第30話 手製の暦で寄宿舎にもどれる日を心待ちに 📅



 わたしはこの屋敷のどこにいたら、みんなの目に立たなくて済むんだろう。迷子のような心持ちの日々を過ごしていたある日、庭を流れる小川で洗濯をしている文子のうしろをだれかが足早に通り過ぎた気配があった。顔を上げると新調の洋服の父で、その瞬間、よく似た大きな四つの目がチカッと光り合ってはげしい火花を散らせた。


 イタッ!! 虫か土ぼこりが飛びこんだかのように文子は目を押さえた。「父さん!!」懸命に呼んだが、父は振り返りもせずに、門の外へ出て行った。氷のように冷たい、他人を見るような目の色が文子の目の奥に残像を引く。まちがいない、父さんはわたしを嫌悪している、自分と同じ境遇が恥ずかしい邪魔者のわたしを、父さんは……。


 洗濯物を放り出して屋内へ駆けこんだ文子が向かったのはお松さんの部屋だった。北向きの四畳半につっぷして泣いているところへ入って来たお松さんはとても驚いて、なにがあったのか訊き出そうとしてくれたが、父との確執の微妙なニュアンスを正確に伝えることは至難と思われ、お松さんの手を払いのけて泣くばかりだった。


 つと立って出て行ったお松さんがもどって来ると、袂に隠した小皿に南瓜の煮物が四切のっていた。「お昼の残りですが、さあ、おあがりなさいまし。おやつの欲しいお年ごろでございましょう」短い言葉だけで十分だった。「この部屋の真上に物置の四畳半がございます。あそこをお使いなさいまし、だれにも邪魔されませんからね」



      *



 言われたとおりにそっと二階へ行ってみると、湿ったかび臭い小部屋ではあったがたしかにここならだれにも見つからずにひとりでいることが出来そうだった。文子はお松さんの厚意にあらためて感謝の念を深めつつ行李を運び、日々の家事の手伝いがひと段落したら、お仕置き部屋めいた空間でひとりの時間を過ごそうと思い決めた。


(なんだろうね、中田のおばあちゃんは「文子は岡野の総領むすめなんだから、竈の下の灰までおまえのものさ、堂々と胸を張って威張っているんだよ」と言ったけど、現実は、この広い家のなかで物置の四畳半しか身を置く場所がないなんて、滑稽だ。辛いとか口惜しいとかを超えて笑ってしまいたいほど滑稽……それが現実なのだ)


 屋内の物音も遠い部屋でぼんやりしていて、ふとあることを思いついた。そうだ、手製の暦をつくって、一日が終わるごとに、その証しを物陰にピン留めしていこう。そうすれば、この苦痛で仕方がない長い休みをなんとかやり過ごせるかもしれない。寮仲間と逆に、わたしにとっての家、快適な空間は寄宿舎のあの部屋なのだから。



      *



 幼い弟妹たちの世話や大家族の家事に忙しい豊母さんの関心が、成さぬ仲の文子に向けられることはほとんどなかった。意地悪というのではないが、用事を言いつけるとき以外には話しかけてもくれない。日を重ねるうちに朝晩の挨拶だけになったが、それは父親も同じで、ふた親の目に自分は映っていないのではないかと感じていた。


 ひそかな味方はお松さんだけだったが、ある日、そのお松さんが思い詰めた表情で告げるには「どうか気をつけてくださいまし。この家のなかには、文子さんと奥さまとのあいだに割って入って自分の立場の保身を図ろうとする使用人もおりますから」お松さんのほかに常時雇われている機織りや縫物の女衆のことを指しているらしい。


「昨日もね『本当に金食いむすめで困りますいなあ』と奥さまの機嫌を取ろうとするひとがいましてね。いえね、あのひとはいつもそういう調子で文子さんのことを話題にして、とんでもない告げ口も……」そこで文子は「どうかそこまでにしておいて」お松さんの口をさえぎって「それよりお松さんこそ気をつけてね」と言い添えた。


 こっそり文子の力になっていることがわかったら、雇われているお松さんこそ針の筵になることが明々白々だったし、寄宿舎からお松さんにお礼の手紙を出さないのもそういう立場への配慮からだった。文子自身、お松さんがいてくれるからこの辛い日々にも堪えていかれるのだ。いなくなられては困る、かけがえのない存在だった。



      *



 午前と午後のお茶の時間には、豊母さんを囲んで雇いの女衆がにぎやかな世間話に興じることがこの家の習慣として定着しているようだったが、お松さんに忠告されるまでもなく、文子はその時間は裏庭の草取りをするなど、その場に近づかないようにしていた。どっとばかりにあがる嬌声に卑猥な色が混じることもけがらわしく……。


 その日はどうしたことか、その時間にどうしてもそのそばを通らなければならなくなった。こっそり通り過ぎようとする影を目ざとく見つけた豊母さんは「文子かい。たまにはおまえも一緒にお茶を飲めばいいに」と勧めてくれたが、かたわらでお松さんが目を伏せて合図を送ってくれていたので、用事にかこつけてその場を離れた。


(あとでお松さんが言うには、文子が通りかかったときちょうど金食いむすめ談義の真っ最中で、言い出した当の本人が、またとない面白い見世物とばかりに陰険な目を光らせていたらしい。それを承知で文子を呼びとめる豊母さんもふくめ、この家のひとたちは総じてひとがわるい。志操を掲げる女学校の先生方の正反対のひとたちだ)


 両親と文子のすれ違いは日を追って増すばかり、いくら広いとはいえ同じ屋根の下で互いの存在を意識しながら、なるべく顔を合わせなくて済むように行動する日々は心の芯にやりきれない疲労を蓄積させた。文子はもはや家族の一員になりたいという気持ちを棄て去っていた。それより一刻も早く長野へ帰り、先生や仲間に会いたい。




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