第7話 慕わしいひとはみんないなくなるんだね 💧
文子が、きれいなお菓子の小箱の宝石のように慈しんでいた八重母さんが岡野の家から忽然と消えていたことを祖母から知らされたのは、その年の秋口のことだった。春祭りのときの甘酸っぱい思い出を抱きしめて、折々に祖父母が匂わすように自分を迎えに来てくれるものと信じていたのに、文子になにも言わず立ち去っていた……。
(え、どうして? 八重母さんはなぜわたしに黙ってどこかへ行ってしまったの? 半年前のお祭りのときあんなに可愛がってくれたのは、継母として外聞を取り繕っただけだったの? 膝に抱きあげてくれて、やさしくゆすってくれた肌のぬくもりも「文子ちゃん、文子ちゃん」という明るい声も、なにもかもみんな嘘だったの?)
顔も覚えていない生母の絹はもとより、実子と分け隔てない愛を注いでくれた乳母のお福、そのふたりの母親を奪われた虚しさを三番目の八重母さんがようやく埋めてくれると信じて疑わなかったのに、大人たちはどうしてこうまで身勝手なのだろう。ひとりのさびしい子にささやかな安らぎも与えてくれないなんて、みんな意地悪だ。
「おばあちゃん、教えてください。なぜわたしは母さんから遠ざけられるのですか」
「ほんとになあ……このおばあちゃんにもどうしてやることもできない、ごめんよ」
「そうじゃない、おばあちゃんはおばあちゃんとして大事なんだけど母さんは……」
「よ~く分かっているともさ。ふつうなら母も祖母もいて当たり前なんだからなあ」
どこにぶつけようもない悲しみの的は、幼い理屈をめぐらせて実父の平太に絞られていった。あんなに明るくて朗らかな八重母さんを家にいられなくしたのは父の平太だろう。初めての親子三人の顔合わせとして八重母さんが整えてくれた祭り見物に、とうとう最後まですがたを見せなかった父の冷たさがすべての根源にちがいない。
*
再婚のご祝儀にも声がかからなかったので、ついに八重母さんには会わずじまいとなった祖母は「従順な絹を気に入っていた平太さんは、性格が逆の八重さんと反りが合わなかったのだろうよ」と言っては自分を慰めているふうだったが、幼くして逆境に揉まれ心の成長のスピードが速い文子にはむすめ贔屓の都合のいい解釈に映った。
祖父母のいないところを見計らい、無垢な耳に善悪ごったな情報を注ぎこんで幼い反応を楽しむつもりの大人たちのうわさ話から推測すれば、狭い地域の唯一の外部との連絡口である実家の郵便局でおのずから身に着けた開明的な考え方が、おどおどと気弱で憶病、なにより変化を恐れる平太に受け入れられなかったにちがいない。
「文子ちゃんはかわいそうな子だよ、今度の母さんにもまた逃げられたんだってな」
「夫婦別れはどっちにも原因があるのが相場だから、どっちがどうとは言えんけど」
「だとしても、八重さんのおっかさんという人がなかなかのハイカラもんだそうで」
「そこだわい、嫁のもらい手がねえっつうんで無理に造り酒屋へ押しつけたとか」
自分の健康状態も顧みず、舅や夫、六人の小舅小姑たちに気に入られたいがために日に何度となく台所と釣瓶井戸を往復し、細い身体を擦りきらせた先妻の二の舞を踏むまいと覚悟して嫁いで来た八重母さんが、白芙蓉の花が咲いたように清潔な笑顔を広げればひろげるほど平太の眉間に刻まれた縦皺は陰気な太さを増していったのか。
*
そんな暗い家に黒く塗りこめられそうになり、呼吸も出来なくなった八重母さんが小諸へ上田へ、ときには長野へと遠出をするようになったとき「先妻の絹や亡母は年に何度も門の外へ出ようともしなかったのに」と父さんは理不尽な理屈を並べ立てて八重母さんをなじったろう。義父の五郎も八重母さんを庇ってやらなかったのだ。
見ていたようなやり取りが幼い文子の脳裡に組み立てられ、動かしがたい事実として走り根をめぐらせた。あんな父さんなんか、いらない。血のつながりがなくても、八重母さんこそわたしの母さんだ。その大切な母を奪った父が憎い。憎くてたまらないが、わずか六歳の身にはどうしようもない。文子はひっそりと泣くばかりだった。
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