第37話 古い家制度からの解放&女性の新しい道 🌞 



 無事に卒業式を終えた文子は、祖父母も叔父たちも別居して両親と四人の弟妹だけになっている岡野の家に出向いた。どんなにいやでも奈良での新生活が始まるまではここにいなければならない。覚悟を決めた文子はもう以前のように弱いむすめではなかった。待ち構えていた父は、奈良行きは容易なことではないぞと懇々と説諭する。


(お父さん、あなたにはいままで一度も褒めてもらった記憶がないけど、今回のことも、ついによくやったとは言ってくださらないんですね。ああ、ここまでがんばったわたしの張り合いのなさをどう表現したらいいものか……ほかの生徒たちの親なら、お赤飯を炊いて祝ってくれるでしょうに、わたしはお小言をちょうだいするばかり)


「よくわかっているつもりです、お父さまのお立場も学費のことも」「ならいいが、女学校の上に行くのは、わが家ではおまえが初めてなんだからな。ところで、奈良への準備は自分でするんだぞ、おまえも一人前なんだからひとりでしなければならん」十二歳の長野行きもひとりでしたけど……それを呑みこみ文子は微笑んでみせる。



      *



 翌朝、両親の許可を得た文子は、中田の祖母のもとへと急いだ。文子が全身の力を抜いて甘えることを許される唯一の場所へ。「おばあちゃん!!」「文子!!」駆け寄って抱き合うふたりを、祖父がにこにこ見ている。「文子、よくやった、でかしたぞ!!」祖父母は何度も言ってくれた。岡野ではついぞ耳にしなかった心からの祝詞である。


(そうだ、わたしには強い味方がふたりもいてくれたのだ。そのことを忘れて実の親の非情ばかり恨んでいては、ひとの在り方として筋ちがいというものだ。これからもこの善良なひとたちに目を向けて歩んで行こう。県知事や先生方のおかげで遠からず恩返しができそうな幸運に感謝して、ネガティブになりがちな自分から抜け出そう)


 文子からの手紙を供えた仏壇に帰省の報告をした祖母は、さあさあと文子を炬燵に招くと、重箱に詰めたお赤飯、甘酒、黒豆の煮物など孫の好物ばかり並べて卒業と推薦入学を祝ってくれた。その合い間に祖母が「あっちはどうだった? なんのご馳走だった?」しきりに訊きたがるのを逸らせながら文子はひとり悲しみに堪えていた。



      *



 手紙も寄こさない父が所用ついでにと寄宿舎へ訪ねて来たことがあった。応接室で対峙しても話もない親子だったが、ふと父が訊く「その着物はどうしたのだ?」「春休みの帰省のとき、義母さんからいただいたものです」「義母さんが自分用に織ったものだったはずだが、そんな地味なものを着ている生徒はほかにいないだろうなあ」


 女性ものに疎い目にも奇異に見えるほど、十代のむすめには地味な柄だったのか。たしかに学校ではだれひとりこんな野暮な柄は着ていないし、意地悪な長野勢から田舎者と馬鹿にされる一因でもある細い◇△▽縞の着物が不満だなどとはどうしても言えない文子だった。父親は黙っているむすめの気持ちをどう受け取ったのか……。


 岡野へ帰った父からすぐに烈しい叱責の手紙が届いた。「勉学に勤しむ身で着物の文句を言うようなことがあってはならない」とある。文子はわが目を疑った。わたしがいつ着物の不平を申しましたか?! お父さん。問い詰めてやりたかった。帰宅後、義母とどういう会話が交わされたのか知らないが、あまりといえばあんまりな……。



      *



 そんな痛恨の出来事も、祖父母には絶対に話せない。さらなる心痛は、老いをますます加速させるに決まっている。ふたりとも少しでも元気で長生きしてもらい、就職してこの手で給与を得ることが出来たら、たくさん恩返しをさせてもらうのだから。なにかを察したのか祖母は「岡野では威張っているんだぞ、文子」何度も繰り返す。


(さすがは聡明なおばあちゃん。わたしがなんにも話さなくても、おおよその見当はついているのね。話すに話せない辛い出来事を、すべて承知していてくれるんだわ。いまさらだけど、育ての親こそが本当の親。名前だけでなにもしてくれず、むすめの行く手を阻んでいるだけの親なんて、親でもなんでもない、赤の他人よりも冷たい)


「やっぱりなあ、おまえのことは絹が守ってくれているんだよ。今度のことでそれがよくわかったよ。これからも絹母さんが見守ってくれているよ」祖母の述懐は文子のものでもあった。暖かな中田から冷ややかな岡野への帰り道、文子は祖母が持たせてくれたお線香と庭に咲き出たばかりの木瓜の花を携えて、手塚家の墓地に向かった。


 歴代の祖先が眠るなかに「五郎妻 幾 行年四十二」「平太妻 絹 行年二十四」の二基がある。もし、このふたりの女性が存命だったら自分はたらいまわしのような少女期を送らずに済んだのに……そう思う一方で、おかげで古い家制度からの解放と女性の生き方の新しい道を模索することを学んだのだとポジティブに考えてもいた。




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