第6話 やさしく美しい八重母さんとの儚い思い出 👘
生みの母親の顔も知らないうちに永訣し、じつの父親にはまったく顧みられない。そんな孫むすめの宿命が不憫でならず、目に入れても痛くないという諺の何十倍もの愛情を注いでくれる祖父母と一緒に暮らしていても、文子にはいつも両親への憧れ、砂漠の旅人のような飢えがあった。どうしてわたしには父さん母さんがいないの?
自分ではどうすることも出来ない不条理への怨念は小さな全身を隅々まで侵食し、心の底でいつも泣いている自分を認識させずにおかない。この世に生まれて来て楽しいとかよかったと感じることがほとんどない索漠とした日々に堪えていることを祖父母も知らなかっただろう。幼いながら本心を隠す術を文子はすでに身につけていた。
そんなある日、祖母がさりげない口調で「文子や、岡野のお祭りに行って、新しい母さんに会っておいで」と声をかけてくれ、かたわらの祖父が「うん、それがいい。おじいちゃんが連れてってやるぞ」と呼応したとき、文子の胸はとくんと高鳴った。新しい母さんとはどういうものかわからないものの、甘い期待が胸にひろがった。
*
あたたかな陽光がまばゆい春の空に、浅間山が白いけむりを吐いている。あの山はいつだって文子を見守ってくれている、ほんとうの父さんのような山。背中に活火山を感じつつ祖父に手を引かれて歩いて行った。中田ととなりのまちを隔てる千曲川に橋が架かっていた。そこから川面を見ると、母さんの笑顔のようにぴかっと光った。
ほんとうは母さんの笑顔がどんなものか知らないが、きっと悠揚と流れる千曲川のようにやさしく包みこんでくれるにちがいないという気がしていた。ふたつの下駄の音を聞きながら四キロの道を進んで行くと、祖父から文子の家だと聞かされていた岡野の屋敷に着いた。門の前の戸板にむずかしそうな墨字が並んでいる光景が珍しい。
玄関先で祖父が声をかけると、奥からきれいな若い女の人が小走りに出て来た。祖母と同じ丸髷に結った髪に朱鷺色の櫛をさしている。あざやかな濃紫色のメリンスの前掛けが色白のうりざね顔によく映えて、なんともいえぬ風情を醸していることが子どもの目にもよくわかった。もしや、この美しい人がわたしの新しい母さんなの?
そう訊きたかった祖父は早くも廊下に上がりこんでいて、好物の酒のご馳走になるつもりらしかった。「あなたが文子ちゃんなのね、まあ、なんて可愛らしい子なの。はじめまして、わたし八重というの、よろしくね」文子の目の高さまでしゃがみこんだ女の人は、ずっとむかしから知っているようなやさしい口調で話しかけてくれた。
そればかりかひょいと抱き上げると「可愛い可愛い、文子ちゃん~」うたうように言いながら、何度も何度もゆすりあげてくれた。いい匂い、新しい母さんの匂いだ。文子はあまりの幸福感にうっとりしながら、細い首に両手を巻きつけて甘えた方がいいのだろうかと思ったが、恥ずかしくてできず、ぎこちなくゆすりあげられていた。
*
八重母さんはむかしから母さんだったかのように、おずおずと委縮している文子を岡野の家の一員としてごく自然に迎え入れてくれた。時分どきになって台所へ連れて行かれると、中田の家で見かけたことがある父さんがいたが、陰気に俯いたまま食膳に居並ぶ異父弟妹たちの目を憚るかのようにすぐに席を立ったので、文子は困った。
もじもじしていると八重母さんが「文子ちゃんはここよ、わたしのそばにいてね」抱いてとなりに座らせてくれた。そのうえ「お魚の骨を取ってあげるわね」「ごはんやお煮しめも召しあがってね」ことごとにやさしい微笑みを惜しみなく添えてくれるので、文子はまるで夢のなかにいるようで、現実の出来事とは信じられなかった。
そればかりではなかった。大家族の食事の片付けを手早く済ませた八重母さんは「文子ちゃん、どれだけ重いかおんぶさせてみて」と華奢な背中を向けてくれ、街道で行われる祭りの出し物見物に連れ出してくれたのだ。使用人に頼んで
もうひとつの床几には父さんが座って、はじめての親子三人水入らずで祭り見物をするのだろうと子ども心にも思っていたが、いつまで経っても父さんはすがたを見せなかった。それにかまわず八重母さんは自分の膝の上に文子をのせると、小さな声で子守唄をうたいながら、ほがらかに軽快なリズムで文子をゆすってくれていた。
*
夢のような時間を過ごし、酩酊した祖父に連れられ夕暮れの道を中田へもどると、門のところで待ちかまえていた祖母が性急に様子を訊きたがったので、岡野の出来事をつぶさに報告する。「よかったよかった、そんなにやさしい母さんだったのかい」手放しでよろこぶ祖母の笑顔を得て、またうれしさが何倍にもふくれる文子だった。
大家族に命を擦りきらされた絹母さんと同じ立場とは信じられないほど陽気な八重母さんが文子にとって父方の祖父に当たる五郎の生家の出であり、造り酒屋の手塚家とは古くからの縁戚筋にも当たり、家業が代々郵便局長だったこともあってか地方には珍しく外に開けた進歩的な家風に育ったことを文子はのちに祖母から聞かされた。
文子が可愛くて仕方がないものの、本来ならば手塚家の孫として育つべきであり、成人まで責任をもって育てるには老い過ぎている自分たち夫婦を思えば、新しい母に早く馴染ませ、一日も早く引き取ってもらうことが文子のためと祖母は考えていた。孫を老いの慰めとして積極的な働きかけをしようとしない祖父との差がそこにある。
父の平太にしても同様で、なんとなく歳月を過ごしていれば、面倒な文子の処遇もなるようになると都合よく思っていた節があるのは、現実から目をそむけがちな男性に共通のものであったかも知れない。とにもかくにも、薄幸を一身に負って生まれて来たような文子にとって、八重母さんの出現は掌で大事に温めたい希望の灯になる。
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