第42話 一枝への思慕&憲吉への敬愛のはざまで 💚
「どうぞいつでも都合のいいときにいらしてね」初対面の一枝の好意を素直に受けた文子は、つぎの日曜日が待ち遠してくてならない、意欲的なむすめに変貌していた。轆轤をまわす憲吉と原稿を書く一枝のそばにいるだけで十分に満ち足りた。珈琲という飲み物、バッハやショパン、ドストエフスキーを初めて知ったのもこの家だった。
憲吉が「あんた、この図案をどう思う?」と訊けば、著名な画家・尾竹越堂を父にもつ一枝が率直な意見を述べる。かと思えば大きな朝顔型の蓄音機から流れるクラシックを銘々が思い思いに聴いている。そういう情景にいる自分を眺めるとき「大丈夫、こんなわたしでも生きていかれる」という実感を文子は生まれて初めて持てた。
アポイントメントもとらずに訪ねる蛮勇をふるい立たせた自分を褒めてやりたい。せっかくの無遠慮を大事にして、なにかの事情で失うようなことだけは決してしてはならない。迷惑だと言われることがあったにしても、そこをなんとか受け入れてもらえるように真心を尽くそう。そう決めると、安堵村を第二の故郷と思い始めていた。
*
歳月を重ねるうちに文子は来客の多いこの家にすっかり馴染んだ。「こんにちわ~」と勝手口から入って行くと、いきなり台所の戸棚を開けて餅菓子を取り出し「これ、いただきます」と言いながら旺盛な食欲を満たせるほど常連中の常連になっていく。夫妻を慕う客は増える一方だったが、文子は厨で家事に徹する自分を誇りとした。
一枝は美しい同性が好きな性質らしく、文子の上級生の何人かと親し気に話しこむすがたをよく見かけたが、むらむらと湧き起こって来る嫉妬の感情を収めるために「あなたもこっちへいらっしゃいよ」と和枝に呼ばれても談笑には加わらなかった。自分は昨日や今日の新入りとはちがうという強烈な自意識が文子の支えになった。
(なによ、あのひとたち。わたしが先鞭をつけた夫妻なのに、横から割りこんで。憧れの一枝さんと馴れ馴れしくしないでちょうだい。厚かましく長居していないで、さっさと帰って。知らないでしょうけど、わたしは家族と同じ扱いを受けているんだから、自分たちと一緒にしないでよ。遅くなれば泊まっていかれる立場なんですから)
いつしか文子は岡野の実家のことはもとより、中田の祖父母のことすらほとんど考えないようになっていた。あの封建時代さながらの古くさい家意識にがんじがらめの地域と、自由で明るくのびやかな安堵村とが同時代の日本とは信じがたい。そして、自分もこっち側の人間として受け入れてもらっている、この晴れやかなよろこび!!
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だいぶのちのことになるが、自分より二十年余り遅く生まれた茨木のり子さんの詩「花の名」を読んだ文子は大きな衝撃を受け、いまさらの羨望を持て余す。敬慕する父親との永訣に当たり「いい男だったわ お父さん/娘が捧げる一輪の花/生きている時言いたくて/言えなかった言葉です」文子はそんなむすめになりたかったのだ。
奇しくも茨木さんの父親は長野市の出身で、大学病院の勤務を経て、当時無医村だった愛知県吉良に乞われて開業するが、貧しい患者にも分け隔てなく診察し、ときには患者に代わって生活保護の申請まで行い、費用が出せずに修学旅行に行けない子どもたちのために匿名で寄附をするなど、むすめの目にも誇らしい父親だったという。
十一歳で母を亡くしたむすめとその弟に父親は限りない愛を注ぎ、のち継母が来ても父子の絆に揺るぎは生じなかった。女学校を出たむすめに帝国女子医学薬学理学専門学校(現東邦大学薬学部)への進学を熱心に勧めたのもこの父親で、連れ合いにより大きく左右される女性患者や身内の現状から、女性も職業をもつことを推奨した。
わたしの父もこういうひとだったらどんなによかったろう。ないものねだりは承知で文子は思ってみずにいられない。線の細い平太は自分自身の身の置き場を確保するだけにきゅうきゅうとしていて、同じく幸薄いむすめのさびしさを思いやるだけの器を持ち合わせていなかった。それだけのことだが、むすめの飢餓は深く沈殿した。
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時間をもどす。そんな文子を有頂天にさせたのは、憲吉がつくったこの世でひとつの作品だった。ある日の帰りがけ「これ、持って行きませんか」差し出されたのは、あざやかな瑠璃色をした小さな花壺だった。そこへ一輪の真紅の薔薇を持って一枝があらわれ「学校のあなたの机に飾ってね。いつも台所を手伝ってくれてありがとう」
また、別の日の夕方、憲吉が「これ、手塚さんのためにつくっておいたんですが」いつもの丁寧な口調で差し出したのは「文子愛用」と染め付けられた湯呑みだった。かたわらで一枝も「いいのよ、遠慮しないで。わたしが富本に頼んでおいたのですから」やさしく言い添えてくれる。文子の生涯の宝になったことは言うまでもない。
文子は一枝に恋している自分を知っていた。それとは別に憲吉への敬愛が深まっていることも……。三十代の夫妻と十代の文子の関係は、ひと口には表現できない綾に彩られていた。厳格すぎる奈良女高師の方針に反発し、ときに絶望的になりながらもなんとか無事に卒業できたのは、ひとえにおおらかな富本夫妻のおかげであった。
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