を指さして、関先生は熱のこもった説明を始めた。「いいか、この中心が、いまおまえたちがいる中田だぞ。そのまわりに川谷や岡野があり、諏訪や長野もある。もっと遠くには東京や大阪があり、海の向こうには外国の街が並んでいる。おまえたちはひとりじゃない、世界中とつながっているんだぞ」


 重苦しい表情をやわらげた和枝も頬を上気させつつ天井の地図を仰いでいることに気づいた文子は、わあっと泣き出し、いきなり関先生にぶつかっていった。やみくもに腰のあたりにしがみつくと、和枝もそれにならって関先生に体当たりしてむしゃぶりつく。八角塔の色ガラスがあざやかに穏やかに輝いて三人の師弟を見守っていた。




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