第36話 県知事の推薦で奈良女高師へ進学できることに 📅



 月に一度は届いていた和枝から、ことのほか長文の手紙が送られて来た。他の工場からの引き抜き防止のため、外出も外部のひととの面会も禁止になったこと、手紙はすべて検閲されていること、日に十四時間のきびしい労働にさらに拍車をかけるのが工場側が仕掛けて来る工女間の熾烈な競争であることなどがつぶさに記されている。


 厚い便箋の終わりに「百八十度もある熱湯に手を入れつづけているから頭もどうかなってしまいそう。近いうちにここを辞めて名古屋の工場へ行こうと思っている」とあるのを見た文子は負けたと感じた。小学校卒業のとき関先生に示唆されたとおり、社会に揉まれた和枝のほうが学校に守られている文子より早く大人になったのだ。


 どんなに辛い状況下にあっても、和枝は前へ進もうとしている。それはみんなから蔑まれながら「明日は明日の風が吹きますから、あははは」と笑い飛ばしていた母親の春子の背中から学んだ強さかもしれなかった。自分も負けていられない。そうだ、明日にも良おばさんのところへ相談に行ってみよう、わたしの魂魄を籠めて……。



      *



 翌日、文子は担任教師から職員室へ呼び出された。ぴしゃっと雛鳥を叩きつけるような父の拒絶に打ちのめされていたときなので、不安に胸を翳らせる文子を待っていたのは思いもかけない奇瑞だった。「県知事の推薦で、あなたが奈良女高師に進めることになりました。ついてはおうちと相談して……」教師の声が信じられなかった。


 職員室を辞した文子の胸をよぎるのは、またしても学年一の優等生である小森誠子の面影だった。本来なら彼女が受けるべき栄誉をまたしても自分が横取りすることになるのだ。いまだに田舎者扱いするひとたちがいるクラスの空気が思いやられるが、さすがにもう覚悟はついた。それより問題は岡野の了解を得られるかどうかだった。


 思い悩んでいると、神木良から寄宿舎へ呼び出しの電話がかかって来た。はじめてのことなのでいそいで神木邸へ駆けつけると、美しい頬を紅潮させた良は「なぜ知らせてくれなかったの?」睨むような目を送ってよこす。「え、なんのことですか?」「ここよ、ここに、手塚文子さん、あなたのお名前が載っているわ」と新聞を示す。


 ごく小さな活字で今年の奈良女高師への県知事推薦者として二名の氏名が掲載されている。「いやだ、恥ずかしいわ。虫眼鏡で見ないとわからないほど小さい字だしね」「字は小さくても事柄は大きいの。今朝、あなたのお父さんからの電話で知ったの」「わたしも先生から聞いたばかりです」で、父は良おばさんにどう言ったのだろう。


 良の話によると、新聞を見た父が驚いているとき来客があった。きちんと法衣をつけたお寺の住職で「この岡野からふたりも推薦者が出るとはすばらしい栄誉だ。お宅のむすめさんと並んで載っている遠藤時子はうちのむすめだが、家族や親せきはもとより本人がとても喜んでいるので謹んでお受けするつもりだ」高らかに宣言した。


「先に言われてしまえば、古くからの造り酒屋の当主として辞退するわけにいかず」そう父が言ったと聞いて、文子はほっと安堵するとともに、首もとがひんやりした。やっぱりそうなのか、あの家では快挙として喜んでくれるどころではなく、世間体をおもんぱかって仕方なく許すのだ、成績なんて、ほどほどのほうがよかったのだ。



      *


 よほど曇った表情をしていたのだろう、良は文子の肩に手を置いて「本当におめでとう。平太さんの電話の様子では、きっとお許しの手紙が来るはずだから、しばらく待っていらっしゃいね」とやさしく言ってくれた。県知事が推薦してくださったものを、実家が許すも許さないもないんだけど……文子には良の言い方が妙におかしい。


 ――文子どの このたびの件、家中相談のうえ、許すことにした    平太


 やがて届いた手紙は、たった一行だけの素気なさだった。まるで幕藩時代の関所の通行手形みたいだね、お父さん。文子はそう揶揄ってみる余裕がある自分を褒めてやりたかった。これから四年間の仕送りは、和枝のように前借りと割りきって堪えることにしよう。親に出してもらうのではなく、いっそ借金と思えばかえって気が楽だ。


 職員室へ報告に行くと、家庭事情を案じていた担任教師はわがことのように喜んでくれた。教室へもどりながら、ふと気づく。今回の件を手配してくださったのはいつも気にかけてくださっている数人の先生方であること。自分はひとりではないこと。これを機に、身内より他人の情に心を向けて生きて行こうとあらためて思い決めた。




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