第32話 小森誠子という慕わしい同級生のこと 👘
その小森誠子がある日、いつもよりも小さな声で言うには「手塚さん、今日の裁縫の授業でも先生に注意されていらしたわね、ご事情がおありになるんではなくて?」文子は真っ赤になってうつむいた。一番見られたくないところをこのひとに見られてしまった。もっとも、うしろの席から前は丸見えだろうから、仕方がないけど……。
じつは裁縫の授業は文子の鬼門だった。手先が不器用ゆえというわけではなくて、もっと基本的な問題……必要な材料を調達できないのだ。つぎの授業までにこれこれこういう生地を用意しておきなさいと指示されるたびに、文子は、はたと当惑した。岡野の父を通して義母に頼んでも、手配して送ってくれたことは一度もなかった。
夏休みに帰省したときも遠慮がちに頼んでみたが「おまえも知ってのとおり、わが家では新しい生地も古い生地も縫ってくれるひとが決まっている。たとえ一枚でも、おまえにやることはできないんだよ」と言うばかりだった。仕方なく、文子は神木良やとみ子の母に頼んで持参していたのだが、それが間に合わないこともあった。
(豊母さんの言うことの大筋は間違ってはいない。いないけれど、自分が雇っている機織りなのだから、むすめの教材の布ぐらい、なんとかできないはずがあろうか。自分の着るものを質屋に入れていた中田の祖母だったら、なにをどうしたって、それもとびきりの上物を送ってくれるにちがいないのに、義母さんはどこまでも継母だわ)
「差し出がましくてごめんなさいね、母がね、もしよろしかったらどんなにでも用意してさしあげると言っているの」「まあ、そんなことを……ありがとうございます。でも、長野の親せきが面倒を見てくれるので」「ならよかったわ。なにか困ることがあったらなんでも言ってね、ご実家が遠いんだし」誠子の心配りが、文子には痛い。
*
その慕わしい誠子が学校を休むようになったのは、三年の三学期の終わりだった。気になった文子が小森家を訪ねてみると「ちょっとお待ちになって」心なしやつれたように見える誠子の母は奥へ小走りに入って行き、すぐに引き返して来ると「誠子がこれをあなたにと」手渡してくれたのはきれいな紙に包まれたポートレートだった。
(どうしたのかしら、いつものように「お上がりなさい」とも言ってくれず、まるでむすめに会わせたくないかのように自分の身体で廊下の奥をさえぎるようにしていらっしゃる。よほどお加減がよくないのね。でなければ、ひとへの気づかいが並大抵でない誠子さんが見舞いの友をそのまま帰すなんて無作法なことをなさるはずがない)
言われるままに開けてみると、真っ直ぐな長い黒髪を背中に垂らし、両手に分厚い書物を抱えた誠子の半身像で、文子の目は悲愴なものを感じた。新学年が始まっても誠子はすがたを見せず、一年間の休学届けが出されたことを聞いた。肺結核は不治の病の筆頭にあげられる。文子は快復を祈ることしかできない自分が情けなかった。
*
卒業式を控えた三学期のある日、文子は担任の教師から呼び出しを受けた。何事かと慌てて職員室に出向くと思いがけず中島奨励賞の賞状と副賞の硯箱が待っていた。在学中のむすめを病気で亡くした長野市の開業医が亡きむすめを偲んで校友会に寄附した資金をもとに、毎年、その年度の成績優秀者に授与されて来た栄えある賞だ。
驚いた文子の「それはちがいます、本来なら小森誠子さんが受けるべき賞です」と言いたい胸の内を汲み取ったようにくもった表情を隠さない中年の教師は「いろいろ議論もあったのですが、職員会議で決まったことですから、さあお受けなさい……」奥歯にものの挟まった言い方で、いかにも不承不承という感じを露骨に示した。
(いや、これは……先生はわたしごときにくれてやるのが気に入らないのだ。贔屓の誠子さんに手渡して教師としての面目躍如としたい大事な場面に、大して出来のよくないわたしが代替としてあらわれたことがご不満で仕方がないのだ。わたしだって、そんな野暮はごめんこうむりたいけど、選択肢がないんだからどうしようもないわ)
このときの屈辱感を文子は長く忘れることができなかったが、負の気持ちの鬱積が堪えがたくなると、いつも思うようにしていた……あの先生も岡野の義母も他者の心への想像力が乏しいという点で、同じタイプのひと。決してわるいひとというのではないが、そういう繊細な感情を磨く環境にいなかったという、ただそれだけのこと。
そう思うことで、放っておけば自分の心の底に汚泥のように溜まる一方の粘着質のどす黒いものの嵩を少しでも減らすことが出来るような気がする。相手を変えることはむずかしいが、自分を変えることはいくらでも出来るはず。つまりは他力本願ではなく自力本願を全うすることが大切なのだ。本で読んだ仏教の教えをなぞってみる。
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