第43話 名古屋から訪ねて来た和枝は身重だった 👜

 


 諏訪から名古屋へ移って、以前ほど頻繁な手紙が届かなくなっていた和枝が、とつぜん寄宿舎を訪ねて来たのは、文子が最終学年四年生になったばかりの時節だった。面会人ですよと寮の給仕さんに呼ばれて入り口へ出向くと、顔も髪もそそけ立たせた和枝が立っていて「ちょっとでいいから外へ出てくれない?」先に立って歩き出す。


 寮友たちと何度か入ったことがある近所のお汁粉屋へ案内すると、絣の小座布団をくくりつけた木の椅子に浅く腰かけた和枝は陰気に押し黙ったままで、赤い塗り椀のお汁粉が運ばれて来ても、箸をつけようともしない。そのうちに「ねえ……わたし、どうしたらいいんだろうね~」いきなり口を開いたので、文子は呆気にとられた。


(いきなり訪ねて来るからには、よほどひどい目に遭ったにちがいない。本当にあの和枝かと目を疑うほど生気がなくて、まるでこの世の果てみたいな悲壮感を漂わせている。これが小学校の関先生がおっしゃっていた社会勉強ということなのだろうか。だったら、怖い。昨日までの小学生が無防備に放りこまれた大人の世界が恐ろしい)


 なにもかも文子が承知しているような口ぶりだが、唐突に言われてもなにがなんだかわからず、「なにがあったか話してくれなければ、ちっともわからないでしょう」「……話したって、お嬢さまの文子ちゃんにわかってもらえるような事情じゃない」「なら、どうしてここへ来たの?」「だって、ほかに頼れるひとがいないんだもの」



      *



 渋々という様子を隠そうともせず和枝が語るのは、十九歳の文子にとって驚天動地の出来事だった。「どうしてそんな不実な男と関係したりしたの?」「だから、あんたにはわからないって言ってるでしょう」「そんなこと言えば身も蓋もないじゃない」「腹が大きくなれば逃げちまう男がわんさかいるのさ、うちら工女のまわりにはね」


 製紙工女の生殺与奪は工場主や監督、検番と呼ばれる男たちの手に握られていることは文子も本で読んで知ってはいたが、まさかすぐ身近に卑劣な輩の犠牲になる例があるとは思いもせず、思いたくもなく、どこか遠い社会の出来事のようにとらえようとしていたのだから、和枝が指摘するように大甘の自分を認めないわけにいかない。


(なんだかんだ言っても和枝のような苦労をせずに済んでいるわたしは、決して自分の手を汚さず、いやなことはみな他人にしてもらって、腰の据わらない浮ついた生活を送っている世間知らずの女学生に過ぎない。和枝はそのことを見抜いているから、敢えてはすっぱな言い方をして、自分の落胆を悟られないようにしているのだろう)


「わたしを頼ってくれるのはうれしいけどね、岡野からの仕送りで生きているいまはなにもしてやれないよ。来春、就職してからなら、いくらだって援けてやれるけど」 「ふん、結局、文子ちゃんもあいつらと一緒なんだね。いいよ、もう頼まないから」「で、どうするの、産むつもり?」「ああ、名古屋に帰れば、なんとかなるだろう」


 とうとうお汁粉に目もくれなかった和枝を駅まで送って行き、名古屋までの切符を買ってやりながら「産んだら知らせてね」声をかけたが、和枝は顔を背けたままで、ホームまで送った文子を拒絶するように窓を閉めると、それきりこちらを見ようともしない。妹になにもしてやれない姉のような気持ちで文子は遠ざかる汽車を送った。


 


      *



 ひとりで寄宿舎への道をたどりながら、文子はこの社会の不条理を恨まずにいられなかった。以前の和枝は、労働組合の友愛会婦人部が発行している新聞を読んで勉強していると書いていたのに、いつの間に好きでもない男とそんな関係になったのか。おそらく言うことを聞かなければ仕事で不利を強いられる状況にあったのだろう。


 複数の工女と不適切な関係をもった男は逃げてしまい、男は男同士で庇い合うのでどうにもならず、困り果てた工女は闇で堕胎して身体を傷つけたり、それもままならなければ鉄路や湖、川に身を投じたり……目を覆いたくなるような悲劇が各地に頻発している。そういう社会構造の頂点に暴利を貪る企業主とその家族が君臨している。


 無意識に袴の裾を強く蹴り上げながら、文子は長野女学校で権勢をふるっていた「須坂勢」の面々のわがままな振る舞いを思い出さずにいられない。高価な着物で着飾った彼女たちは同じ年代のむすめたちからの搾取で成り立っている贅沢な暮らしに一分の疑問でも抱いてみたことがあるだろうか。いや、そういう岡野だって……。




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