第15話 大きくなったら兵隊か看護婦になります ⚔️



 クラスは約四十名の男女共学で、勉強、ことに国語の朗読が得意なのはたいてい女子だったので、途中でつかえることが多い男子は口惜しそうな顔をしていた。当時は読み取りといっていた朗読が文子はとりわけ好きで、日ごろはおとなしいのに、このときばかりはすらすら読み通すことができたので、大方の男子の反発を買っていた。


 ただひとり、酒屋の息子だけは、文子に同情的な目の色を見せることがあったが、早くに両親を亡くして親せきに引き取られているという境遇もあってか、ほかの男子のようにわがもの顔にふるまったり女子に乱暴したりせず、いつも目立たずひっそり教室の片隅にいる感じだった。だが、粗野な子どもの悪意は弱い者に向かいがちで。


 同じく両親の縁に恵まれない生い立ちの文子と雄三を敢えて結びつけ、村の大人の口移しそのものの野卑な言葉で執拗にからかって来る。下校時に集団で待ち伏せされ通せんぼされたりこづかれたりが重なると、いつも一緒にいる和枝が見かねて「担任の先生に言いつけようよ」と言ってくれたが、文子は首を横に振るばかりだった。



      *



「関先生ならばなんとかしてくれたかもしれないけど、いまの星野先生では駄目だと思うよ」教え子にそんなことを言わせる教師はといえば、小柄でかたそうな身体に絣の筒袖、黒無地の羽織、小倉の袴といういで立ちで、せかせかと教室中歩きまわりながら、のべつまくなしにペラペラいろいろなことを弁じたてる、そんな人物だった。


 それに比すれば、もの静かだが、紺色の洋装の痩身全体で懸命になにかを伝えようとする前任の教師はまったく正反対で、饒舌とか雄弁とかが苦手な文子の気持ちは、なにかにつけて関先生へと回帰しようとする。そんな教え子に敏感に反応する現在の星野先生は、自分に目を向けさせようとしてかえって疎まれる結果になっていた。


 一方、身近な大人でただひとり信頼する祖母(祖父は孫の気持ちに疎いので)は「いいかい、文子。そういう連中は学校だけじゃないぞ、どこにもいるものなのさ。これから先、いちいち相手になっていたらこっちの身がもたぬ。逃げるが勝ちだよ」ひたすらトラブルの回避を教えこんで、大事な孫むすめが傷つかないように守った。



      *



 ある日、そんな捩じれに輪をかけるような出来事が発生する。日露戦争の勝利を笠に着た軍国主義教育が幅を利かせる風潮の後押しもあったのだろう、小柄なわりに事大主義的傾向の強い星野先生は、なにかの拍子に気分が乗って来ると教え子たちに同じ質問を発した「おい、おまえ、大きくなったらなにになるつもりだ」「……さあ」


「さあとはなんだ、日本男子なら目標は決まっているだろう」「あ、そうか。先生、兵隊さん!!」誘導に釣られまわりの男子が「おれも兵隊」「おれも」と挙手すると、星野先生はすこぶる上機嫌になり「せっかく男子に生まれたことゆめゆめ疎かにするなよ」まるでひとりで日ノ本を背負っているかのようなことを言い立てるのだった。


 すっかり気を好くした星野先生の口はますます滑らかになり「つぎは女子だな。女子は大きくなったらなにになるんだ?」さりげなさげに質問して来るが、女子はみなうつむいてもじもじするばかり。そこへすかさず男子が「嫁さんだよな~」「文子はだれの嫁になるかもう決まっているんだぜ」と騒ぎ立てるが、教師は止めもしない。



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 そのとき、ひとりの女子児童が「看護婦さん!!」と大きな声を発した。「よおし、おまえは偉いぞ。それでこそ大和撫子だ」その子に向けた教師の目がだらしなく垂れるところを目撃した文子は、なんとなくいやらしいと思った、その子も教師も、魚心に水心なんて……。だが、周囲の女子は「わたしも」「わたしも」次々に呼応する。


 クラスのほぼ全員が兵隊か看護婦志願ということになったとき、下校時にからかう男子の親分格が適格な間を待っていたかのように声高に言い放った「あれ、文子だけ黙っていやがるぞ。おい、おまえは看護婦にならねえつもりかよ」次いで子分たちも追随の大合唱。日ごろ国語の朗読で蓄積している憤懣が渦になり教室を吹き荒れる。


 かたくなに黙りこくっている文子は、教師の目にさぞ可愛げなく映ったのだろう「文子、おまえは看護婦にならないのか」「はい」「どうしてだ」「……どうしても」教え子たちの前で恥をかかされた格好の星野先生が、その言葉に鋭い怒気を含ませて「よおし、放課後、職員室へ来い、いいな」と命じたので、教室は静まり返った。



      *



 すべての児童にとって職員室は神聖な場所であり、そこへひとりだけ呼び出されるのはたいそう恐ろしいことだった。心配する和枝を廊下に残した文子は、袴に両手を入れた担任教師の前に立った。「さあ、さっきの答えを聞こうか」「先生、わたしには祖父母がいます」「そんなことはわかっている」「だから看護婦にはなれません」


「どういうことだ」「両親に代わって育ててくれた祖父母を置いて、看護婦にはなれません」「どうしてだ」「看護婦になれば戦争に行くのでしょう。おまえは二十四歳で死んだ母さんの分まで生きねばならない、まして自分たちより先に死んではならないと言うおばあちゃんを置いて戦争には行けません」そう言う頬をなみだが伝わった。


 黙って聞いていた教師は、ふと立ち上がって机の上を撫でてみたり、窓の外に目をやってみたりしていたが「おまえという子はまったく……よくわかった、もう帰っていいぞ」と声を湿らせた。お揃いの格子柄の単衣に三尺帯で待っていた和枝と学校を出た文子の前には、いつもと同じ浅間山が左右対称の裾をやさしげに引いている。




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