第26話 「この子はどうしてこう……」祖母の哀しみ 🧩



 行きは泣きのなみだで通過した中田駅で降りた文子は、幼いころのように他家の庭や畑を斜めにつっきり、韋駄天のように走りに走って、祖父母宅に駆けこむと、わらわらふるえながら出て来た祖母としっかり抱き合った。「おばあちゃん!!」「文子、待っていたよ~」ふたりで声をあげて嗚咽する。祖父も春子も和枝も目を拭っている。


 四日前にこの家を出るときは双方とも悲愴な覚悟だったが、大きな関門を越えたいまはつき上げるような歓喜があった。合格の吉報を受けた祖父はさっそく仏壇に報告する。「絹の子だもの、当たり前さ」と言う祖母も、心底からうれしそう。ふたりが孫の自分を誇りに思ってくれている充足に、文子は十二年間分の幸せを感じていた。



      *



 春子がお茶の支度を始めると、祖母が待ちかねたように「文子、長野へはだれと行ったんだい?」「ひとりで行ったよ」なるべく軽い調子で答えたが、「なんだって?! 父さんはどうした?」さっと顔色を変えて声を尖らせる。「父さんは用事があって」「なんの用事……母さんだっていただろうに。みんなでおまえを大歓迎したろうに」


 文子は自分の答え方ひとつで祖母がもっと傷ついて苦しむことを知っているので「うん、鯉のあらいを食べたよ」お手伝いのお松さんの手料理だったことは告げず、はじめての夕食は特別なご馳走だったことだけを匂わせたが、聡い祖母はそれだけですべてを理解したらしく、幼い弟妹たちはどうだったかと話をひろげようとしない。


 他人より冷たいと恨んだ父親を庇うような口調をうしろめたく思いながら、文子は意外に冷静な自分に気づいてもいた。それはおそらく凝縮した四日間の経験で少し強くなったせいかもしれないし、さらには、不在の義母の代わりのように接してくれた神木良という美しい女性の出現が、文子の胸に灯りをともしたからとも自覚された。



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 岡野のことになると表情が翳る文子が、一転して頬を薔薇色に輝かせ、あれもしてもらったしこれもしてもらったと自ら進んで詳しく報告したがる良が八重母さんの姉だと聞いた祖母が「縁は異なものというけど、ありがたいなあ」長野の方角に手を合わせたとおり、いまの文子にとって良は荒野に降り立った天女のような存在だった。


 八重母さんといい良おばさんといい、あの姉妹と岡野のひとたちは人間の種類がちがうような気がする。そう、ひととしての構成が小学校の関先生と同じ、いわば、心の芯の部分になにかとてつもなく大切なものを持っている。それは不憫な孫を溺愛してやまない祖父母の純朴なやさしさとも異なる資質であることをも感じ取っていた。


 その良おばさんが「岡野のお父さんには電話でご報告しておくから、文子ちゃんはまずおばあちゃんのところへお行きなさいね。中田にひと晩泊まることや、入学後に寄宿舎で使う洗面道具やお布団を神木で用意させていただくことも話しておくわね」聡くゆき届いた言葉で送り出してくれたので、文子は安心して祖父母に甘えられた。



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「それにつけても」祖母の怒りは収まらず「いくら忙しいったって、こんなに小さなむすめをひとりで長野へやるとは、どういう了見をしているのかねえ、あのうちは」名前を口にするのもいやだと言いたげに深い吐息をつくと「ああ、この子はどうしてこう……」さっきのなみだが乾かない目をもっと真っ赤にして肩と声をふるわせる。


 文子は実際のところ、父への不満はもういいから、ひとりで長野へ行って来られた手柄をもっと褒めてほしいと思っていると、折りよく春子が「だけど、おばあさん、ものは考えようだに。ひとりでやり遂げた文子ちゃんこそえらかったんだからねえ」と補足してくれたので、ようやく祖母も眉間の皺をほどく気になってくれたらしい。


 祖母の憤怒が静まりかけたところで「おばあさん、今夜はお祝いに、おほうとうといきましょうか」タイムリーな春子の提案に当の祖母も気持ちよく乗って「そうだ、縁起ものだから、畑のさやいんげんの初物も彩りに入れておくれ」「ほいよ、いっそ油揚げも奮発しちゃいますかね~」息の合うふたりはいつもの調子にもどっている。



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 にぎやかな夕飯が済んで「じゃあおやすみなさい。今夜はいい夢を見られそうだ」春子と和枝が自室に引きあげると、良が「中田のおばあちゃんにお見せしたら?」と持たせてくれた少女雑誌の口絵「女学校の寄宿舎生活」を祖母に説明してやりながら文子は、良おばさんもまた母さんのひとりではないかという気がしてならなかった。


 孫むすめの胸に新たな母さん像が住み着き始めたことに気づかない祖母は「ほう、ここがおまえの寝泊まりする寮なんだね」見当ちがいなことを言って感心している。そうではないけど、似たようなものだからまあいいか。大人びたことを思いながら、いつもどおり祖父母と川の字に寝ると、老いてゆくふたりの身が痛く案じられる。


 よんどころのない事情でここまでわたしを育て上げてくれ、とにもかくにも岡野の家へ無事に引き渡してひと安心というところだろうけど、ふつうなら老後の隠居生活を楽しめる歳月を奪ってしまったわたしはもとより、父さんにも大きな責任がある。親子で祖父母に途方もなく大きな借りをつくった事実を、決して忘れてはならない。




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