第30話 偶然の対峙/Re-encounter

『救世主さんへ いつか私のお友達になってくれませんか? S.A.より』


 神崎は、繚介の携帯画面に表示された写真の文章を読み上げた。


「その手紙が、紗香の靴箱に入っていたらしい」


「これは……普通に考えてラブレターか何かじゃないか?」と神崎は言う。


「俺もそう考えている」繚介はうなずく。「だが、紗香は違う」


「これが〈救世同盟〉が実在する証拠……? 確かにそうとれなくもないが」


「最後の差出人〈S.A.〉は、〈救世同盟Salvation Alliance〉の略だそうだ」


「じゃあ、紗香は」神崎は推察する。「これを〈救世同盟〉の勧誘メッセージとか、なんかそういうもんだと勘違いしてしまっているんだな」


「そういうことだ」


「なるほど」


 神崎は自分の頬をさする。それは困ったときの、彼の癖だった。

 それほどまでに深く都市伝説を信じ込んでいる人間を、どう説得するか。

 ただの虚構のための命を懸けた戦いから、どう引き離すか。

 神崎が考えあぐねていると、ウイスキーを一口飲んで繚介は言った。


「だが逆にその思い込みを、利用することもできた」


「利用?」神崎はテーブルの上から、繚介の顔に視線を上げる。


「ああ。簡単な工作だ」繚介はその概略を説明する。「俺はひとり高校の校舎に潜入し、さっき見せた写真とよく似た〈救世同盟〉からの偽物の手紙を、校内の〝特定の場所〟に配置する。そのあと、帰り際に紗香の靴箱に目印を残す。そうすると、翌朝に登校した紗香は靴箱の目印を確認し、あらかじめ伝えられていた〝特定の場所〟に紙切れを回収しに向かう。この繰り返しだ。これはデッド・ドロップ方式と呼ばれる、実際のスパイの情報交換技術だ」


「それに意味があるのか?」まだ真意がとらえられない神崎は、率直に訊く。


「こうすることで、紗香は毎日学校に通うようになった」


 それが、彼女が学校に通っている理由だった。

 思えば、たしかにおかしい部分はあった。

 彼女は自分が救世主である――そうあらねばならないと信じ込んでいながらも、なぜ学校になど通っていたのか。

 元より彼女は、監理局の施設で育ったのだ。義務教育どころか、その前段階の教育すら、紗香は真っ当な機関の下で受けていないだろう。ならば高校などはなから無視して、監理局との戦いにでも専念しておけばいいのだ。

 それが、繚介の工作によって、彼女に登校する動機が生まれた。

 憧れの〈救世同盟〉からの手紙を読むために、紗香は毎日登校する。

 でもその手紙は、本当は、繚介の書いた偽物の手紙で。


「手紙には〈救世同盟〉からの課題を書いて与えている。その内容は至ってシンプルだ。〈 五人以上の同級生と会話しろ〉とか〈誰かと食堂で昼飯を食え〉とか。とにかく、あいつが学校生活に少しでも馴染めるように誘導するのが目的だ」


「お前、妹のためにわざわざそんなことまでしてたのかよ」


「俺は妹の夢を利用して、だましているんだ」と繚介は言う。


「それは――」神崎は言葉に詰まってしまう。


「手紙を置く〝特定の場所〟は、体育倉庫だ。そうすることで、紗香を体育委員という交流と責任のある役職にまで就かせることができた」


「だったら」


 神崎は言う。


「お前のやってることは、きっと紗香を救ってるよ。少なくとも今の紗香に希望を与えているのは、お前の書いた手紙なんだし」


「だと、良いんだがな」繚介はキャンドルの炎を見つめて、黙り込む。


「しかしまあ、ずいぶんとったことをしてるよな」神崎は感心したように言う。「それも毎日だろ? よくバレないな」


「監理局の諜報員でなくとも、訓練を受けた者にとって、夜の校舎に潜入するのは簡単なことだ。手紙自体は紗香以外に見つかっても、単なるイタズラとしか思われないしな」


「……確かに」神崎は納得する。


「それに、毎日やる必要はない。手紙があるかどうかは登校するまで分からないし、配置場所は体育倉庫だから、紗香の時間割に体育がある日にだけ配置できれば充分だ」


「なるほど。じゃあ――」


 神崎が話そうとした瞬間、


「ち、血塗ちまみれの狂犬~~~っ!!」


 店内の一角からの、酔った男の悲鳴が重なった。

 繚介と二人同時に、視線をカウンター席に向ける――。


  *


(――なぜあの二人が、あたしと同じホテルに?)


 モルガンは考えていた。

 きっと必然的な理由はない。偶然に偶然が重なった結果だろう。

 それよりも重要なのは、いまのこの事態が、監理局とモルガン自身のキャリアにとって、またとない好機だということだ。

 そう気付くや否や、モルガンは椅子から立ち上がった。床に足をついた瞬間、足元が抜けて、落下していくような眩暈がした。立ち眩み。予想以上に酔いが回っているようだ。

 モルガンはバーテンに水を一杯用意するように指示し、それを一気に飲みほして、もう一杯注がせると、今度は頭から浴びた。

 まだ冷えきっていない頭を揺らしながら、二人のいるテーブル席へと詰め寄っていく。

 どん、と両手をテーブルについた。それは威嚇行為というよりは、単に身体を支えるためだった。現実が支えを失ったようにぐにゃりと歪んでいるなか、そうせずには立っていられないと思ったのだ。


「ねえ、あんた」


 焦点の定まらない視線は、神崎大翔に向けられている。


「……なんだ?」


 神崎はその生来の目つきの悪さ以上に、露骨な威圧感をかもしていた。

 彼の目を見据えて、モルガンは言う。


「大人しく連いてきてくれると、こっちとしては有難いんだけど」


「悪いが、そういうわけにはいかないな」


「へえ、結構きもが据わってるじゃん。前に会ったときは、隅っこでうずくまってたクセに」


 モルガンは目を細めて、ぞっとするような薄ら笑いを浮かべた。

 戦う前から勝ち誇ったような表情は、母親の笑みとよく似ていた。 

 神崎はそれにも気圧されることなく、睨んだままだ。


「喧嘩なら、外で引き受けるけど」


「喧嘩、ねぇ。ここで反抗すると、後であたしよりもっと怖い諜報員アセットたちが来るかもよ?」 


諜報員アセット?」神崎は眉根を寄せた。「お前、監理局の人間なのか?」


「そうだけど。まさか気づいていなかった?」モルガンは少し動揺した。


(そうか――初めて会ったとき、こいつはほとんど意識を失いかけてたから……あたしの顔を覚えてないのか……? だとしたらこいつはあたしを――酔っ払った喧嘩好きの女かなにかだと思っていた?)


 モルガンはいささか不本意に思った。

 眼光炯々と睨み合う二人の意思が膠着しはじめたところで、今まで黙って酒を飲んでいた繚介がことり、と音を立ててグラスを置いた。


「……ここは大人しく従おう、神崎」そう言って、両手を挙げて立ち上がる。


 神崎は一抹の不安を抱きながらも、それに続いた。


「それでいいの。じゃ、ついてきて」


 先行するモルガンに付き従い、二人はバーを出ていく。

 その途中、玲は酒のボトルを持ったまま、小声でバーテンに話しかけた。


「このボトル、持ち帰りで。包装はいいから」


 バーを出て人通りのないところに来ると、玲はボトルを持っているのとは逆の手で、スタンガンを取り出した。その銃口は、神崎と繚介の背中に向けられている。

 通常のスタンガンならば、接近して本体を対象に押し当てるようにして扱う接触式と、射出体が本体と銅線で繋がれたワイヤー針式(〝テーザー銃〟とも呼ばれる)の二種類に大別される。だが、玲が手にしているのは従来の二種とも異なる、遠距離発射型のワイヤレス式スタンガンだ。マットブラックのハンドガン型本体から射出される電気弾は標的の肌に吸着し、遠隔操作で電気ショックを与えることができる。射出には、薬莢やガスを全く必要としない。


「この期に及んで、酒は持ったままなのか?」神崎は玲の方を一瞥して言う。


「この期に及んで、お喋りできるわけ?」とモルガンは神崎を睨みつける。


「お前、知らない顔だな。諜報員アセットじゃないな」今度は繚介が、玲に言う。


「黙れ」モルガンの声には凄みがあった。


「私はナルク所属の研究者、京極玲。以後、お見知り置きを」


「あんたも答えなくていいから」



 モルガンはルームキーで扉を開き、二人を部屋のなかへと誘導した。


「玲、こいつらを拘束して」


 モルガンが指示する。


「あたしはレインバードに連絡するから」


 モルガンは寝室へ去っていくと、酔った様子の玲は、ふらふらとテーブルに寄っていった。

 ウイスキーのボトルをテーブルに置いて、再びスタンガンの銃口を二人に向けようとする。

 が、そのときには彼女の背後に回っていた繚介が、ボトルを持ち上げていた。玲がそのことを認識するより先に振り下ろされたボトルが、玲の後頭部に直撃しようとして――ボトルが硬質な音を立てて、粉々に砕け散った。

 繚介の手には、注ぎ口の部分だけが残されていた。

 他はすべて粉砕されていた。玲の身体に接触することすらなく、いきなり見えない外圧をかけられたように、ボトルはひとりでに潰されたのだ。

 あまりに突然のことに、繚介は飛び散ったウイスキーを頭から浴びたことにも、気付かなかった。


(いま、何が起きた……?)


 神崎も――寝室からを見ていたモルガンも、ただ呆然としていた。

 ただ一人、玲だけがまったく冷静のまま立っていた。

 即座に背後を向き、繚介に向けて引金を引く。

 射出体がシャツの上から吸着し、そこから全身に向かって電流がほとばしる。

 ショックで筋肉は強制的に収縮し、繚介は身体の自由を失い、床に倒れた。

 映画のように、一瞬で気絶することはない。一時的に身動きが止まる程度だ。


「助かったわ、モルガン」と玲は言った。


 いったい何ついての感謝なのか、モルガンの心の中に小さな疑問が生まれたが、それを考える余裕のある場合ではなかった。

 繚介はあがいている。四肢が痺れていて、立ち上がることができない。

 玲とモルガンは残る標的、神崎大翔ブルーストリークの方へ詰め寄った。

 あとずさる神崎はすぐに部屋の隅に追い詰められ、逃げ場を失う。

 レーザー照準器サイトが太ももを狙った。

 そのかすかな熱がズボン越しにも感じられるのは、錯覚だろうか。

 駆動した生存本能が感覚を野生動物のように研ぎ澄まし、心臓が早鐘を打ち始める。

 その鼓動で、肋骨が破壊されるのではないかと思った。

 色を失った低速スローモーの世界。

 玲の白い指が引金に掛かろうとする。

 瞬間に、脳の深部で、信号のようにチカチカと赤い疼痛とうつうが点滅した。


 ――検索開始。


 記憶が走馬灯のように回転し、生存手段を検索する。


 ――――検索に成功。


 比較的新しい記憶に刻まれたまま、神崎の肉体は動き出す。


(――やってやる) 


 神崎は超人的な速度で、玲の目前に立っていた。

 スタンガンの銃身をつかみ、顔面を射程範囲から外すように押す。

 紗香に教え込まれた護身の技術だ。

 発射された電気弾は軌道を逸らされ、モルガンの太ももに吸着した。


「――ッ⁉」


 モルガンの反応より速く、玲の胴体を蹴り飛ばし、武器を奪い取る。


(これで死んだり、しないよな――⁉)


 続いて玲に向かって撃とうとするが、電気弾が発射されない。

 使用するには、設定された生体認証を通過する必要があるのだ。

 数秒の動揺をみせた隙に、玲はモルガンのほうへ駆け出していた。


「しまった――!!」


 玲はモルガンの身体を抱き上げ、窓ガラスを突き破って飛び降りた。

 神崎が窓に駆け寄ったときには、二人の姿は消えていた。

 この部屋の階数は――三十五階。落ちて助かる高さなどでは決してない。


「逃げられたか……」


 繚介は窓枠に身を預けるようにして立ち上がり、感情を噛み殺すように言った。


  *


 「ただいまー」


 神崎がホテルの部屋に戻ると、すでに室内は真っ暗になっていた。


(和泉は……さすがにもう寝たか)


 神崎は壁伝いに玄関を抜け、リビングに足を踏み入れる。


「……またかよ」


 そこには、ソファに座ったまま眠る紗香の姿があった。


「やれやれ」と呟きながら、神崎は自分の頬をさする。


 数秒間で意を決して、紗香をお姫様だっこの要領で持ち上げた。

 ベッドまで運搬する途中、シャツのネックの部分が引っ張られるのを感じた。

 紗香が、首に腕を回すようにして、と抱きついていたのだった。

 神崎は不意にどきりとする。それは瑞々しい感情だけによるものではない。

 この前はいきなり首を絞められたのだ。

 今日は刺されてもおかしくないと思う。

 なのに、攻撃されなかった。

 繚介の言葉を思い出す。


『紗香は、お前が好きなんだ』


 それぐらい、二人の関係性は、時を経て改善したのだろうか。


(んなこと、あるわけねー……)


 ただの寝相に決まっている。

 紗香をベッドに乗せて、布団を掛ける。


「どこ、行ってたの?」


 暗闇から亡霊のような声がした。

 神崎は驚いて、すっ転びそうになる。


「急に起きんで下さい」


 震えた声を搾り出す神崎に、紗香の眼光が刺さる。


「アイス」と紗香は言った。


「……アイス?」神崎は小首をかしげる。


「買ってきて、って言ったよね?」


「あっ」神崎は思い出す。「ああっ!! そういや忘れてた!!」


「……うそつき」消え入るような声で言う。


「悪かったって。今度なんか埋め合わせするからさ」


「……戻るの遅かったけど、どこ行ってたの?」


「繚介と二人で酒飲んで語ってた」神崎は素直に答えた。


「そう」紗香は低く平らな声で言う。「心配、したんだから」


「……悪い」


「まあ、いいわ」紗香は欠伸あくびをする。「もう寝るから。おやすみなさい」


 そう言ってベッドに倒れ込むと、すぐに穏やかな寝息を立てる。

 彼女の幽幽たるオーラは、純粋に眠気によるものだったのだろうか。

 神崎は、まだ彼女のことなど何も知らないのだろうなと、悲しむでもなく、ただ、思うのだった――。

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