第39話 先輩の門限遅刻事件から生じた学校への不信 🔉



 全国各地から集まって来た全新入生が明るい未来への希望を託して始まったはずの新生活だったが、一学期も半ばの六月に入って、予想もしなかった事件が発生する。その出来事には、大きく澄んだ双眸と美しいソプラノで生徒たちに絶大な人気がある音楽の山本春子教授が絡んでいた。といっても、だれにも罪はなかったのだが……。


 ことはシンプルだった。文子の舎の先輩に当たる文科三年の榎本敏子さんが同級生とふたりで山本教授の家にあそびに行ったとき、流麗なピアノ演奏に聴き惚れ、わずか五分の差で校門の閉鎖に間に合わなかった。やむを得ず柵を乗り越えているところを門衛に見つかって舎監室へ連れて行かれ、内藤ふすま教授にきつく叱られた……。


 わずか数分の遅刻というだけのことなのに上級生たちは一様に青くなり、みんなで内藤教授の部屋にお詫びに行こうとか、連帯責任として校長に謝罪文を出そうとか話がどんどん大きくなっていく。もうひとりの先輩の舎とも頻繁な往来を交わしながら夜っぴての騒動に発展した状況は、一年生の文子には不可解としか思われなかった。



      *



 学校側から寮に連絡がないので、生徒側もとりあえず様子見として一見平穏な時間が過ぎていた翌日の午後、授業を終えて寄宿舎へ帰ると「教室に呼び出しがあって、部屋にもどったら母が来ていました。静岡の家に帰ります。みなさま方のご健康を祈っています。さようなら」簡単な走り書きを残して榎本敏子のすがたは消えていた。


 ええっ!! どうして?! わずか五分の遅刻が退学を迫られるような重大事なの? あと一年弱で卒業できるのに、いい教師になろうと真面目に勉強に励んで来たのに、いくら全権を持つからって、ひとりの生徒の将来を摘むような暴挙が許されるの?! それも他の生徒が授業を受けている隙にこそっと秘密裏に、そんな陰険なことが?!


「まさかこんなに早く処分がくだされるとは思わなかったわね」「でも、まだ希望はあると思うわ。これから校内にどんな反響があるか見てからでないとわからないわ」用心深い言葉を交わし合う上級生たちの言動に文子はふるえた。自分にも降りかかるかもしれないとばっちりを恐れる憶病な気持ちは、そっくり文子のものでもあった。



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 世知に長けた大人の思惑に勝てるはずもなく、有耶無耶のうちに事件は幕引きを図られる。文科三年の榎本敏子ともう一名は、最初から在籍しなかったかのように時間ばかりが静かに流れて行った。このころすでに平塚らいてう、市川房枝、奥むめおらが女性の権利拡張への活動を開始していたが、その事実を文子はまだ知らずにいた。


 生徒になんの説明もされないまま夏休みに入った。なにもなかったことにしようとする学校への拭いがたい不信は膨れあがり、やがて内藤教授ひとりに収斂していく。あれ以来すがたを見ていない山本教授への嫉妬……文子はそんな気がしてならない。絶大な人気の音楽の先生が目障りでならなかったところへ門限事件が起きたのだ。


 これでは幕藩時代を揺るがせたスキャンダルと基底を成すものは同じではないか。江戸城大奥を束ねる重責にあった絵島が芝居帰りの門限に遅れたかどで失脚し、当時は中流ちゅうるとされた信濃高遠藩に送られ、竹矢来の囲み屋敷に閉じこめられ没した一件を長野女学校の歴史好きな友が語ってくれたが、あの醜悪な人間関係とそっくり……。



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 もやもやした気分で弾まない日々を送っているとき、別の舎に住む遠藤時子が郷里から届いたといって早生の青りんごを新聞紙に包んで届けてくれた。「うわあ、ありがとう!!」小躍りする文子に「そんなおおげさなことじゃ……」と言って帰って行く時子を見送ると、さっそく食堂へ走りこみ、丁寧に切り分けたりんごを配り歩いた。


 岡野の実家からはただの一度も荷物が届いたことがない。それは長野女学校時代も同様だったが、ここ古都奈良では、岡山のきびだんご、鹿児島のかるかん、名古屋のういろうなど珍しい各地の名産が頻繁にやり取りされていた。そのつどいただく一方の文子は、休日に街へ出て奈良の名産を買ってお返しをするというふうだったのだ。


 時子の両親は、離れ住むむすめに季節の味を食べさせたいと、ごくふつうの愛情を示しているだけとわかっていても、やっぱりうらやましかった。かといって実家から惨めな扱いを受けていることを打ち明ける勇気もない心は、奥へ、奥へと向かった。そういえば長野を卒業したときの父もきびしい表情で「よくやった」でもなかった。


 お世話になったひとたちへの不義理で家の名折れにならないかばかり気にしている父に、長野を発つ前、良おばさんにどんなに温かい言葉をかけてもらったか、泊まりに行ったとみ子の母にどれほどやさしくしてもらったか、病床の小森誠子から励ましの言葉と近影写真を贈られてどんなにうれしかったかなど話す気にはならなかった。


 うっかり話していたら、大切な心の宝石が無惨に蹴散らされていたかもしれない。これからも絶対に核心を語るまい。仕送りをしてもらわねば生きて行けない四年間を難なく通過するために必要最小限なこと、ごく事務的なことだけ伝える。うれしいことは祖父母に話そう。あらためてそう決意すると、かえって気持ちが明るくなった。




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