第16話 文子はなぜ先生に手紙をくれなかったのだ 🌳



 それから三か月後の七月三十日朝、講堂に集まった児童職員の前で東方に向かって最敬礼した校長は「本日の未明、天皇陛下がおかくれになった」と声をふり絞った。おかくれとは亡くなったことだとなんとなく子どもたちも理解する。謹慎にも謹慎を重ねるように命じられて、無言はもとより足音も小さく気をつけて教室へ移動する。


 ただでさえいかめしいことが大好きな星野先生は「陛下がおかくれになったのだ。こんなに悲しいことはないのだ。さあ、みんなで泣こうじゃないか」と指示すると、固まって四角になったような身体をポキンと折るようにして手拭いで目を押さえる。子どもたちも自分の机に顔を伏せはしたが、泣こうと言われて泣けるものではない。


 ひと粒のなみだも出て来ずに困っている文子に、となりの席の女子が足で合図してよこす。袖のあいだから見ると、しきりに唾をつけては目をこすっている。なんとか泣こうと努力していると「さあ、このへんでいいだろう。みんな、泣くのをやめよ、なみだを拭け」と言われたので、ほっとして、まわりをうかがいながら顔を上げた。


 星野先生は酔ったような口調で説き始めた。小さな島国にすぎない日本が大国ロシアに勝てたのは強い兵隊とやさしい看護婦があったからだといつもの持論を展開したあと「兵隊も看護婦も万世一系の天皇陛下の御稜威みいつのためつくられたものであるから、その御稜威に報い奉る人間になることだ、いいな」昂揚した口調で述べ立てた。



      *



「文子ちゃん、みいつってなんだろうね?」「たしか天皇さまの強い御威光のことだよ、和枝ちゃん」そんなことを話しながら早めに帰宅すると、しゃちこばった紋付き袴すがたで茶の間の横の次の間に正座する祖父がいた。校長先生と同様に皇居のある東方にお辞儀や合掌を繰り返していて、茶の間の祖母と春子がそれに従っている。


 ふだんから「女子ども」と十把ひとからげで言われることが多い文子と和枝も自然にそこに加わり「それにしても暑いなあ」「おじいさんはあんな格好でどれだけ暑いでしょう」「なに、好きでしているんだよ」「あんなにまでしなけりゃあいけないものですか」「ご苦労なことだな」祖母と春子の不謹慎とも思われる会話を聞いていた。


 退屈しきっていたと見え、ふたりの興味は子どもたちに移り「学校でも式があったのかい」「ありましたよ、あと教室で泣きましたが、なみだが出なくて困りました」「し~っ。おじいちゃんに聞こえないようにな」「はい、男は、先生でも子どもでもおじいちゃんと同じでした」「そりゃそうずらい、天皇陛下は男だもの」一同納得。


 

      *



「ご病気っていうけど、どこの病気ですか」「腎臓だそうだよ」「あんれやだ、まるで人間みたいじゃないですか」「そりゃそうさ人間だもの」「ほえ、天皇陛下は神さまだったんじゃ?」「問題はそこのところさ、ばば。神さまだっつうことなんだから、本当は人間つうことずら」「だっつうことと、そうということはちがうっつうこと?」


 祖母と春子が珍妙なやり取りをしていると、次の間から汗だらけの祖父が出て来て「とんだことにおなりになさった。諒闇(謹慎)中は、くれぐれも言動を慎むこと」きびしい顔で命じるとまた去った。女子どもは顔を見合わせて「なんだかまるで天子さまの身内みたいな言い方していたね」「やはり男だからだね」くすくす笑い合う。



      *



 暑い茶の間から逃げ出した文子と和枝は、青々とした葉を茂らせる庭の柿の木の日かげで涼みながら、とりとめもない話を交わした。「和枝ちゃんはいまの星野先生のこと、どう思っている?」「おかしな文子ちゃん。どうと言われてもさ、うちの組の先生なんだから、思うも思わないもないずら」「そうだよね……いまのこと忘れて」


 大人の言葉で言えば相性というのだろうか、文子はいまの学年になってから担任になった星野先生にどうしても親近感を抱くことができないままでいた。それはたぶん去年までの担任の関先生とくらべてしまうからで、新しい担任に歩み寄れない文子がいけないのだが、あの包みこむような関先生の人柄が慕わしく思われてならない。


 去年の夏、その関先生が腸チフスに罹患して専門の病院に長く入院しているとき、組の子どもたちはみんなで見舞いの手紙を書いたが、文子ひとりだけ書かなかった。書こうとすればするほど一字も書けず、とうとう退院まで出せずじまいだったのだ。先生が学校に復帰してからもそのことがうしろめたくて、顔を合わせられずにいた。



      *



 ある日、校庭にひとりでいた文子のうしろにいつの間にか関先生が立っていた。「文子はなぜ先生に手紙をくれなかったのかな」瘦せ衰えた先生に言われて、文子はひと言「すみません」と言ったきりで、赤くなった顔を上げることができなかった。先生はおまえの手紙を一番待っていたんだぞと語りかけられているような気がした。


 うしろに立った先生は文子の肩に手を置いたり、筆のようになったお下げ髪の先に何度も触れたりしていたが、その短いあいだに、文子は甘酸っぱい陶酔を味わった。それは男性という大人を意識したからではなく、関先生のなかに理想の父親を見たからだったと言い訳したい。いつか和枝に訊かれた父さんの味をそこに感じていた。




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