第29話 文子のもうひとつの試練は「家」での夏休み 🍉
長野女学校の授業は刺激的かつ意欲的だった。文子が入学したのは初代渡辺敏校長から二代河野齢蔵校長へと代替わりした年だったが、ふたりは信頼し合う仲のようで、校長室から快活な話し声が聞こえて来ると、生徒たちはみな愉快な気持ちになった。長野県の教育に四十年を尽くした初代のあとを継いだ二代も開明のひとだった。
良妻賢母を育てる旧来の女子教育を一歩脱するために裁縫、袋物、刺繍の時間を減らす方針を打ち出した。その校長のもとで働く教師陣も個性的で、文子の担任の図画の教師は「木は枝から描いてはいけない。地下にしっかり根を張っていることを忘れないように」「枝は枝そのものよりも間隔を描くべし」と指導して生徒に慕われた。
(ここの先生たちは小学校の関先生に似ている。生徒を一定の型にはめようとせず、個性というのだろうか、ひとりひとりの持ち味を尊重して大切に伸ばそうとしてくださる。ああいう事情からではあったが、結果的に父はいい学校を選んでくれたことになる。いままでの不運の数々が、ここで取りもどせたらどんなにうれしいだろう)
学歴を持たず独学の苦労人で、検定から教師になった(推薦者の曰く「徳の人」)数学の教師は生徒に寄り添った教え方をして「あなたがこの問題を解けないなんて、そんな馬鹿なことがありますか。さあ、みんなで一緒に応援しますよ」と楽しくリードするので、数学が苦手な生徒も好きにならなくてはいけないような気分になった。
*
おばあちゃんにはすぐ帰ると言いながら、忙しくて、それに毎日が楽しくてそれどころではなかった文子にも夏休みがやって来た。一般の寮生たちは寄宿舎の玄関前に人力車を横付けさせ、満面の笑顔で「行って来ま~す」手を振りながら帰って行く。うらやましいな……ぐずぐずしているうちにさいごになった文子は唇を嚙みしめた。
汽車が中田駅を通過するとき、文子はぎゅっと堅く目をつぶった。わたしが帰りたい家はここだ。真の家族は祖父母だ。なのに、一本の手紙や電話をくれるでもなく、おやつのお菓子を送ってくれるでもなく、いつもみんなのお裾分けにあずかるばかりで、どれだけ肩身の狭い思いをして来たことか……父母への恨みがふくれ上がる。
(ぼんやりな父親が気づかないなら、義母に気づいて欲しい、年ごろのむすめがどれほど食いしん坊か、それにものをいただく一方の暮らしが如何に堪えがたいものか。田舎のお付き合いでは、とりわけお返しが大事なのではなかったか。おばあちゃんは近所からなにかいただくと、多すぎず少なすぎずのお返しに気をつかっていたっけ)
どんなに帰りたくても帰れない祖父母の家を思い描きながら岡野の駅に降り立ち、出迎えるひともいないので行李を駅員に預けて歩き出すと、懐かしい浅間山が迎えてくれた。この山こそわたしの父さん、橋を渡る千曲川こそわたしの母さん。文子は心の内で「ただいま」と言いつつ、棘を含むように感じられる空気を引き裂いて行く。
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見覚えのある門が近づいて緊張を高めていると、その門から幼い弟妹が駆け出して来て「お帰りなさい、文子姉ちゃん!!」口々に言い立てながらわれ先に手をつなごうとする。「どうしてわたしだとわかったの?」と訊くと「だって、母さんが袴のひとが文子姉さんだって言ったんだもん」小さな口を尖らせるので、釣られて微笑んだ。
引っ張られるようにして屋敷に入ると「まあ、文子、お帰り」濡れた手を前掛けで拭きながら奥から豊母さんが出て来た。入学試験前後の不在の一件などなかったかのように屈託ない笑顔にほっとして「ただいま帰りました。いろいろありがとうございました。夏休みはお世話になります」舎監の先生から教えられたとおりに挨拶する。
そこへ洋服すがたの父が帰って来た。「お、文子、帰ったか?」母へと同じ挨拶を繰り返すうちにも弟妹たちが駆け寄ってわれ先に父の腕にぶら下がる。うれしそうに目を細める父から顔をそむけ、おまえの分だと渡された箱膳から茶碗と汁椀と小皿を出していると「今日は特別に玉子やきをしたよ」義母がごはんをよそってくれた。
食事中の無言をしつけられているらしい弟妹たちとの夕餉が済むと「どれ、今夜は父さんが風呂に入れてやろう」父の声でにわかに活気づいた子どもたちは、大喜びで裸になって、川端に設えられている風呂場に走りこむ。父子のあげる歓声が母屋までひっきりなしで、一度もそうしてもらった記憶がない文子は複雑な思いに駆られた。
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その晩は父母と弟妹たちの部屋に布団を敷いてもらい、ひとまず家族の雰囲気を味わったかたちの文子ではあったが、翌朝からさっそく身の置きどころに困ることになった。なにしろ自分の部屋というものが与えられないのだ。宿題をする机もないので恐るおそる義母に訊ねると「こんなにいくつも部屋があるんだから好きに使えば?」
たしかに階下だけでも六つか七つ、二階にもほぼ同数の部屋があるのだから、どこでもいいと言われればそのとおりなのかもしれないが、わずかな自分の荷物を安心して置ける場所が欲しい、みんなの目がないところでゆっくり教科書を開いてみたい。そんな気持ちを打ち明けられるほどの親しみをどうしても豊母さんには持てない。
その代わりというように文子が頼りにするのはやはりお手伝いのお松さんだった。あの寂寞とした受験前後の家でも、このふくよかなひとがやさしく面倒を見てくれたし、「なんでもわかっていますよ、おかわいそうに……」一緒に泣いてくれもしたが、そのお松さんのこの家での立場を思うと、おもてだって頼ることは憚られる。
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