第9話 四番目の母さんが父さんの家にやって来た 🌖
文子が数えで七歳になり、来春は尋常小学校へ入るという年の秋、三十歳の平太は新しい妻を迎えた。押しても引いても文子を引き取ると言い出さない婿の先手を打つかたちで、文子の将来を案じる祖母の喜井が、自分の姪のお豊を後妻に推したのだ。これならいくら優柔不断な婿でもわが子を自分のもとで育てると言わざるを得まい。
不慣れな仲人まで引き受けた祖父母に連れられて岡野の家に行った文子は、謡や鼓でにぎわう二階の座敷の真下の階下の部屋にただひとり留め置かれ、廊下の障子も襖もぴったり締めきられたさびしい空間に、長い時間放っておかれた。家中のわき立つような喧騒のなか、だれひとり気にかけてくれない。やはりわたしは邪魔者なのか。
(こっそり部屋をぬけ出て二階へ様子を見に行ってみようか。ついさっき、祖母に手を引かれて庭から入って来たと思ったらすぐ勝手口に消えた女のひとを見かけたが、白装束に綿帽子をかぶっていたので、顔立ちはまったく分からなかった。どんなひとだろう、八重母さんのように美しいひとだろうか、笑顔のやさしいひとだろうか)
甘えられる両親のいない日常で、幼いころからひとりで考える癖がついていたのがこういうときに役立ったとも言えようか。おまえはここから出て来ちゃいけないのだと言わんばかりに寒々しく隔離された部屋で客用の座布団に小さな膝を揃えた文子はつぎからつぎへと思いをめぐらせていたが、そのうちに疲れて眠りこんでいた。
*
「文子や、文子、起きなさい。さあ、母さんにごあいさつだよ」祖母に呼ばれて目を開けると、大きな丸髷、黒地に裾模様がある着物をまとった女のひとが立っていた。母さん……呼ぼうとしたが、声が出ない。恐ろしい失望が文子をあとずさりさせた。ちがうちがう、このひとは八重母さんの代わりじゃない、母さんにはなり得ない。
生まれついて薄幸な子どもの直感で、腰をかがめる気づかいもせずに黙って自分を見降ろしている女のひとのすべてを見て取った。このひとは自分を受け入れてくれる気持ちを持ち合わせていない。いや、むしろ手のかかるものに仕方なく対峙するような硬いものが堅肥りの全身を覆っていて、幼い心が一歩でも近づくのを拒んでいる。
(無理もないかも知れない、だっていきなり七歳の子持ちになるんだもの。途惑って当たり前かも知れない。初対面から打ち解けられるはずがない。八重母さんというひとは別格なひとで、大人だからといって、みんながみんな、おおらかにふところに包んでくれたり膝に抱いてくれるようなやさしさを持っているわけではないのだろう)
ぎこちない雰囲気に気を揉んだ祖母が「お豊、この子が絹の忘れ形見の文子だよ。今日からはおまえの子どもとして大切に育てておくれ。いいね、しっかり頼んだよ」と取りなすと「はい……おばさん」と答えたお豊は乾いた声で「文子ちゃん」と呼びかけたが、そこにはひとかけらのあたたかな思いも籠っていないように感じられた。
*
絹の従妹の豊なら、血のつながった文子の母親として安心して託せる。これで長いあいだの懸案だった文子の岡野への帰郷も、すんなり適うことだろう。ややもすれば年寄り所帯の華やぎを幼い孫に求めて、現状維持もそうわるくないとしたがる祖父とは逆に、文子の将来の幸せを第一に願う祖母は無理にもそう思いこもうとしていた。
貧しい祖父母の溺愛を一身に受けている文子にしても、ほかの家庭とはあきらかに異なるいびつなかたちの家族ではない当たり前を希求していた。若々しい父母のもと溌溂とした暮らしを営んでみたい。「ね、母さん」丸い膝に思いきり甘えてみたい。そこには当たり前のように父もいるだろうが、今度こそ父らしい父を期待したい。
(新しい母さんとはどうやら気心が合うとはいえないようだけど、そういうものだと諦めればいいこと。父さんだって、一緒に住んで同じ空気を吸っているうちに、自然に打ち解けてくれるようになるだろう。そこはやはりじつの親子だもの、心配はいらないような気がする。とにかくわたしはこれでやっと自分の家へ帰れるのだから)
ちなみに、この婚礼より半年前の春先、本来なら文子にとって内祖父に当たる五郎も後妻を迎えていた。大家族でのポジションがむずかしいと思われる元江という名前の義理の祖母が文子の境遇に心を寄せてくれ、その後もだれにも見つからないようにお菓子をくれたりするようになったことだけは、幼子の稀少な幸せのひとつとなる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます