第2章 中田尋常小学校で育まれた一本の強い芯

第11話 絵硝子と太鼓楼のギヤマン小学校に入学する 🏫



 桜はまだかたい蕾だが、雲ひとつなく晴れわたった青空に浅間山が白いものをうすく立ち昇らせて小さな新入生の門出を祝ってくれている。門に立って見送る祖母に手を振った文子は、ことさら元気よく歩き出した。岡野からはなんの音沙汰もなかったが、一張羅の花柄の晴着を着せてもらい、お下げ髪に赤いリボンまで結んでいる。


 ほかの子どもたちはみな若々しい親に手を引かれ、うれしそうに頬を染めているのに、自分ひとり、貧乏やつれした枯木のような祖父に連れられて入学式に行かなければならないことを、文子はもう惨めとは思わなかった。真夏の炎天下の水筒のようにそれを渇望しても、肝心の両親にその気がないならどうしようもないではないか。


(そういうことを吹きこみたがる大人たちによって耳年増になっている孫の気持ちを祖父母は知らないだろう。自分が生まれたときは一度も見舞いに来なかった父が、いまの母さんに男子が生まれたときは自ら産室に足を運んで産褥をねぎらったという。このちがいは……跡取りとして将来の家業を援けられない女子は要らないのだね)


 自分は生まれついて親に歓迎されない、できれば目にすらしたくない存在なのだ。孫むすめの利発を知らない祖父の速足にしたがいつつ、文子は小さな手札型のそれも無惨に変色して輪郭も定かでないたった一枚の母の面影を懸命にたぐり寄せている。絹母さん、それに、お福母さんと八重母さんも、どうかわたしをお守りください。



      *



 明治政府の学生発布により村内の寺院を仮校舎に学校が開設された。三年後、アメリカ留学から帰郷した建築家・市川代治郎の手で、欧米のルネッサンス建築を木造化した和洋折衷の中田尋常小学校が新設された。二階のベランダ、窓の硝子戸や鎧戸、廊下の丸窓や欄干の色硝子などを見ようと、県内外からの視察者が絶えなかった。


 この学校の象徴となったのは、校舎の中心の屋上に立つ八角の塔で、螺旋階段を上ると東西南北の四方に窓が開き、天井の太鼓が村人に時刻を知らせる仕組みだったが、家庭に柱時計が普及すると、白は晴れ、青は雨、赤は曇り、白と赤の並立は晴れのち曇りというふうに、赤白青の三色の小旗が天気予報を知らせる役目に変わった。


 国旗で飾られた正門から入った祖父は、遠慮のない足取りで校長室を訪ねると、式典の準備に忙しくしている畏友に孫むすめの世話の念を押すと、そのままどっかと椅子に腰をおろして、日露戦争の手柄で広瀬中佐の銅像が立つというときに幸徳秋水ら社会主義者が大逆事件を起こすとは怪しからんなどと滔々と述べ始めた。((+_+))


 

      *



 格式ばった式が滞りなく終了すると、講堂の扉の前で紅白のおまんじゅうが五つ入った祝いの包みが手渡された。受け取った新一年生は上気した頬を光らせながら保護者とは別行動で家路をたどる。今や遅しと待ち構えていた祖母は文子から祝いの包みを受け取るとさっそく仏壇に供え「よかったよかった、今日から立派な一年生だな。一所懸命に勉強するんだぞ。そして、長生きしろよ、文子」と言って目を潤ませた。


(絹母さん、わたし、小学校へ上がったよ。お下げ髪のリボン、ほかの子たちみたいに母さんに結んで欲しかった。おばあちゃんのやり方は、きっちきちに締めるから、ちっともおしゃれじゃないんだもの……あ、そんなことを言ったら罰が当たるよね。若くないのに母さんに代わって面倒を見てくれるおばあちゃんに申し訳ないよね)


 おまんじゅうを食べているとき、台所のほうで甲高い女の声がした。立ち上がって行った祖母が「おお、よう来なさった。どうかね、引っ越しは済んだかね」と言うと「はい、むすめとふたりだけで、ほんのわずかな荷物だで」明るい声が答えている。「まあまあ、炬燵へ入って、お茶でも飲もうよ」「今日からよろしくお願いします」


 頭の手拭いを取りながら入って来たもんぺすがたは、文子も何度か見かけたことがある同じ村の春子さんだった。文子と同い年の和枝を伴っている。さきほど小学校で顔を合わせたときはなにも言っていなかったが、おそらくは文子の入学という節目に合わせて祖父母が新しい環境を準備してくれたものらしいとなんとなく察せられた。



      *



 門を入ってすぐのところに、そのむかし参勤交代の供侍が泊ったという六畳と三畳の小屋があるが、そこを片づけて母子が住めるようにしたらしい。以前から身寄りのない春子と和枝母子が同居するという話は聞いていたが、まさか入学の日に来るとは思わなかったので、文子はうれしいような恥ずかしいような複雑な気持ちだった。


 年寄りだけの陰気くさい家が、にわかに活気づいたことにも驚きの目を見張った。春子は祖母の喜井よりひとまわり若く、野良仕事や養蚕、針仕事、家事手伝いから男衆に混じっての道路普請まで、むすめの和枝を育てるためどんな仕事でも請け負って生きて来ただけに、身体は筋肉質に引き締まり、動作もきびきびして小気味いい。


 幼少期の大きな節目となる入学式の当日から同居することになった母子によって、文子の日常は一気に彩りを増し、行動エリアを広げていくことになる。祖母にとって春子、文子にとって和枝が各々の人生のかけがえのない存在として定着することを、まだだれも知らなかった。いずれにしても文子にとっては二重の喜びの日になった。




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