第4話 酒蔵の大家族に擦りきらされた生母・絹の命 👘



 十か月で永訣させられた生みの母親の記憶を文子が留めているはずがなかったが、多感な成長期、つい愚痴に走りがちな祖母の口から何度となく繰り返し聞かされつづけたせいか、いつの間にか胸の小部屋にたおやかで美しい女人像を棲まわせていた。のち身内の冷淡な処遇に遭遇するたび、その像は母恋に色濃く上書きされていく。


 零落した庄屋の長女としてお針の弟子をとって家計を支えていた絹のもとに、年間に清酒六百石、焼酎三石の醸造高を誇る街道の造り酒屋から縁談が舞いこんだのは、偶然といえば偶然のなりゆきからだった。その家の当主の五郎は入り婿で、実質的な権限は跡取りむすめのお幾が握っていたが、そのお幾が絹のうわさを聞きつけた。


 ひとり息子の平太をのこして先の夫が早逝したとき、しっかり者で知られたお幾もさすがに打ちのめされ、一時は長野善光寺に出家しようとまで思い詰めたが、家付きむすめにわがままは許されず、五郎と再婚して六人の子をもうけた。そして、生まれついて気の弱いところがある総領の平太を跡継ぎにするため気丈な嫁を探していた。


「男子が何人いても、この家の総領は平太と決まっています。いいですね、あなた」

「むろんだよ。そうでなきゃ秩序がとれないからな。にしても平太ももう少し……」

「なにをお言いやすか。あのやさしさがあの子のいいところ、家長の貫禄ですよ」

「もちろんさ。立派な跡継ぎになるためにもいい嫁が来てくれるといいのだがな」


 そこに白羽の矢が立ったのが絹だった。造り酒屋の親せき筋は「あんな貧乏な家のむすめを」と反対し、一方の庄屋側では「金持ちといえど新興の造り酒屋風情が」と埒があかなかったが、絶大な発言権と気風をもつお幾の鶴の一声でねじ伏せられた前者の遣いが何度となく庄屋宅を訪ねて来て、ほぼ根負けした格好で縁談が成立した。



      *



 ところが、正式な縁組が決まり、さてこれからというときに、その立役者のお幾が急逝したのが絹の不運のはじまりとなった。いまさら破談にするわけにもいかず、にわか仕立ての格好で祝言をあげると、その翌朝からさっそく大家族の炊事や繕物など家事のいっさいが華奢な肩にのしかかった。舅の五郎、夫の平太、十九から五歳までの義弟妹たちに加えて酒蔵や台所の下働きの使用人たちまで少なくとも二十人……。


 そのおさんどんを新米主婦の絹が一手に担わなければならないのだ。仄暗い酒蔵のなかに掘られている釣瓶井戸には、小柄な身体には過重な大ぶりの樽が結んであり、それで日に何度も水を汲み上げて母屋の台所へ運ぶ。三度の食事の支度のうえ人数分の洗濯や縫物、さらにランプを頼りの酒袋の修繕までが主婦の夜なべ仕事だった。


 嫁いですぐに絹は自分の限界を感じたが、姑に当たるお幾は苦もなくこなしていたという既成事実の前に弱音は吐けない。寝る間も惜しんでがむしゃらに働いたうえ、造り酒屋独特の年中行事には蔵人や店の従業員、酒の運搬人など数十人にふくれあがる人数に鯉のあらい、ひたし豆、数の子、おひたし、タラの吸い物などを馳走する。


 蔵人の帰省時に手土産として持たせる反物や前掛けなどの手配も、舅の五郎におうかがいを立てたうえで嫁の絹がとり行わなければならず、精いっぱいの笑顔のかげで酸っぱい息をつきながら、生前のお幾がほかの嫁候補には目もくれず、生来の極貧に鍛えられた絹の気丈と明るさに固執した理由があらためて明快になる思いだった。



      *



 そんな日常のなかでの妊娠と出産がどんな結果をもたらせたか、大人になった文子はあまりに痛々しくて考えてみるのも辛かった。身重の過労に堪えて里帰り出産した絹に夫の平太が見舞いに来なかったことを祖母の喜井は「心根の冷たい男」と言って憚らなかったが、それも当然だと思う、いくら先夫の子の遠慮があるとしても……。


 日ごろの過労がたたって産後の肥立ちがよくないのに無理を押して婚家にもどった絹には、再び容赦のない日々が待っていた。乳飲み子の世話だけでも大変なところに以前と変わらない大家族の造り酒屋の主婦としての重労働……というよりもむしろ、唯一の女手である絹の留守を責め立てるようにたくさんの仕事が押し寄せて来た。


 本来なら盾になって庇ってくれるべき夫の平太は、頑固一徹な義父や多勢に無勢の異父弟妹たちを気にしながら「絹、身体は大丈夫か」「絹はおれのものだからな」と抱きしめはしたが、かといって日々刻々やつれてゆく妻の過重労働を減らす手立てを講じるでもなく、ただ漫然と無償労働の厚意に甘えているだけの体たらくだった。


 もっとも女性の苦労に冷淡なのは、ひとり平太だけではなく、この時代の男たちに共通のものだったかも知れない。祖母の喜井に役立たずと思われている祖父の徳二にしても、女子を産んだ産褥のむすめに「このつぎはきっと男子を産め」と言い放ち、その口裏で天下国家を論じてみせて、いっそう老妻の嘆きを買っていたのだから。




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