第40話 開封された手紙は中身を抜かれていた…… 📨
いやでもなんでも、学校の長い休みに帰らなければならないのは岡野の家だった。むすめの成長をたしかめてよろこぶどころか、帰省した文子の顔をまともに見ようともしない父はもとより、入学式に向かう朝は赤飯を炊いて祝ってくれた豊母さんも、家族や使用人の世話に追われ文子どころではないらしく、結局は元の木阿弥だった。
辛抱、辛抱、もう一学期が済んだのだから、あと十二分の十一か……思えば苦しくなるから考えないようにして、人間ではない影になって、足音も立てずに過ごそう。そう思っていたある日、厠へ入ると、チリ紙入れの木の小箱に見慣れぬものが置いてあった。封筒。はて? 手にして裏返すと、退学処分になった榎本先輩からだった。
当初はあれこれ騒いでいた上級生たちが時間の経過とともにわが身大切でおとなしくなることに義憤を覚えた文子は、みんなに知られないよう夜中に書いた手紙を静岡へ送っておいた。「どうぞ読みきりになさって。お返事をいただけるなら岡野の実家へお願いします」と書き添えておいたその返事が来たのだ。心ふるえて開封……。
だが、手紙にはすでに鋏が入り、中身の便箋は抜き取られている。だれかが勝手に開封し、どういうことか封筒だけ厠へ置いておいたのだ。なんて恐ろしいことを!! 全身の血が音を立てて引いた。こんなおぞましい家には一刻だっていられぬ。中田の祖父母の家へ行く。そんな短絡に奔らない理性を身に着けた自分を悲しく知った。
*
少し時間が跳ぶが、それから三年余りのち、一年生の一学期で早くも国立学校の本質に疑義を抱きながらも、なんとかわが胸の泡立ちをなだめて卒業年度に至った文子は、このまま平穏に卒業していっていいのだろうか、門限にわずか五分遅れたというだけのふたりの先輩に犠牲を押しつけたままの安穏は卑怯ではないかと自問する。
問題はあの校門である。一秒の遅刻も許さない厳罰こそが天下の泰平を守るとでも言いたげな関所の閉まる時間を、自分の手で少しでものばしておいてやりたい、同じ疑念を抱く後輩たちのために。そんな思いを強めた文子は、以前から白樺運動に関心を寄せるなど気の合う仲間だったふたりの同級生に校長直談判の相談をもちかける。
「それは賛成だけど、そう事を急がなくても赴任先が決まってからでいいでしょう」尻込みするふたりの気持ちもよくわかる。生活に便利な都会の学校か交通も不便な山奥の分校か、新卒の赴任先は、教授の気持ちひとつで決まる。生徒の希望などかたちだけで、机に広げた日本地図に置いた氏名をどう動かそうと教授の胸先三寸だった。
したがって、それが決定したのちに行う校長直訴だったらまだしも、決定の前だとどこへ飛ばされるかわかったものではないという恐れは文子自身のものでもあった。でも、であればこそ、こだわらないわけにはいかない。罪のないふたりの先輩はいきなり退路を断たれたのに、後輩の自分たちだけ用意周到なのはどういうものだろう。
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たとえ要求が実現されなくても、学校への抗議として記録に残ることが大事だよと言い募る文子に説得されたかたちの同級生たちと、翌朝、校長室のドアを叩いた。「せめて門限を七時まで延長してくださいませんか」「あなた方は卒業するのに?」「在校生のためです」「一応、聞いたことにしておきます」それだけの会話だった。
(さすがは国立学校を預かっている校長先生だわ。世間知らずの生徒の抗議に慌てず騒がず、禅問答のような曖昧なやり取りで明確な痕跡をのこさなかったね。あとから思えばお釈迦さまの掌で躍らされたようなものだけど、とにもかくにも長いこと自分のなかに蔓延っていたうしろめたさはなくなったし、あとは野となれ山となれだわ)
覚悟していた処分はくだらなかった。校長は内藤教授には告げなかったのだろうと文子は推察した。来年度、文子たちの要求が適えられなかったとしても、そのことを知った後輩が志を引き継いでくれるかもしれない。それが社会というものだと、西洋史の試験に社会批判の白紙答案を出したこともある文子は考えるようになっていた。
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時間を巻きもどせば……文子の心身をなみだで湿らせた『小さき者へ』を著した有島武郎が奈良へ講演に来たとき、ふたりの同級生と誘い合わせて聴きに行った文子は、もの静かな話し方、端整な面影に強く惹かれた。卒論はその有島にしようか、それとも国木田独歩か島崎藤村かと悩んでいるときに、軽井沢での情死の報道を知る。
――文壇の巨匠、有島武郎(四十六)氏は、元『婦人公論』記者、波多野秋子(三十)さんと、軽井沢の日本郵船会社監査役で氏の義兄・山本直良氏別荘のとなりにある有島家の別荘の階下応接室テーブルの上に椅子を積み重ねて縊死を遂げた。右縊死体は七日払暁、別荘番が発見したが、死後すでに一か月を経過し、全身腐乱し何人であるか判明しないほどだった。
「絶筆は恋の歌だった」とある記事に文子の心は激しくざわめいた。あれほど母を失くした子どもたちを案じていた父が恋などというエゴイズムに身を投じていいのか。無念と落胆を消化できない文子は、学期末試験の西洋史の白紙答案の提出を同級生に持ちかける。退学を覚悟の行動だったが、不勉強の結果として片づけられたらしい。
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