第41話 安堵村の陶芸家・富本憲吉邸の一枝夫人 🏺
再び時間が前後する。あれほど張りきって入学したのに、ぽきんと出鼻をくじかれることになった門限事件のあと、身体の芯を引き抜かれたようになった文子は、なにもなかったかのように勉学に励む同級生たちを横目に何事にも身が入らず、かといって留年は出来ないので最低の単位だけは確保するという消極的な日々を送っていた。
自分の意欲がもうひとつかき立てられない理由のひとつに、古い歴史をもつ奈良の静寂すぎるほどの静寂があるのではないか、伸びようとする若い芽を育む活気がないのだと身勝手に考えているとき、たまたま手にしたある女性雑誌の詩に心惹かれた。作者は富本一枝。陶芸家の富本憲吉夫人で、法隆寺の近くの安堵村住であるらしい。
この退屈なまちを「美しい古都」と謳う瑞々しい作風に打たれた文子は、これほど斬新な詩を書く女性に会ってみたくなった。いきなり訪ねて行くのは無鉄砲だとか、先方が迷惑だろうとかいっさい考えなかったのは、いつの時代にも変わらない若者の特権として許してもらうしかないと汗をかく思いに駆られたのはだいぶ後年になる。
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梨畑の多い農村地帯のはずれの田んぼの真ん中にぽつんと建つ一軒家が富本夫妻の住まいであり窯元でもあった。華やかに咲き誇る真紅の薔薇の門をくぐり、庭石を踏んで歩いて行くと、白い芙蓉の花のような女性が立っていた。「なにかご用?」「女高師文科二年生の手塚文子ですが、雑誌に掲載された作品を拝読してうかがいました」
「いつかお手紙をくださった方ね」「すみません、とつぜん」「まあ、どうぞお入りになって」富本一枝は少し途惑いながらもスリッパを揃えてくれた。久留米絣の着物に白い帯の端を無造作に腰に垂らして、ボリュームのある黒髪を独特なかたちに結った一枝が「どうぞ」と背中を見せると、抜けるように白い襟足が文子の目の前に来た。
ベランダの椅子に向き合うと、すらりとした長身にグレーの革ジャン、短髪の男性が庭から入って来た。「わたしの夫よ」「富本です」簡潔に挨拶した憲吉が立ち去ると「この家は“つちや”と呼ばれています。富本の母の家が少し離れた場所にあります」またしても「主人」と言わない一枝の自然な口調に、文子は心地いい衝撃を受けた。
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だいぶ後年、文子はこの芸術家夫妻の棲み処についての至上の文章に出会って息を呑む。富本憲吉は作家を業とするひとではないのに、いっさいの無駄を削ぎ落し簡潔にして過不足なく、なおかつ読み手の胸に熱く訴えかけて来るエモーショナルな部分も備える磨き抜かれた玉文に、さすが第一級の美術家とあらためて感銘を深くした。
――大正四年五月、われら大和国安堵村の東南端に小さき地を卜し(定めて)、住むべき家と焼くべき窯を築かむとせり。(中略)十二月、家成り、われら二人と八月生まれたる幼児に小犬一匹携えて移れり。家は寝室、茶の間、書斎とベートーヴェンの如き三畳の椅子ある室と轆轤を置く四畳の工房と窯場を、全部耐火煉瓦を以てせられたる内方三尺余りの窯とをもってす。
井戸二つ(その一つは草花用として)、湯殿と便所と、五尺に足らぬ竹の柵を以て四囲をめぐらし、十坪の芝生と五、六坪の草花を植えたる床と。樹は小さき桃、葡萄、いちじく、その他二、三、近き人家は約一町。
南に水田をひかえ、雨降れば湖の如く白く光る、そを越えて大和川の
以上は、われらが居住の家と風景の全般なり。雨に雪に風に、夜と昼と、あるいは寒く暖かし。われらここにありて心清浄ならむことを願い、制止するを知らざる心の欲望を抑圧しつつ、語りつ、相援け、相闘い、人世の誠を創らむとて、ひたすらに祈る。 (富本憲吉『窯辺雑記』)
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とつぜん訪問した文子が夫妻の魅力に圧倒され、ひそかに「初恋の日」と名づけたのは、イギリス留学から帰国した憲吉が一枝(尾竹紅吉のペンネームで平塚らいてう主宰『青鞜』の同人だった)と結婚して安堵村に自宅兼工房を建てて五年後のこと。煩悶を抱えつつ新学期を迎えた文子は二年生になったばかり、十七歳の春だった。
安堵村という物語めいた名前の由来について、そのむかし、聖徳太子が飛鳥の自宅から黒駒に乗って法隆寺へ向かい、もう少しで法隆寺というところまでたどり着いたとき、ほっと安堵されたことに由来すると、俗説に伝えられ、飽波神社境内に太子が休憩した腰掛石が現存することも、文子は事前に地元出身の同級生から聞いていた。
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