第10話 手もとに置かなかったから可愛くない…… 🍐



 だが、祈るような祖母の期待はまたしても無惨にへし折られることになった。祝儀から何日経っても岡野からの音沙汰はなく、いまかいまかと待ちわびるうちに何か月も過ぎてとうとう年を越し、そのうちに文子の入学時期が近づいて来た。これまでとちがい、学齢となれば子どもの所在を明確にする必要があることは言うまでもない。


 なのに気を揉むのは中田の祖父母だけ。いつまでもなにも言って来ない岡野へ自ら交渉に行くと言い出したのは、それまで「新婚なんだから大目に見てやろう」「時期を見て来るつもりだろうよ」など先方の立場を忖度する言動で祖母を苛立たせていた祖父だった。孫可愛さの問題の先延ばしが許されないタイムリミットが迫っている。



      *



 しかし、単身で岡野へ乗りこんで行った祖父は珍しく酒の匂いもさせず、荒々しく憤慨しながら帰って来て。「あのな、平太はな、文子が可愛くないんだとっ」「えっ、いまなんて?!」「手もとで育てなかったから、文子が可愛くないんだとよ!!」「なんということを!! 自分で引き取らなかったくせに」「おおよ、なさけねえったら……」


 取り乱した祖母が訊き直してみると、平太は留守で、代わりに出て来た妻のお豊が「うちのひとがそう言っていた」と告げたという。「おれも帰り道で考えてみたが、あれはたぶんにお豊の誇張かも知れんな」「そうですとも、まさかそんな口を利ける立場じゃないんですから」「ふむ……だがな、引き取る気がないことはたしかだぞ」


 あとは物かげで聞いているかも知れない文子に配慮して小声になったが、要するに夫婦の寝物語で「いまのおれはおまえが可愛い」「文子ちゃんは?」「あれはそばに置いて育てなかったから、わが子ながら馴染みが薄くて可愛く思えないのさ」という睦言が交わされ、婚家での自分の位置を示したいお豊が大仰に言ったということ……。



      *



 祖父母が案じていたとおり、台所のかげに身をひそめながら、文子は大人の会話の核心を聞き取って滂沱のなみだを流していた。わたしという子は父母と呼ぶひとたちにどこまできらわれればいいのだろう、どうすれば好いてもらえるのだろう、考えても考えてもちっともわからず、ただただ胸底の冷たい湖の荒い波音を聞くばかり。


(今度という今度は岡野の家で、わたしの本当の家で暮らせるかも知れない、いや、きっとそうなるだろうと期待を弾ませていたのに、新しい母さんだ、文子にやっと母さんが出来たと大騒ぎしたのはこちらだけで、向こうの家では従前の家族だけの生活が当たり前に始まっていたのだ。そこへ文子という小石を放りこまれたくないのだ)


 当たるところがない祖父母の嘆きは口げんかに逸れてゆく。「平太さんも平太さんだが、お豊もお豊だ。これじゃなんのために仲人をしたのか」「だいたい、おまえが出しゃばって実家の縁を引き出すからこういうことになる」「わたしは文子のためを思って」「赤の他人の八重さんにくらべて、おまえの姪は、心根がいじけておるわ」


 日ごろ堪えて来たふたりの齟齬はさらに綻び、絹の法事もしてくれず墓も荒れ放題であること、文子を引き取らないうえに季節の着物を送ってくれるやさしさすら持ち合わせていないことなどに及び、祖母は「よし、こうなったらこっちも意地で文子を立派なむすめに育ててみせる。途中で返せと言っても返さないから」と息巻いた。


 声を消して泣きながら文子は、あの父が途中で返してくれなんて言うはずがない、祖父母の憤りを逆手に取って、かえって厄介払いしたと思いかねないのがあの父だと幼い観察眼をせつなく研ぎ澄ませていた。絹を見染めたお幾さんが存命だったら初孫の文子をどんなに愛しんでくれたかというないものねだりは、さらにせつないだけ。



      *



 ひとしきりの嵐が吹き去ると、祖父母は現実にもどった。岡野の家からの通学が無理と決まると、大急ぎで中田の小学校へ入学する準備を進める必要がある。こうしてはいられないと老いの目を光らせた祖父は、親せきに当たる校長先生を訪ねて文子の事情をよくよく話して来ることになり、祖母の哀願に見送られて家を出て行った。


(はじめて学校というところへ入学するのに、わたしは入る前から曰く付きの児童になるのか。孫の文子は父母の縁にうすい哀れな子、どうか学校でも格別なご配慮をとおじいちゃんは威張って校長先生に頼みこむのだろうか。おおぜいのなかで、ひとりだけそんな目で見られるのは、いやだ。ふつうに扱われたいのに、それすらも……)


 黒光りする板戸にもたれて泣いている文子を見つけた祖母は「文子、なにも心配いらないよ、おじいちゃんおばあちゃんがなんでもしてやるからな」と励ましてくれ、「大丈夫だよ、こう見えておばあちゃんはまだまだ若い、文子が大人になるまで元気でいられるからな、安心しな」自分も泣きながら、やさしく背中を撫でてくれた。




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