第28話 工場経営者の令嬢たち VS 製紙工女の和枝 🧵



 寄宿舎は校舎の最奥に位置し、およそ百名の生徒が各学年を混ぜて七人単位で宿泊していた。出身地は長野周辺が大半で、本校生と呼ばれる市街地の自宅通学生の目にはとんでもない僻地と映るらしい地域から来ている生徒は文子ひとりだった。畑から引き抜かれた大根が泥のまま店頭にさらされたようなものと文子は自分を観察する。


 起床、洗面、掃除、朝食に始まり登下校、夕食、入浴、就寝の生活は小づかいのおじさんが振る釣り鐘型の鈴で区切られていた。一見、堅苦しげな「寄宿舎規則」にしばられる日常だったが、慣れればそう不自由でもなく、家があってないような文子にとっては同年代の体温を身近にすることでさびしさを忘れていられる場所になった。


(まさか寮生活に救われるとは思ってもいなかったわ。ほかのひとたちは家から引き離されてさびしいと言っているのに、わたしひとり、針の筵を逃れられてほっとしている。気を兼ねる必要がない立場同士で暮らすのって、こんなに楽しく、晴ればれとした気持ちでいられるものなのね。できればこの先もずっと寮生活をしたいくらい)


 育ち盛りの少女たちの関心は三度の食事に集中したが、驚いたことにここでは朝食から生卵がつき、夜は魚か牛肉や豚肉が日替わりでメイン料理として出て来る。中田では二羽の鶏が産んだ卵もよそへ売っていたので漬け物と味噌汁だけの食卓だった。同じ時代の同じ国とは思えず、急にふっくらして来たわれとわが身がうしろめたい。


 

      *



 そのうちに文子は妙なことに気づいた。寄宿舎の応接室が週に何度かにぎやかになって「ツンテンシャン、コロコロリン……」廊下の奥まで琴の音が響いて来るのだ。それは「須坂勢」(製糸業の盛んな須坂の経営者連のむすめたち)と呼ばれる寮生の一団が外部から師匠を招いて特別レッスンを受けているのだと知って衝撃を受けた。


 というのも、中田の祖父母には学校や寄宿舎生活の様子を知らせていたが、岡谷の製糸工場に働きに行った和枝にはなんと書いていいかわからず、いまだに音信を知らせていなかったからで……。きれいに着飾って琴の演奏を楽しむ特権階級と、過酷な労働環境という工女が同年代であることが、どうにも腑に落ちなかったからで……。


 目の前で繰り広げられる社会の不条理を肌で感じ取り、自らを特権層と呼ぶことになんの疑問も抱かず、弱者から搾取(こういう考え方は、のちのものだが)した金で遊び暮らすひとたちを認めることは和枝への裏切りのような気がして、琴の音が聞こえ始めると、文子は大急ぎで寄宿舎を出て、本校の教室へ向かうようになっていた。


  

      *



 ある夕方、教室で復習していた教科書から顔を上げると、うしろの席にもうひとりの女生徒がいた。となりの組の森田とみ子と名乗る彼女は、友だちになりましょうねと言ったあとで「あなた、奥地から来ているんですって?」いきなり訊いて来た。「ええ、それがなにか?」「ごめんなさい、わるく思わないでね、忠告したいの」


 思いがけない展開に呆気に取られていると「奥地訛りっていうの? あなたの組のひとたちが笑っているんですって」「わたしの言葉を、ですか?」「そうよ。たとえばその“ね~え”って引っ張るとこ、長野ではそんな言い方しないから、まるで相手に媚びているみたいだって」文子は背後からいきなり足を払われたような衝撃を受けた。


 休み時間に集まってなにかこそこそやっていると思っていたら、そんな陰口を言い合っていたのか。多勢に無勢で田舎者を馬鹿にしていたのか。われこそ選ばれしひとみたいな顔で澄ましているが、とんだご令嬢たちだ。琴なんか習う前に自分の心を磨いたらどうなのよ。「大丈夫? 怒ったの?」とみ子が心配そうに覗きこんでいる。


「率直に教えてくれてありがとう。かげでこそこそ言うひとはたくさんいるけど面と向かって忠告してくれるひとはあなただけ。わたしたち、いい友だちになれそうね」文子はそう言ってとみ子に微笑みかけた。ふと気づくと校舎に夕暮れが迫っている。さすがに琴の練習も終わっただろう。寄宿舎は須坂勢のものではないんだし……。



      *



 自分の部屋に入ると、机の上に一通の封筒がのっていた。宛名の文字で和枝からとわかる。にわかに早鐘のようになった心臓で開封してみると、幼い字が並んでいる。文子と別れてすぐに岡谷へ発ったこと、いま辛いのは朝から晩まで立ちづめなことや食事も仕事も時間に追われっぱなしなことなどだが、母親のために堪えていること。


「てがみ、もらいたいけれど、ここのことは書かないようにしてね」その一行だけで和枝が置かれている過酷な環境のすべてがわかるような気がして文子は忍び泣いた。五時に起きたらすぐ工場に出て仕事、六時半に立ったまま朝食、昼飯は二十分で食べ午後の小昼のあと七時まで働く。夜はひとり一畳の寮で蚤に攻められながら寝る。


 同じ年代なのに、かたや優雅に琴を弾き、かたや人間とは思えない扱いを受けて資本家(こういう表現も、のちに知ったものだが)の金儲けとして使い捨てにされる。こんな理不尽がまかり通っていいのか。そう憤る文子自身が働きもしないのに贅沢なパンやライスカレーなど毎日がお祭りのような日々を送っている、その罪悪感……。


 和枝の寮では、朝は漬け物だけ、昼食は乾物か野菜の煮つけ、夕飯にはごくたまに塩鮭の切り身が出るがたいていは朝と同じく漬け物だけ、十分ほどで食べなきゃいけないので工女には胃腸病が多い、わたしも痩せる一方で心細いと和枝は訴えている。少女らしい丸みを帯びて来た自分と正反対の和枝のすがたを思って文子は辛かった。




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