第45話 就職して三重県女子師範学校の教壇に立つ 🏫



 亀山の駅に降りるのは、はじめてだった。これまでは帰省の際の通過駅で、汽車の窓から名物「赤福」や「関の戸」を買うだけだったが、これからはまさにホームの駅になる。えにしというものの不思議を思わずにいられない。古い看板を掲げた旅籠の暖簾をくぐると、肌寒い奥まった部屋に案内された。急に疲れが出て眠くなった。


 奈良女高師の先輩・福田先生とは勤務先の三重県女子師範学校で会うことになっていた。紫の袴にお召の縞の着物、黒紋付の羽織、いかにも教師という雰囲気を全身に醸し出す背中について行くと、職員会議の際中の校長室へ入って行った。禿頭で丸い温顔の校長、小柄で目つきの鋭い蟷螂みたいな教頭が初任地のツートップらしい。


 校長はともかく、自己紹介をしても、じろりと一瞥をくれただけの教頭とこれから毎日顔を合わせるのか~、しかも、就学時代の教師と学生の関係ではなく、社会人の上司と部下として……果たしてやっていけるだろうかと不安になったが、すぐ講堂に移動させられ新任式に臨む。数えで二十二歳。生徒の姉のような教師の誕生だった。


(やれやれ、いままで身近な大人といえば恩ある先生方だけだったけど、同じ先生でも、今日からは縦社会の上司、なにがあっても絶対服従を強いられるのかしら。それがどんなことか、わたしにはまだわからないけど、ひとの好さそうな校長はともかくにこりともしない教頭は、なかなか手ごわそう。後進のあら探しが好きそうだもの)


 意表を突かれたのは、国語、歴史、作法の授業のほかに、寮の舎監を命じられたことだった。文子の机は二名の舎監兼務教師と同様に舎監室にあるという。本来の教育より舎監業務に比重があると言われた意味を、文子は日ならず理解することになる。自身、生徒としてふたつの寮を経験したが、舎監がこれほどの重責だったとは……。



      *


 

 新任式のあと、福田先生に案内された下宿は髪結いの二階だった。「奥まった立地だから外から見えにくいし、客も女性だけなので独身の女教師の宿にいいと思うの」予定が詰まっているらしく、せかせかと早口の説明のあとをついて階段をあがると、開け放った窓から亀山駅を行き来する汽車や駅員、乗客が手に取るように見えた。


(髪結いさんの二階という環境が是か非かわからないけど、この窓からの景色だけはもうけものかもしれないわね。居ながらにして旅行気分が味わえるなんて、そうそうあるはずがないもの。中田が恋しくてたまらなくなっても、いざというときは、あの駅からいつでも帰れると思えば、たいていのことに堪えられそうな気がして来るわ)


 慌ただしく福田先生が立ち去ると、鈴鹿山脈の狭間の小さな町で新卒の何年間かを送ることになった自分の人生がしきりに物語じみて思われて来る。今日は祖父の初七日に当たる。いまごろ祖母は、春子に助けられて法要を終えたころだろうか。ずいぶん遠くへ来たものだ、もう引き返せないという思いはセンチメンタルな郷愁を誘う。



      *



 あっという間に一か月が過ぎ、文子は初月給をもらった。本給八十円に舎監手当を加え百十二円也をはじめて自分で稼いだのだ。一か月の食費と部屋代を取り分けると郵便局へ行って祖母に為替を送る。同封の手紙に「このお金はおばあちゃんの好きなように使ってね。仏壇にはお酒を、春子さんにもお小遣いをあげてね」と記した。

 

 こういうよろこびがこれ一回だけでなく、これから毎月待っていることを思うと、浮き浮きそわそわする。帰路、その昂った気持ちで菓子屋へ立ち寄り、岡野の両親と祖父母に名産を手配する。学費の利息分だよ。そんなことを考える自分がおかしい。その足で呉服屋に行き、臙脂に格子縞の銘仙を、和枝用にも別柄の銘仙を買った。


(和枝とはあれきりになっているけど、いつか再会できたとき、あのとき援けてあげられなかったお詫びに似合いそうな銘仙を贈りたい。女性にとって着物は命に次いで大事なものだし、いままで地味なものしか着ていなかっただろうから、若い年ごろにふさわしい、華やかで明るい色と柄で装えば、陰うつな気分も少し晴れるだろう)


 下宿の美容院母子に部屋代を手渡してトントンと自分の部屋にあがる。袴を脱いで畳に横になり、手枕をして駅の人影をぼんやり眺めていたら、だらだらなみだがこぼれ出た。ようやく、本当にようやく、ひとり立ち出来たのだ。お仕着せではない好みの柄の着物を晴れやかな気持ちで着ることが出来るなんて、なんという幸せだろう。



      *



「授業と舎監の二本立ても、慣れれば平気になるわよ、若手はみんなそうして来たんだし」相談した福田先生にもそう諭され、怒涛のような一学期を終えたが、不慣れな業務の疲労で芯の疲れが取れないので、二学期の初頭、校長に直談判することにした。校長への直訴は学生時代に経験済みなので、さして勇気を必要としなかった。


(いやだ、わたしったら、いっぱしの闘士みたいになっている。それもそうだよね、長野女学校でも奈良女高師でもそれなりに主張して来た実績があるもの。きっと前例がないとか、前任者に出来たことがあなたに出来ないはずはないとかいう理由付けで突っぱねられるだろうけど、黙って堪えているより、言ったほうが絶対いいよね)


「ご相談があります。授業か舎監のどっちかの担当にしていただけないでしょうか。でないと授業がおろそかになるか、逆に責任ある舎監の責務に差しさわりが出ることになりかねませんので」練習しておいた文言を切々と訴える文子に丸い温顔の校長は「自分の意見を通したいなら、手塚さん、早く偉くおなりなさいね」と微笑んだ。




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