第33話 武者小路実篤の白樺運動を上級生から伝播 🏺



 時間がもどるが、針の筵さながらの岡野の家での夏休みから自立に目ざめた文子は、人見知りだの、引っ込み思案だのと言っていられなくなり、日々の勉強を確実に自分のものとするための快適な寄宿舎生活を積極的に求めるようになった。たとえば消灯時間後に仲間と謀って食堂へ行き、残りごはんでおにぎりを作る秘密のおやつ。


(だって、わたしたちの年ごろって年中お腹が空くんですもの、夕飯だけでは足りないわ。それに自宅から通っているひとたちは夜食でもおやつでも食べ放題でしょう。それを思えば、夜、みんなで示し合わせて薄暗い食堂へ出向き、勝手知ったるお櫃を開けて、ささっと塩むすびをつくって引きあげるやんちゃなど可愛いものでしょう)


 以前は参加しなかったことにも自分から手を挙げて行動した。秋には裏のりんご畑への隠密行動にも怯まなかったし、冬になると屋根の雪を茶碗に集めて、食堂から失敬して来た砂糖をまぶした手製の氷水を各部屋に配り歩く三年生の助手も自ら買って出た。奥地から出て来ておどおどしていた田舎むすめは、もうどこにもいなかった。



      *



 秋のある日、親しくしている森田とみ子に「ねえ、いつかお母さんに会わせてくださるって言ってたでしょう。今度の土曜日の外泊日に連れて行ってくれないかな?」と頼んでみると「もちろんよ、母もきっとよろこぶわ。ちょうど棚田の“田毎の月”の時節だし、姨捨伝説で有名な冠着山も見せてあげたいわ。春は杏の花がきれいなの」


 当日、とみ子に案内されて稲荷山の旧家を訪ねると、広い座敷の前の庭にとみ子の母が待っていてくれた。艶やかな束髪で物腰もやわらかく、にっこりとやさしく笑って迎えてくれたすがたをひと目見て、ああ、ここでもまた好ましい人柄の大人に会えたわと文子の胸は弾む。世の中は広い。魅力的なひとたちがいくらでもいてくれる。


(奥地の狭い地域で、限られた人間関係に悩んでいたことがばからしく思えるほど、長野へ来てから、いろいろなひとたちとの出会いがある。これこそが無一物の自分のかけがえのない財産になるかもしれない。与えられた運命のむごさに向きがちだった視線の角度をほんの少し変えてみただけで、ポジティブな未来が見えて来るようだ)


 その夜、大きな掘りごたつの広蓋に、刺身、焼き魚、野菜の煮物などの心づくしが並んだが、もっともうれしかったのは梅の焼酎漬けで「中田の祖母が上手だったの」と言うと「あなたって、なんでも中田のおばあちゃんよね」すかさず、とみ子のつっこみが入り、三人はそれぞれの思いを滲ませながら笑ったり泣いたりと忙しかった。


 一方、神木良のところへも頻繁に出かけて行った。つぎは男物の袷を仕立てますと教師に命じられた裁縫の授業の前にも足を運び、息子のものだからいつの仕上がりでもいいという生地を借りて来たが、誤ったところに鋏を入れてしまい、慌てて繕ったことを詫びに出向いたときは、いままでのことがよみがえって思わず目が濡れた。



      *



 森田とみ子から一年上の湯川優子を紹介されたとき、身体つきは細くて華奢だが、潤んだ双眸の底に深いものを湛えている先輩に、文子は強く惹かれるものを感じた。初対面から半月後、そうっと文子の部屋を訪ねて来た優子から新聞紙に包んだ雑誌『白樺』を渡されたとき、志を同じくする朋を育てようとしていることを察知する。


 自分が優子の眼鏡にかなったことが誇らしい一方、なんとはなしに不安でもある。渡された雑誌をそっと覗いてみると、むずかしそうな文言にも、人間は平等でありまたそうでなくてはならず、なにより人間が大切にされなければならないという趣旨が読み取れそうだったが、あとで人目のないところでゆっくり読もうと仕舞い直した。


(こっそり読まねばならないような本ではないとは思うけど、優子先輩の口調からもあまり大っぴらにしないほうがいいような気がなんとなくする。もしかしてわたし、思想系に足を踏み入れ始めているのかしら。なにごとであれ組織的なものには一線を置いているつもりだけど、岡野に知られたら面倒になるから秘密にしなきゃね)


 しばらくして呼び出しがかかった。とみ子と文子、それに一年下の子ら四名を優子が引率する格好で公園内の会館の「柳兼子独唱会」に出かけた。のちには文子だけを書店へ誘ってくれて、与謝野晶子『人及び女として』、野上彌生子『新しき命』、倉田百三『出家とその弟子』などと並ぶ書棚の有島武郎『小さき者へ』を勧めてくれた。




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