第5話 この子はどうかお母さんの手で育ててください 👶



 万事に行き届かない平太に代わり舅の五郎から絹に里帰りの許可が出たのは文子が生後九か月になったときだった。世間的には大旦那が嫁の疲労を見かねての配慮だろうとされたが、なに、いくらわかったようなことを言っても所詮は家カーストの頂点に君臨する男に最下位の嫁のなにがわかろうか、のちに文子は冷静に分析してみた。


「絹や、中田へ帰って来たらどうかな。おじいさんおばあさんも孫を見たかろうに」

「はい、ありがとうございます。でも、お義父さま、うちのことはどうしましょう」

「なにそんなもの、あんたがいなければいないで、だれかしかなんとかするわい」

「そういうものでしょうか……なら、お言葉に甘えて、里帰りさせていただきます」


 二十四歳の女ざかりとは思えないほどやつれ果てた絹は、赤子をおぶって四キロの道をあえぎあえぎ、一時間半もかけて中田の生家にたどり着くと、茶の間の畳に身を投げて、驚いている母親の喜井に早く布団をと所望した。それきり寝ついてしまい、高熱を発して赤子の世話どころではなく、喜井は文子をおぶって看病に明け暮れた。


 そんな妻子の前で徳二は相変わらず天下国家を論じ、重病のむすめに日記を読ませようとして「本当に男というものはどうしようもない。こんなもの見るもいやだ」と喜井を怒らせていた。当初は、風邪ひきぐらいで大騒ぎするなと言っていた徳二も、むすめのただごとでない様子に婚家への知らせや医者の手配などに重い腰をあげる。


 

      *



 母親の乳房を恋う孫むすめをおぶったままの喜井の昼夜ない看病にもかかわらず、絹の命の芯は細くなる一方、高熱のうわごとに呟くのは文子のことばかりだった。「お母さん、どうかお願いします、この子はお母さんの手で育てると約束して」何度も懇願せずにいられない絹の心情が哀れでならなかったと、喜井はのちに述懐する。


 わずか二年余りの婚家での暮らしだったが、絹はひたすら重労働に明け暮れながらあの家の構図をしっかりと把握していた。舅の五郎の下に義理の息子の平太がおり、少し離れた位置にじつの子どもたち六人がいる。その世話を一手に引き受けていた絹が不在のいま、大家族の生活秩序がどうして保たれているか、思うだに恐ろしい。


 そんなところへ母親を亡くした乳飲み子が入ったらどう扱われるか、死期を悟った絹は動けない心身でどんなに案じたことだろう。「なに弱気なことを、おまえがいてこその文子じゃないか」と言う一方で「承知したよ。なにも心配はいらない、わたしが文子を責任をもって育てるよ」喜井はむすめに約束するしかなかっただろう。



      *



 老親の慟哭のなかで絹が息を引き取ってから駆けつけて来た平太は、親せき一同が見ている前で亡妻に添い寝して「絹、絹……絹はどうして死んだ、どうして死んだ」と泣いたが、むすめへの非情ぶりをつぶさに承知している喜井のまなざしは、なにをいまさら、生きているうちに大事にしてくれればよかったのにと冷ややかだった。


 徳二は「平太にも事情があるんだろう」ものわかりのいいところを見せていたが、絹の遺骨を持ち帰ったきり、遺児の文子のこれからのことにはいっさい触れずじまいだった婚家の態度にはさすがに眉を曇らせて、ぶるぶる拳を握りしめた喜井の「はなからこの子を育てる気などありゃあしないんですよ」に同調せざるを得なかった。


「あんたは呑気なことばかり言いますが、世の中の薄情ったらそんなものですよ」

「いや、わしとてなにも……それにしても、あちらは孫がかわいくないのだろうか」

「わたしらが黙っているのをいいことに厄介払いしたぐらいに思っているんですよ」

「それにしたっておまえ、跡取りの総領だぞ、ふつうなら乳母日傘で育てるだろう」


 ことここに及んでもまだ、愛むすめ逝去の五日前に始まった日露戦争への懸念を口にしたがっていた徳二がそうも言っていられなくなったのは、実質的な大黒柱である喜井が寝ついたからだった。乳と母親を恋しがって全身で泣く赤ん坊を徳二だけではどうしてやることもできず、伝手をたどっての里親探しに奔走することになった。


 さいわいにも近くの平原村に、文子と数か月ちがいの乳児をもつお福が見つかり、藁にもすがる思いで打診してみると「ええええ、どんなにかお困りでしょうに。なにひとりでもふたりでも同じこと、わたしに育てさせてくださいまし」ふたつ返事で引き受けてくれ、夫の茂市と連れ立って、文子を引き取りに出向いてくれたのだった。




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