第3話 赤い被布でおりこうさんに待っているんだよ 🎡



 あくる朝、母ちゃんとおうちへ帰れるものだとばかり思っていたが、その母ちゃんの態度が昨夜とは急変しており、見たこともないほど冷淡だったので、文子は自分がわるいことをしたのかと慌てた。その母ちゃんが珍しく怖い顔で言うのだ、おなかが痛くてお医者さんに行かなければならないから、おばあさんとお留守番していてな。


「ええっ!! いやだよいやだよ、わたしも一緒にお医者さんのとこへ行くよ。文子、いつもよりもっとおりこうにしているから、ね、お願い、母ちゃん!!」「聞き分けのないことを言うものではないよ、ふみちゃんはお留守番していて」「わ~ん、いやだいやだ!!」「お医者さんでは注射されるんだよ」「いい、ちっくんされても、いいよ」 


 乳母も子も泣きのなみだの修羅場を見ていたおばあさんは、鋭く眉を吊り上げると泣きじゃくっている文子に背を向けてしゃがんだ。お福がおぶわせようとしても文子は小さな全身ではげしく抵抗するばかり。ああ、そうだというようにお福が言った「母さんが縫った赤い被布、あれを着て待っていてくれたら、母さん、うれしいな」


 お気に入りの晴着にくるまれた文子の泣き声は、ようやく少しだけ小さくなった。泣き疲れて、不承不承ながらおばあさんの背におぶわれたすきに、お福はそそくさとすがたを消し、それからは文子がどんなに呼んでも、二度と現われてくれなかった。わけがわからない文子の心はずたずたに傷つけられ、大人になっても痛みつづける。


 母ちゃん、母ちゃんと悲しく叫びつづける孫を持て余した祖母は、昼も夜も若くはない背に四歳児を負ったままで数日間を過ごさねばならなかった。一方、お福はお福で文子が案じられてならず、子煩悩の夫に頼んで八キロの夜道を何度も庄屋屋敷まで忍んで来ていたことも、小学校へ上がってから祖父母に聞かされたひとつ話だった。



      *


 

 夫婦そろってこの上ない善人であり、じつの子どもたちとまったく分け隔てのない愛を無条件にそそいでくれるお福とその夫のふたりに出会えたことは、生まれついて肉親の縁に薄い身には、むしろ残酷な神の采配だったかも知れない。のちにそう振り返ったほど、生後十か月の身を託された先は波瀾の人生の稀少なパラダイスだった。


 物心もつかないころの出来事をなぜあれほど鮮明に覚えているのか、長じて文子は不思議に思うことがあった。祖父母に引き取られてから次々に降りかかって来た受難のあまりの苛烈さにつかの間の幸せがかえって際立ったのか、それとも無意識に実際以上の美談仕立てにして、ほおずきのような灯りをそうっと温めたかったのか……。


 文子の記憶の乳母夫婦はいつもやさしかった。何か月か先に生まれていた女の子とお福の豊かな乳房を仲よく分け合い、いくつか年上の男の子と三人、仔犬の兄妹のようにじゃれ合って、貧しいなかにも笑顔の絶えない幸せな生活を営んでいた。それなのに「じつの家族ではなかった」などと急に言われても、だれが納得できようか。



      *



 お福という名のとおり情愛深い養母の連れ合いにふさわしく養父もまた極めつきの善人で、集落から集落へと渡り歩く大八車にちびっこ三人を乗せ、陽気に『木曾節』を唸りながら醤油や菜種油の量り売りの行商に精を出していた。駄菓子屋では豆板やみじんぼうなどの菓子を三つずつ買ってくれる。それが子どもたちの楽しみだった。


 帰路の兄妹は疲れて眠りこむのがいつものことで、荷台のちびっこたちに自分の半纏や薄い布団を掛けてやった養父はそれからは黙々と家路を急ぎ、家の前を流れる堰で鍋釜や茶碗、下着や布巾から雑巾までなんでもかんでも洗って家族を迎える用意をしている妻に笑顔で近寄ると、ぐっすりと眠りこけている三兄妹を手渡してやる。


 そんな楽しい日々がとつぜん断ちきられたのだ、祖母の困惑をよそに幼い文子が何日も泣きやまなかったのは当然だった。わあわあ泣きじゃくる孫娘を背負って途方に暮れているとき、祖父はといえばどこか他人事で「なに、そのうちに諦めるさ」と呟いたきり子守の援けもせず、悠長に時事日記をつけたりして老妻を呆れさせていた。


 ――文子を引き取る。むすめ絹の遺言を守って。この年は明治三十九年なり。昨年一月は旅順開城、二月は奉天開戦、五月は日本海海戦と戦況はげしくなり、ついに大詰めに来たりたるなり。而して九月ポーツマスにて講和条約が結ばれたり。これアメリカ大統領ルーズベルトの斡旋なりき。


 乳母に預けておいた孫を引き取るという家庭内の重要事項よりも、政治家でもあるまいに日露戦争の顛末を長ながと記す夫の日記を、文字を知らない妻が読めなかったことは幸いだったかも知れない。のちに文子は思ったことだった。もし知っていたら「まったく男っつうもんは呑気なもんだで」程度の愚痴では済まなかっただろう。




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