第29話 過去の亡霊/Redemption

 ホテルの地下に設けられた、いかにも高級なバー・ラウンジ。

 神崎は繚介に誘われて、そのテーブル席に座った。

 地下という場所も相まって、まるで秘境の洞窟のような趣がある。

 あまりに上品で優雅な雰囲気に、かえって気が休まらないなか、神崎は繚介の話を黙って聞いていた。

 繚介は二十七年物の高級ウイスキーをオン・ザ・ロックで飲みながら、言う。


「〈救世同盟〉ってのはまあ、都市伝説みたいなもんだ」


「都市伝説?」神崎は訊き返す。


「そうだ。だが紗香は、それが実在すると思い込んでいる」


 繚介はグラスの中身をちびりと飲み、さらに説明を付け加える。


「都市伝説といっても、知っている人間はかなり限られている。俺や紗香のようにかつて〈施設〉にいた能力者だけだ」と繚介は言う。「絶望のただ中にいた俺たちにとって、それは希望の象徴のような物語だった。世界のどこかに〈救世同盟〉という監理局と対立する組織がある。彼らは平穏な世界を何より目指していて、陰ながら能力者の保護活動や監理局への反乱工作を進めている」


 言葉を紡ぎ出すにつれ、繚介の瞳には何かの感情が宿っていく。


「そして彼らはいつか〈施設〉に現れて、俺たちを救い出してくれる、とな」


「それって――」神崎には心当たりがあった。よく似た組織を知っている。


「そっくりそのまま、だろ? 紗香の〈リビルダーズ〉と。でもな」繚介はこう続ける。「そんな都合のいい組織が、実在するわけないんだ」


「だったら、その〈救世同盟〉をつくるのが紗香の目的……ってことなのか?」


「いいや、違う。さっきも言ったろ。紗香のなかでは〈救世同盟〉はことになってるんだ。あいつの夢はリビルダーズを〈救世同盟〉の仲間に入れてもらうことだ」


「だとしても」神崎は率直に指摘する。「なぜそれに命まで懸ける?」


生存者罪悪感サバイバーズ・ギルト」唐突に繚介は言う。


サバ……なんだって?」眉を顰めて神崎が訊く。


「虐殺を生き延びた人間が、犠牲者に対して抱く罪悪感のことだ」


 繚介の瞳に宿った感情は、悔恨だった。 

 監理局の施設の中で紗香たちを襲ったわざわいの連続は、間違いなく虐殺の域にあった。

 そこで起きた話は、神崎も以前に紗香から聞いている。

 教官に人の殺し方だけを徹底的に教えられたこと。

 そして友人である〈エリクシア〉を殺せと指示されたこと。

 最後には殺すことができず、命令に背き〈施設〉を逃げ出したこと。


「それがあいつの〈救世主妄想メサイア・コンプレックス〉の引き金となっている」


「〈救世主妄想メサイア・コンプレックス〉」神崎は繰り返す。「また難しい言葉が出てきたな」


「紗香はよく、自分のことを救世主だと言うだろう?」


「確かに。もう聞き飽きるくらいには言ってるな」神崎は頷く。


「それのことだ。自分が救世主になる宿命だという誇大妄想」繚介は言う。「その思い込みは、今の自分が過去――つまり紗香の場合、〈施設〉時代――よりも幸せなはずだという強迫観念からはじまる。幸せな人間は、不幸な人間を救うものだろう? 紗香はその論理の因果関係を逆転させているんだ」


「『不幸な人間を救っているのだから、自分は幸せだ』ってことか?」


「そうだ」繚介は言う。「その論理で、あいつは〈救世同盟〉を夢見ている」


「不幸な人間を救う象徴だから、か。なるほど」神崎は言う。「あいつのことが、前よりちょっと分かってきたぞ」


「それは嬉しい限りだ」言葉とは裏腹に、繚介は湿っぽいままの声で言う。


「でも、それなら簡単じゃないか」と神崎は言う。


「なんだ?」


「紗香に、真実を伝えてやればいいんじゃないのか?」神崎は訊いた。「その〈救世同盟〉は、存在しないと」


「当然、そうしたさ」繚介の瞳の奥で、悔恨の色がより濃くなった。


「でも、変わらなかったのか」


「ああ」繚介は言う。「不運にも、あいつは証拠を持ってたんだ」


「証拠って」神崎は訊く。「〈救世同盟〉が実在している証拠、か?」


 繚介は無言で、携帯の画面を見せてきた。

 薄暗い空間に対して画面の光度がきつく、神崎は目を細める。


「おっと、悪い」繚介は画面の光度を調節して、最低まで下げた。


 するとそこに映っていたのは、一枚の紙切れの画像だった。

 等間隔の罫線が横向きにはしる、ありふれたルーズリーフの切れ端。

 そこには大きな文字で、たった一文の言葉が丁寧に書かれていた。


「読んでみろ」繚介が言う。


 神崎は、そこに書かれていた文章を読み上げる。


『救世主さんへ いつか私のお友達になってくれませんか? S.A.より』


  *


「――ぷはぁ~…っ!!」


 どん、と音を立てて玲がショットグラスを置く。

 その二人の間では金髪の青年が、酔いつぶれてカウンターに突っ伏していた。


「で、本当に恋人はいないの?」


 玲はそう言いいながら、新たにショットに酒を注ぎ、一気に飲みした。


「だから、いないってぇの~…っ」


 うめくように答えて、今度はモルガンがショットをあおる。


「じゃあ……彼とかどう?」


 玲は突っ伏している青年の髪を掴み、その顔を無理やりにモルガンの方へ向けた。彼の顔は額まで真っ赤で、口元は緩み、そこからテーブルに唾液がだらりと滴り落ちていた。

 突如現れた金髪の青年の正体は、なんとただのナンパ師だった。

 監理局の差し向けた諜報員アセットでも、京極玲の関係者でもなく。

 自己の欲求に溺れ、他者の心を軽視する、身の程知らずの色狂い。


「あたしが、こんな葡萄酒野郎ボルドーボーイと?」


 モルガンは退屈そうな表情の上に、どこか玲にも似た人の悪い笑みを浮かべて、青年を指さして言った。ちなみに、葡萄酒野郎ボルドーボーイというあだ名を考えたのは玲だ。その語呂がなんとなく可笑しくて気に入ったので、モルガンも便乗して使っている。


「はっ、ゆであがったタコみたいな顔してる」


「いいじゃないの。可愛げがあって」


「でも、最初あんたに話しかけてたよね? こいつの目当て、あんたの方だったんでしょ」


「それはただの、ちょっとしたテクニックね」


「テクニック?」


 モルガンは訳がわからないというふうに聞き返した。


「最初は〝じゃない方〟から声を掛けるの。平等に接しないと、邪魔になるからね。女を口説くときの常套手段よ」


「そんな回りくどいこと考える脳味噌あるの? この頭に」


 そう言って、モルガンは青年の額を小突いた。


「それに」玲は言った。「ホテルのバーに白衣で来るような変な女ウィアードに興味を持つ人間は少ない」


「そういうの、自覚はあったんだ」


「ええ。私も、彼はあまりタイプじゃないし。口説き文句もよくないわ」


「どういうのが正解なの?」


「簡単よ」


 そう言って玲はモルガンの肩に手を置いて、両方の目をじっと見据えた。

 その視線を改めて意識して、モルガンは胸がどきりとする。

 勿論それはロマンティックな緊張などでは決してなく、何かを見透かされているような居心地の悪さによるものだ。


「……〝君の瞳に乾杯〟ってね」


「――ぷっ……」


 吹き出した。


「私はこれで恋に落ちたことがあるわ」


「一夜の迷いってやつ? あんたも結構やることやってんだ」


「いいえ、迷いなんかじゃないわよ。私は本気だった。たしかに飲んではいたけど」


「そもそも、あんたが誰かと惹かれ合うことがあるとは思えないんだけど」


 そんな歯の浮くような文句で、よりにもよってあの京極玲が落とされることが本当にあるのだろうか。なにしろ彼女の髪はいつも乱れているし、口から先に生まれてきたかのような多弁な女なのだ。いったいどんな男に好かれ、どんな男と恋に落ちるというのだろう。

 とはいえ、普段あまり日光を浴びないからか、肌は白くて綺麗だし、あの不気味な笑みさえやめられれば――もしが京極玲でなければ、そこそこ美人な部類に入るのではないか、とも思った。


「なかにはいるのよ。物好きな知性愛者サピオセクシュアルがね」


「ふーん、寄特な男もいるものね」


「ま、貴方の父親のことなんだけど」


「……」


 モルガンは言葉に詰まったように沈黙した。


「私たちが親子だなんて、まだ信じられないわよね」と、玲が珍しくも同情的に言う。


 彼女が母親であることはつい数十分前に明かされたばかりだ。まさか忘れたわけでもない。

 ただ――どうにも真実味が感じられないのだ。

 かといって、玲がわざと悪意のある冗談を言って騙している、というような気もしない。

 ……その違和感の原因は、探すまでもなかった。


「それは、その顔のせいよ」とモルガンは言った。


 どうしても玲が自分の母親に見えないのは、彼女が母リサ・ストロングマンではなく、京極玲の姿をとり続けているからに違いない。リサと玲は人種すらも違うし、外見的に似ているような部分はほとんどない。

 だから、モルガンが彼女に対して抱く印象は、いつまでもナルクの研究員・京極玲なのだ。


「あら、この顔が気に入らなかったの? そう言ってくれれば、すぐ変えたのに…」


 そう言うのと同時に、玲の顔はまるでアイスクリームが溶けていくように、どろどろと変形を始めていった。


「ちょ、ちょっと待った!! あんた、こんな場所で堂々と能力を使う奴がいるっ!?」


 モルガンは慌てて叫びそうになるのを抑えて、周囲に聞こえないよう小声でたしなめた。

 すると玲の顔はすっと元に戻り、そのまま平然とした顔で話し始めた。


「外見や第一印象ファースト・インプレッションに踊らされちゃ駄目よ。さっきも言ったけど、前へ進むには、常識を捨てなければならないときもある」


「じゃあ、せめて」とモルガンは言う。「あたしの母親しか知らないようなことがあるでしょ。そういう話をしてみてよ」


「いいわよ」玲は快く聞き入ると、遠いなにかをいつくしむような目で天井を眺め始めた。「貴方と生き別れる前のこと。わたしたちはよく、うちでかくれんぼをしてた」


 あたしにそんな記憶はない――そう口にしようとした寸前、モルガンは見つけ出していた。胸の底で眠っていた、古い古い記憶の欠片を。

 港町の家。母と二人きりの生活。そして、かくれんぼ。


「貴方は、いつも同じ場所に隠れてた。憶えてる?」


 モルガンは首を横に振る。思い出せない。


「押し入れの中」と玲は言った。


「……そうだ」


 少しずつ、思い出していく。

 記憶とは不思議なものだ。何年も振り返っていない記憶でも、その切れ端を掴んだ途端、なにもかもが鮮明に思い出されたりするのだから。

 押し入れの中の、劣化した木部のかびほこりの混ざった匂いすら、いまでは鮮やかに甦っていた。


「狭い家だったからね。隠れられる場所なんて、そこぐらいしかなかった」


 玲が言い足す。だけど、理由はそれだけじゃなかった。

 扉の閉め切った押し入れ。真っ暗の密室。

 そこで、モルガンはいつも――。


「星空を、眺めていたのよね」


「……そう。いつかママに買ってもらった、家庭用のプラネタリウム。あれを、暗い押し入れの中で眺めるのが好きだった」


 壁と天井に映し出される満天の星空。それはどう見ても子供だましで、星は五芒星の形をしていたし、月はいつだって三日月のまま、その配置もでたらめだった。でも、その中に入ればたちまち、モルガンは空の上に浮き上がったような気分になった。

 港町の小さな家。その、狭い押し入れの中。大人二人だけでいっぱいになってしまうような小さな空間が、モルガンにとっては地球上のどこよりも大きく、美しい永遠の宇宙だったのだ。


「押し入れの中の貴方を見つけると、そのまま私たちは、二人で星を眺めつづけた」


 その光景が、現実と見分けがつかないほど鮮明に、モルガンの眼前に現れてくる。

 母親の膝の上で眺めた、でたらめの星空。

 二人きりの場所。二人きりの記憶。

 モルガンのなかで、京極玲が自分の母親であるという実感は、より確かなものに変わりつつあった。

 ――京極玲は、リサ・ストロングマン。

 そこまで考えて、彼女はふと、疑問に思った。


(彼女の本当の姿が、あたしのママだとして……だったら、は――姿は、どこから来たの?)


 その疑問に気付いた瞬間、モルガンの胸中に暗雲が立ち込めた。

 ――京極玲は、リサ・ストロングマン。

 ――でも、絶対にそれだけではない。

 京極玲という女が、底知れぬ内分を抱えた存在であることは、いまでも変わっていなかった。

 モルガンは不穏な感覚に取り憑かれたように、玲の爽やかな表情を見つめながら、しばらく考えに耽っていると、


「ち、血塗ちまみれの狂犬~~~っ!!」


 出し抜けに素っ頓狂な悲鳴が、店内に響いた。

 モルガンの対応は早かった。店内の誰よりも先に立ち上がり、ウイスキーの瓶をひっ掴んで、それをいつでも振り下ろせる臨戦態勢に入る。

 ……結果的に、その判断は間違いではあったが。

 その声の主は彼女のすぐ隣、目を覚ました葡萄酒野郎ボルドーボーイが、寝惚けたままに叫んだだけなのだった。

 そして今、モルガンは静寂の中にいた。

 生演奏の音楽も中断され、店内中の視線がモルガンに集まっている。

 気まずい空気のなか、モルガンの視線は、偶然にもとある一組のテーブル客とかち合った。

 見覚えのある、二人の男――監理局の標的、神崎大翔ブルーストリーク和泉繚介ベルウェザーに――。


 ぱきっ、とグラスの中で氷の割れる音がした。

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