第12話 参勤交代の殿さまのお泊まり処だった庄屋屋敷 🏯
文子が育った祖父母の家は、そのむかし庄屋と呼ばれて村人の尊崇を集めていた。その十何代目かの家長である祖父は、維新という大変革から始まった零落に甲斐性のない自分の代でいっそうの拍車をかけたにも関わらず、いや、そうであればあるほど反動としてのそれだろうとだれの目にも映ったように、気位だけは高いままだった。
道を歩いていても、むかし気質の村の男衆が「これはこれは庄屋さま、今日はいいお日和でございますなあ」丁寧に頭を下げるのに「ほい!!」ぽいと吐き捨てるような返事で済ますので、人びとは孫の文子に聞えよがしに「相変わらず頭が高いなあ」「貧乏が極まるにつれいっそうふんぞり返ってござる」かげ口で鬱憤をぶつけた。
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そんな祖父の連れ合いになった喜井は、中田から二十キロばかり離れた平川集落の本陣のむすめで「お駕籠に乗せられて運ばれて来て、座敷で綿帽子をとって夫となるひとの顔をはじめて見たとき、心底からがっかりしたもんさ」というひとつ話をするとき喜井の頬は若やぎ、祖父も文子もどっと笑い合うのが長年の情景になっていた。
祖父がいまも家宝として大事にしているのは「殿さましかお上がりになれなかったんだぞ」ひれ伏さんばかりの敬語で奉る玄関につづく、中の間と上段の間、入り側と呼ばれる廊下、そして、日ごろは締めっぱなしのかび臭いところに仕舞っておいて、盂蘭盆会のときだけ取り出してくる「越前守御宿」と筆太に書かれた戸板だった。
(なんだかお化けでも出て来そうだよね……同じ屋根の下にこんな部屋があるだけでも気味がわるいのに、おじいちゃんはなぜお盆になるといそいそと古めかしい戸板をわざわざ出して来るんだろう。わたしにはなんの興味もないけど、秘密の部屋の前のいい具合に曲っている赤松の幹に腰かけて青空を眺めたら晴ればれするだろうな~)
中山道と甲州街道をつなぐ中田は各藩主の参勤交代の宿所になっており、村びとのだれも近づけない高貴な宿として、庄屋は周囲を睥睨していた。いまは見る影もなく落ちぶれながら、色褪せた着流しの古びた博多織の角帯に、時代がかった煙草入れを挟み、長身を頼りなく風に吹かれて歩く徳二は、時代錯誤の象徴そのものだった。
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祖父母と孫むすめの三人家族がふだん使っているのは、二十畳の茶の間と次の間、台所の三部屋で、とっくに競売にかけられて目ぼしい家財がなくなった茶の間には、仏壇と神棚ばかりが異様なほどの権勢を誇っているように文子の目には見えていた。茶の間の横の薄暗い納戸は代々の女たちの産室であり、隠れ泣く場所でもあった。
十六歳で嫁いで来た喜井はこの納戸で六人の子どもを産んだが、そのうち三人は早逝させ(文子の母の絹もそのひとり)、のこる三人も決して幸福とはいえない人生を送っていた。なかでも筆頭は総領のひとり息子で、中学を出ると、不甲斐ない父親に反旗を翻すかのように海外に活路を求めてカナダへ渡って一度も帰って来ていない。
(おばあちゃんがいつも苦労をかけてと申し訳ながっているおじさんとはどんなひとだろう。自分から進んで外国ヘ行くほどだから、きっと心が大きく開けたひとにちがいない。ああ、帰国が待ち遠しいなあ。絹母さんの兄さんだから、母さんの代わりにわたしを可愛がってくれるかも知れない。ううん、きっとそうだよ。楽しみだな)
その息子のため陰膳を据えて無事を祈る喜井は、貧しい暮らしに組みこまれているらしいカナダからの仕送りを待ちわびていたが、少しでも連絡が途ぎれると心配して八卦見のお花婆さんに走ったり。その息子から「せっかくの送金が父上の借金に流れるので張り合いがない」という手紙が来ると、祖母は祖父の目を見ずに小言を言う。
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成長盛りの少女にとって本能的に堪えがたかったのは、年寄り夫婦の醸し出す過去の気配だった。このふたりには辛かった過去があるだけで、未来というものがない。その事実がこれから存分に伸びようとする芽をいかに蝕むかを、本人たちがまったく気づいていないのが全面的に世話になっている身には口惜しく、やりきれなかった。
文子は祖母から家事の手伝い、とりわけ、拭き掃除の仕方を徹底的に仕込まれた。黒光りする廊下や戸板は主婦の誇りなのだよと教えられ、そのとおりだと思ったし、幼いころからのランプのほや磨きで仕事の段取りやコツも自然に覚えた。夕方は丼を持って豆腐屋へお使いに行き、人っ子ひとりいない道の夕映えの美しさも知った。
(おばあちゃんは親から学問を止められていたから、おじいちゃんのように新聞や本は読めないし、手紙ひとつ書けやしない。それどころか、この門からめったに外へ出たこともないけど、場合によってはおじいちゃんより大事なものを持っているひとだと思う。仕草や顔かたちは女そのものだけど、もうひとつの大黒柱みたいな……)
母親のいない文子はいつまでも祖母の乳房に甘える癖をやめられず、甘えついでに家鳴りの怖さを訴えると「夜のさびしい音にだけ耳を奪われてはいけない。昼間はもっとにぎやかな音がいくらでも聞こえるだろう」と抱きしめてくれて、長じた文子が「困難の雲のかなたには明るい太陽の存在がある」と考える礎をつくってくれた。
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