第35話 卒業後の進路で生じた父親との新たな確執 🩴
四学年の二学期も師走に近づくと、卒業を間近にした生徒たちは浮足立ち始めた。大半の生徒が卒業すればすぐ家にもどり、花嫁修業という名のもとに両親の庇護生活に置かれ、家同士の良縁を待って嫁ぐ。それが高等教育を受けた女性の理想的な人生とされていたが、肝心の帰る家がない文子にとって、それはあり得ない道だった。
文子をこよなく愛してくれる育ての親の祖母から繰り返し言い聞かされたとおり、ひとりで生きられるために手に職を持つことを第一義とし、そのために、なんとしても上の学校に進みたい。資格を取って岡野に頼らない人生を切り開きたいという思いが日増しに強くなったが、環境に恵まれている同級生には打ち明けられずにいた。
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明けて一月六日、中田の祖父母の家にいた文子は、新聞で同郷の人気女優の自死を知る。松代出身の松井須磨子。六歳で養女に出され、結婚を強いられた婚家から十七歳で出奔、働きながら裁縫学校に通い、二度目の結婚を経て島村抱月と起した芸術座の『カチューシャ』でスターになったが、スペイン風邪で他界した恋人を追い……。
三十三歳で逝ったスター女優の、波瀾万丈を絵に描いたような人生行路の果ては、旧来の女性の生き方を拒否し、新しい時代の息吹を後世の同性に託して去ったものと文子には思われてならず、「まさにこのタイミングで」わが身への天啓と受け留めずにいられなかった。長野へもどった文子は、意を決して岡野へ一本の手紙を認める。
――ご両親さま 四年間たいへんお世話になりました。おかげさまで卒業が間近になりました。つきましては、まことに申し上げにくいことではございますが、さらに上の学校へ入れていただけないでしょうか。むろん、多額の学費が入用なことは承知しておりますが、やがて嫁ぐときの費用を前払いしていただくわけにはまいりませんでしょうか。のちの結婚の折りにはなにもいただかず、いまある行李ひとつで十分でございます。決して約束は破りません。一生に一度のお願いでございます。 文子
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丁重に頼んだからといって簡単に承諾が得られるとは思っていず、いちかばちかの賭けに出たつもりだったが、待てど暮らせど返事が来ない状況はさすがに辛かった。毎日、手紙箱の前でがっかりするので顔色がわるくなっていたらしく、とみ子が心配し始めたころ、文子の投函から十日余り経って、ようやく大きな封筒が届いていた。
四年間で二度目の手紙(後述するが一度目は事実誤認からの見当ちがいな叱責で、文子は手痛い衝撃を受けていた)が、ずしりと重い。表に大きく「手塚文子どの」、裏には「平太」と書かれているそれを、文子は、祈るような思いで開封する。さあ、どうだろう、イエスかノーか。ふるえる手を広げると、すぐにはげしい落胆が来た。
――この家のむすめとして進学は断じて許さない。
一日も早い結婚を願っている。
義母や祖父、叔父たちにも相談した結果なので動かせない、女が上の学校に進むと女らしさをなくし結婚が遅れるばかり、それはおまえにとって幸せなことではない。そう一方的に述べられている。まるで世間知らずを諭してやるのだぞというふうに。ああ、やっぱり……覚悟していたとはいえ、こうして突きつけられると、こたえる。
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そんな大事な手紙を書いたこと、どうしてわたしに話してくれなかったの? 不満そうなとみ子に「あなたのように家庭に恵まれているひとにはわからないと思って」と弁解しながら、とみ子の持ち前の明るさに照らされた自分の心にもほのかな灯りがともり出したことに気づいていた。手ひどく打ちのめされたままではいられない。
(もはや、一方的に打たれて泣いてばかりいた以前のわたしではないのだ。あちらがあちらなら、こちらだって勝手に自分の未来を調達してやる。どんなことをされても親孝行ないいむすめと言われたいという気持ちはとうに消え失せている。なにもしてくれなかったひとたちにこれ以上わたしの人生をもみくちゃにされてたまるものか)
いままでも苦しいときの頼みの綱にして来たが、進学の道が閉ざされたいまは東京の八重母さんを頼ろう。手紙が第一の手段とすれば、家出は第二の手段となろうか。卒業と同時に東京へ出て、六歳のわたしを可愛がってくれた八重母さんを訪ねよう。落ち着いたら諏訪の和枝も呼び寄せて、ふたりで新天地の暮らしを切り開くのだ。
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国語の授業で四年間のまとめとして作文の宿題が出された。文子は「亡霊との対話――亡き母へ」という長い文章を書いて提出した。わたしには安心して身を置ける家がない。あまりの辛さに、なぜ産んだの? なぜ先に死んだの? とあなたを恨んだこともありますが、いまはわたしの生きる道を示してくれたことに感謝しています。
それは大家族の世話に酷使されたあげく早逝したあなたの轍を踏んではいけないということ、あなたは身をもって別な生き方をするようにと教えてくださったのです。だからいまはあなたの祭壇を自分の心の一番大切な場所に置いておきます。これからの困難をどうか見守ってください。わたしを助けてください。そういう内容だった。
授業のあとで文子を呼んだ国語の教師は「よく書けていましたよ。あなたがこの四年間どれほど苦しんで来たかよくわかりました。結びの『きっとやりとげます』が少し気になったから、あまり気負い過ぎないでと言いたかったの。元気を出してね」と言って励ましてくれた。愛情に飢えた文子の目は、それだけで見るみる潤んでいく。
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