第5章 就職と結婚、最愛の夫との永訣、そして……

第44話 育ての親として愛しんでくれた祖父との永訣 👴



「ソフ ビョウキ キタクマツ」という祖母からの電報を受け取ったのは教育実習の最終日だったので慌てたが、すぐに「モチナオシタ ソツギョウシキ スミシダイカエレ」と追伸が届いたので、気もそぞろで卒業式を済ませた文子は、大急ぎで汽車に乗り、年寄り夫婦が待つ中田へ急ぐ。乗り換えの小諸駅でカルピスを土産に買った。


 家へ入るなり、枯枝のようにやせ細り、土気色の顔、深く窪んだ眼窩、細く尖った鼻骨と歯のない萎んだ口に変わり果てた祖父のすがたに衝撃を受けた文子は「いつの間にこんなに?!」ひとまわり小さくなった祖母に縋って号泣する。「あんた、文子が帰りましたよ」「おお、文子か。文子、どこにいる、文子。どこだ、文子、文子」


 かすれ声をふり絞る祖父は見えない目で孫むすめを探していたが、そのうちにグルグルとのどを鳴らせ、こけた頬に滂沱のなみだをこぼし始めた。「あんた、そんなにお泣きなすって!! 無理もない、あんなに待ちわびていた文子に会えたのですから、さぞ満足なさったでしょう、幸せでしょう」祖母の言葉に送られ祖父は旅立った。


 おじいちゃん、なぜあと一か月待ってくれなかったの? わたしの初めての月給をひと目見て欲しかった。おばあちゃんとふたりで一所懸命に育ててくれたご恩返しの真似事をさせて欲しかった。おじいちゃん、いままで本当にありがとうね。これからは空からおばあちゃんを守ってやってね。文子は祖母と抱き合っておいおい泣いた。



      *



 親せきや近隣が駆けつけての葬儀の喪主には文子が名乗り出た。本来ならカナダへ行っている長男の役目だが、かといって祖母では心もとないので、むすめ代わりの自分しか担い手があるまいと思って勇気を出した。岡野の父が喪服で到着したときは、すでに葬儀の準備が始まっていたので、途中で父に入れ替わることもできなかった。


 気負った表情で喪主代理をつとめているむすめに、父は衝撃を受けた様子だった。早くに実母を亡くし、大勢の異母弟妹のなかで遠慮しながら大人になった平太には、自分をよく理解してくれる豊とのあいだに築いた親密な家庭に目障りな異分子である文子の存在が、巌のようなストレスになっていることを認めないわけにはいかない。


 心の病気からの胃痛や下痢に悩まされてやせ細っていた体調も、祖父母が隠居し、弟妹たちも独立して、ようやく自分だけの家庭を得たいまはうそのように落ち着いて来ている。そこへ学校の長期休暇のたびに先妻のむすめが帰省して来るのだ。胃が、腸が悲鳴をあげ、その痛みがつい顔に出るので、当のむすめにも率直に伝播する。


 正直、このむすめさえいなかったらなあと思うことも何度かあった。それは理屈ではなく感覚の問題なのだ。妻の豊はそんな夫をやさしく労わり、ふたりきりのときに弱音を吐くと「大丈夫、わが家はだれにも壊させはしませんから」と言ってくれる。だから、今日の葬儀にも自分だけで来た。むすめにはそれが不満のようだが……。


(いくらなんでも、義理のむすめの養父であり、自身の叔父でもあるおじいちゃんのお葬式にも顔を見せないままって、豊母さんというひとの心はどうなっているの? それを許す父さんともども似たもの夫婦ということかもしれないけど、それにしてもあんまりじゃないの。わたしたちをどこまでないがしろにすれば気が済むというの)


 無事に葬儀が済むと父はむすめに訊いた「赴任先へ発つ前に、家へ寄るだろうな」「はい」「亀山町へはすぐに発つのか」「ご挨拶したら、その日のうちに」「そうか」「あのう……義母さんは見えなかったのですか?」「うむ……」最小限の短い会話。出発時、気弱になった祖母を託す春子から和枝の住所を書いた紙片を手渡された。



      *



 本籍を置く、れっきとした自分の町ながら、親しい知人といえば遠藤時子のお寺の家族しかいない、なんともよそよそしい故郷という名の岡野に帰った文子が、まず足を向けたのは、父の家ではなく祖父母の別宅だった。ここには、後添いながら温かに遇してくれる祖母がいる。この血を引かないひとに、まず卒業証書を見せたかった。


 孫の前でも威厳をくずさない祖父とちがって物腰のやわらかな祖母は、いままでもそれとなく気にかけて手づくりの甘酒を飲ませてくれたりしていたが、いまも汽車賃にと紙包みを持たせてくれた。その余韻に励まされながら父の家へ向かうと、奥の座敷からこの家の家族の親密な笑い声が聞こえて来た。そこへ入るのには覚悟がいる。


 障子の前で丹田に力を入れ「文子でございます」と声をかけると一瞬の間があり「入りなや」父の声に翳りが帯びたことを聞き逃さない。思いきって障子を引くと、そこには巣箱があった。親鳥が雛鳥たちを守る、ほかのだれをも寄せつけない巣箱。闖入者の文子は慌てて卒業の挨拶をすると「これから亀山にまいります」と告げる。


 一礼して立ち去ろうとすると義母が「ここへ来て炬燵にお入り」と言ってくれた。だが、どこにも空きスペースが見当たらない。「ありがとうございます。汽車の時間が迫っていますのでこれで」卒業証書を見せる機会もないまま、祖父母の家にも持参した奈良の銘菓「青丹よし」を障子の前に、そっと置くと、もう一礼して退出する。


 玄関で下駄を履いているとき「いよいよひとり立ちだな」背後の声は、和服を腕組みした父だった。「はい、おかげさまです。では、行ってまいります」そう告げるのがやっとだった。逃げるように歩き出した文子は、玄関の外で見送る父の気配に一度もふり返らない。ぼろぼろこぼれるなみだをこのひとだけには見られたくなかった。




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