第19話 小作農の不条理を目の前でつぶさに見る 🪵



 収穫した米俵は土間に山と積まれている。祖母は一部を恭しく神棚に供えている。祖父の箱膳にも今夜は一本のお銚子がついている。春子が囲炉裏で炊くおほうとうにはお祝いの油揚げが入っている。祖父母と文子、春子と和枝、いまや肩を寄せ合う家族のようになっている五人の顔は、囲炉裏の火に照らされて、あかあかとしている。


 けれど、採り入れの喜びはその夜限りのものだった。翌日になると、どこかから大八車が屋敷へ入って来る。土間に横付けされた車の横に腰に矢立てをさし分厚い帳面を持った差配が立ち「並木から年貢米をいただきに来ました」と口上を述べ立てる。「よくお調べなさってお持ちください」慇懃に祖父が応じるのも毎年のことだった。


 並木家はこの付近一帯の土地を所有する大地主で、当主は貴族院議員でもあった。祖父母の家とは遠いむかしから親せき同士、互いに嫁にやったり取ったりする間柄だったが、いつの間にか立場が開いていまは大地主と小作人の関係でしかなく、文子の目にはあかの他人でもここまではすまいと映るほど容赦のない取り立てをして来る。


 文子は岡野の叔父の嫁が並木家から嫁いで来たとき、婚礼の上席にでんと座った当主を見たことがあるが、いかにも仕立てのよさそうな仙台平の袴をしゅっしゅっとさばきながら謡と仕舞いを披露したときの威風堂々たる様子を鮮明に覚えている。うちのおじいちゃんにも同じ格好をさせたらあんなに立派になるのかな~と考えていた。



      *



 差配が大八車を促して立ち去ると、土間の米俵は無惨に半減している。それで済むわけではなく、翌日にはまたしても大八車がやって来て、残りの半分を積み出した。がらんと広くなった土間を見て、文子はへなへなと座りこんだ。ここから春子母子に一年分の食い扶持を分けてやれば、祖父母と文子の食べる分はほとんどなくなる。


 ざっと胸算用しても、よくて春先までしか食いつなげない。この一年間の祖父母の働きはどこへ消えたのだろう。祖母を悲しませるとわかっていながら文子は「おばあちゃん、またお米を買いに行かなきゃならないね」どうしても言わずにいられない。 和枝が着物や帯どころか長襦袢まで入れたと告げた祖母の質草はどうなるのだろう。


 米商人と一緒に出かけた祖父は、夕方、機嫌よく鼻唄をうたいながら帰って来た。年に一度の現金収入に気をゆるめ、祖母の目がない街でいっぱいやって来た祖父に「よくもまあそんなにご機嫌でいられるものですね」精いっぱいの皮肉は通じない。あまりのせつなさに文子は、造り酒屋なんだから祖父の晩酌ぐらいと父を恨んだ。



      *



 そんな泥沼の暮らしに倦んだのだろう、祖父がとつぜん単身上京したのは師走の風が吹き始めるころだった。その一連の顛末は、この物語の冒頭に示したとおりだが、祖母の大反対を押しきって有り金すべてを持ち出し、東京の商売人相手に不慣れな株に賭けてみたもののすっからかんになり、木賃宿から、ちり紙の手紙を投函し……。


 いい歳の大人としてあまりの情けなさではあったが「文子を岡野へやって二十円の金を借りさせ、すぐに宿へ送金してくれ。そうしないと正月も迎えられない」という文面を見れば祖母もわなわなと胸を粟立たせ、まことに申し訳ないがと文子に頼むしかなかったのだろう。文子は文子でいまが恩返しのときと気負って使いに行った。


 自分を励ましながら岡野の家の敷居をまたぐと、義母を伴った父はぬっと立ったまま用向きを訊いた。ふところの手紙を差し出すと「困ったじいさまだ」と吐き捨て、義母が横から「こんな小さな子どもに、こんなことをさせて、叔父さんはまあ」口を添えるのを聞いた文子は、それまでの気負いがゆるんで、わっと泣き出していた。


 文子にはわかっていた、それは安堵のなみだでは決してない。甘い期待をみごとに裏切られたことへの苦いなみだだった。四キロの道をいろいろなことを考えながら歩いて来たが、岡野に着くころには、父ならばなんとかしてくれる、祖母の姪の義母もきっと親身になってくれる、くれないはずがないと堅く信じる気持ちになっていた。


 それが無惨に裏切られたことへの号泣を自分の家の畳に投げかけながら、つくづく自分はよそ者だと思い知っていた。親ならむすめと一緒に取り乱して案じてくれようと思っていたが、ふたり揃って水のように冷静で、その落ち着き払った様子が心の内を物語っている。運動会に来る気などハナからなかった事実が、いまさら痛かった。


 早く帰るように言い置いて父が立ち去ると、義母は小さな紙包みを文子に持たせて「飴だよ、おばあちゃんにやっておくれ」と言った。とそこへ酒蔵から四歳になった弟と、子守におぶわれた妹がやって来た。一郎と民子だった。このままこの家にいて可愛い弟妹たちと暮らしたい。文子は一瞬だけ甘い夢を見ることを自分に許した。



      *



 中田に帰ると祖母が抱きしめるように迎えてくれた。義母が持たせてくれた飴は「和枝におやり」ひと言だけ言って中身を見ようともしなかった。祖母には父が応諾したことだけを告げた文子が和枝に泣きながら一部始終を話すと「じゃあ、父さんがなんとかしてくれるんだな、文子ちゃん、よかったな」大人びた返事が返って来た。


 翌日の午後、紺の縦縞のスーツの上着ポケットから白いハンカチを覗かせた父親が中田へやって来て、やつれたひっつめ髪をうなだれさせた祖母に「がんぜない文子にこんな心配はさせないでいただきたい」不機嫌に告げた。文子は全身が、かっと熱くなった。祖母がなぜこんな思いをしなければならないのか、怒りが雄叫びをあげる。


 それから何日か経った夜、門のくぐり戸がぎいっと鳴って、こっそり祖父が帰って来た。頬がこけ、白髪も増え、めっきり老けこんだ祖父は、呆れたり安堵したりしている祖母に詫びも言わずに「おい、夕飯はまだだぞ」と言った。祖母は握りこぶしをぶるぶるさせて「だからあれほど止めたのに、せっかくのお米の代金をみな……」


 ふたりの言い争いを悲しく聞きながら、どっちがわるいというのでもない、大好きな祖父母を苦しめるのはがんじがらめの世の中の仕組みであり、さらには、むすめを預けっぱなしにしておいて申し訳ないでもない父と義母であると、文子は確信する。だれかこの仕組みをなんとかしてくれないものだろうか、心ある大人のだれか……。




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