第1章 生まれついて家族に縁の薄い少女
第2話 せめてあと三年、いえ二年なりと、どうか…… 🎠
物心ついた文子の最初の記憶にある、それも小さな全身が水浸しになるほど大量のなみだは、三つ子のように育った兄妹とともに「母ちゃん」と呼んで存分に甘えていたお福母さんのふっくらした、でも張り裂けそうな苦痛にゆがんだ顔を伴っている。そのとき文子は母親と信じていた女性から無理に引き離されたことを、のちに知る。
ふみちゃん、おいで。今日はいいところへお出かけするんだからね。そう言われて疑いもなく母ちゃんの背におぶわれ、どんないいところへ連れて行ってくれるのかとワクワクしていたら、着いたのは長い土塀の先に大きな黒い門のあるお屋敷だった。そこで立ち止まった母ちゃんは、息を整え、背中の文子にやさしく言い聞かせた。
「さあ、ふみちゃん、おばあさまのおうちだでね。ここから、あんよできるかな」
「おばあさまって、だあれ?……いやいや、ふみこは母ちゃんのおせながいいの」
「困ったふみちゃんだね。そんな聞き分けのない子に育てた覚えはないんだけど」
「いやだったらいや。ふみこはずっと母ちゃんのおせなにいるの」( ノД`)シクシク…
にわかに足取りが重くなった母ちゃんは、一歩一歩、まるで自分を励ますようにして庭石を踏んで行く。左手に澄んだ水を湛えているふたつの大きな池の向こうには、腰かけみたいに幹の曲った老赤松や葉を散らせた銀杏、桃や杏などいろいろな樹木が生い茂っていて、手入れが行き届かないのか枯れた下草がもじゃもじゃ生えている。
*
勝手口から母ちゃんと同じ丸髷の女性が出て来た。だが、子どもの目にもかなりの年輩に見えるので、このひとが母ちゃんの言う「おばあさま」なのかなとなんとなくわかったような気がしたが、そのおばあさまなるひとと自分の関係については見当もつかない。わたし、このお屋敷で遊んだら、母ちゃんとおうちへ帰るんだよね……。
「まあ、よく来なすったなえ。さあさあ、こちらへ」年輩の女性が先立って案内してくれたのは日当たりのいい茶の間の縁側だった。縁石の隅に履き古した下駄を脱ぎ、遠慮がちに背中の文子をおろした母ちゃんは、いざるようにして畳に上がると、自分の膝の横にぴたりと文子の小さい膝を置いて「本日は……」ていねいに頭を下げる。
「まあ、やだよう、お福さん、そんねにあらたまって他人行儀なことを……」「いんや、大奥さま、せっかくお預かりしたのにろくなお世話もできんで申し訳ごわせん」「なにを言うかと思えば、こっちこそ預けっぱなしで申し訳なかったと思うてるよ」互いに詫び合う挨拶を、お福にしなだれかかった文子は小さな全身で観察していた。
*
最初の口上がようやく途切れたところで「大奥さま、今日はお願いが……」お福があらたまった口調で切り出しかけると、「まさか、お福さん?!」急いでおばあさんがさえぎった気迫が存外に強かったので、文子は思わず母ちゃんの着物を握り締める。「もしお許しいただければ、小学校へ上がるまで」「いんや、それはなりませぬぞ」
「四歳までお育てしたお子とお別れするのは、わが身を引きちぎられるように辛うございます。お願いでございます、せめて、あと三年、いえ二年なりと、どうか……」「孫をそこまで愛しんでくれてありがとうよ。けれど、長く暮らせばそれだけ愛着が増そうというもの、むごいようだが、ここで別れるのがお互いのためではないか」
秋の日が射しこむ茶の間で子どもの目にも緊迫したやり取りが交わされたあと、「よく分かり申した。わがままをお許しくだせい」お福は自らに言い聞かせるように力なくつぶやいた。文子は母ちゃんから捨てられるような気がして怖くなったが、「それじゃあ、今夜はふみちゃんと泊めていただきやす」の言葉に少し安心する。
おばあさま心づくしの夕餉には、どこかから忽然と現われた年輩の男性も加わって「おおおお、文子か。よく来たな~」と頭を撫でてくれようとしたが、文子は怖くて母ちゃんの背中に隠れた。その夜、座敷の客用布団に休んだ乳母と子は、だれに遠慮なく抱き締め合った。文子は両方の乳房をひとり占めできる幸福にひたって眠った。
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