第3章

Day 06

第37話 救い/Rejection

 紗香の眼光は鋭く、そして何よりも冷たかった。

 を握る力が、ぎゅっと強くなる。

 そして引導を渡すように、おもむろに刀を振り上げた。


「降参、降参だっ!! もう、お前の勝ちでいいだろっ!!」


 雨宮は腕で身体を庇うようにしながら、そう訴える。

 紗香はそのままの態勢で、ぎょろりとした大きな目だけを雨宮に向ける。

 正直めちゃ怖いっす、と雨宮は心の中だけで言った。


「わたしの目的が、勝つことだとでも?」


 言って、紗香は冷笑する。


「違う。わたしは今、あなたに戦場で生き抜く術を教え込んでいるの――情に訴えかけてどうにかなるほど、戦場はそう甘くないのよ」


 そして竹刀が、雨宮の腕に着けられた防具の上に、振り下ろされた。

 ばしぃっ、と軽快な音が鳴り響く。


「雨宮ッ――⁉」


 神崎は叫んだ。

 

「俺に踏まれたときと、どっちが痛かった⁉」


「他に聞くことあるだろっ!!」


 紗香は神崎の方を振り返って、言う。


「さ、次はあなたの番よ」


 竹刀を構えて、戦いの準備。

 どうやら断る余地はないらしい。

 だが神崎はどうしても戦う気にはなれず、


「そういや響子はどうした? あいつ剣道部に入ったんじゃなかったか。あいつの方が得意だろ、こういうの」


 苦し紛れに話題を逸らすことにした。


「今朝、帰って行ったわよ。それより何、話題逸らして逃げるつもり?」


「んなこたぁねーよ」


 平静を装って即座に否定するが、本心から心配していたのもまた事実である。

 昨夜、繚介の提案で廃病院で肝試しをしたわけだが、終わってから再び全員で集合してみると、そこには気を失った響子を抱えた紗香の姿があったのだ。

 紗香曰く、物音か何かにびっくりした響子はそのまま失神してしまったそうだ。

 意識を取り戻した頃にはもう時間も遅かったので、響子はそのまま和泉宅で夜を明かすことになった。

 そして神崎が起きる前に、もう帰ってしまっていたようだ。

 ……思わず失神してしまいそうなものを発見したのは、むしろ神崎と繚介の方なのだが。


「あいつ、オバケとか苦手なのかな。意外と」


「もうその話いいから、訓練よ訓練」


 紗香は改めて、竹刀を構える。

 一方で神崎は何も反応しないでいると、


「はぁ~……」

 

 紗香は気が削がれたように肩を落とし、半目で睨みつけてきた。


「戦えないなら太っとけば」


「どういう意味だよっ」


「せめて分厚い脂肪で身体を覆っておいた方が、肉体面では優位でしょう」


「ビジュアルが終わるからイヤだ」


「じゃあ、やりましょう」


「はいはい」


 仕方なく、神崎も竹刀を構える。


「いくわよ――ッ!!」


 言うが否や、紗香は駆け出した。

 寸分の躊躇いもなく、一直線に突っ込んでくる。

 姿勢は低く、並大抵の動体視力では追い切れない。


「ああ、クソ――ッ!!」


 神崎は出鱈目デタラメに竹刀を振り回す。

 だが紗香の速さは並外れていた。

 彼女の打撃は、神崎のまったく感知していなかった方向――真後ろから叩き込まれた。 


「ぐぁっ――⁉」


 視界が揺れ、前のめりに転びそうになる。


「やっぱり、太ったほうがいいんじゃない。デザート食べ放題の予約しとく?」


「てッめぇっ――!!」


 挑発的な言葉を投げかける紗香の方へ振り返り、神崎は竹刀を振り上げた。

 彼女の驚くような表情が見えた。

 不意打ちなら、もしかすると勝てるのかもしれない。

 紗香の表情が一瞬で変わる。

 この瞬間までに積み上げられてきたすべての体験と直感のなかを走査し、最も有効的な一手を弾き出した。

 一方の神崎は思考を捨て、竹刀を一息に振り下ろしている。

 肌の上を伝っていた汗が、跳んだ。

 汗は一つの小さなしずくとなって、紗香の目の中へ――。 

 ひゅんっ、と空気を切る音が鳴る。

 片目を擦ろうとする彼女の頭上に、竹刀が迫る。


「きゃっ――⁉」


 そして、竹刀から腕へと伝わる振動とともに、世にも軽快な音が、響いた。

 心に一瞬、涼しい風が吹き抜けたような、そんな気分だった。


  *


 薄暗い夕方、雨がしとしとと降り続いている。

 初老の男が袋小路の突き当りのアパートの前で、黒い傘を折り畳む。

 古びたアパートは、近づいただけでも湿った黴の臭いで胸の奥を重くさせた。

 外壁には雨で輪郭のぼやけた落書きや、剥がれかけたポスターが無造作に貼られている。

 金属製の階段を踏むと、一足ずつに不気味な悲鳴とともに軋み、階段が自分の重さに耐えられるかどうか心配になる。

 手すりはさびでざらついており、握ることさえためらわれたが、やむを得ず彼は手を添えていた。加齢によって弱くなった足腰が、濡れた床で滑り転ばないためだ。

 一階から二階へとゆっくりと上がる。

 古びたドアの油性塗料は剥がれ落ち、番号がかすれて見えにくくなっている。

 その代わり、扉の脇にある錆びたポストに手書きの表札が入れられていた。


『白石幸雄・白石永花』


 ドアは重く、開くとともに古い蝶番ちょうつがいが不快な音を立てた。

 甲高い扉の悲鳴に紛れて、かちゃり、と無機質な金属音が鳴った。

 動揺することなく、両手を挙げる。

 背後は振り返らず、目の前の散らかった部屋をじっと見つめたまま、彼は訊いた。


永花はるかは、見つかったか?」


「はるか……? えと、あたしは――」


 予想していなかった質問に、モルガンは戸惑った。

 銃口を彼の頭に向けたまま、表情の冷酷さだけが薄くなっていく。


「見つからなかったのなら、悪いが帰ってくれ。もう話せることは何も無いよ。探偵くん」


「探偵くん?」


 モルガンは繰り返す。

 彼女の腰にぶら下げられた注射筒シリンジの中で、アメーバが「?」型に変形した。 


「誰だ?」


 男――白石幸雄は、誰何する。

 誰かが家の中にいることは知っていたから、驚かなかった。

 てっきり、あの浅倉とかいう探偵が再訪してきたのだと思っていたのだが。


「あたしの名前は、白石比美子――あなたの娘です」


 この客人は、彼にとっても予想外だった。


  *


 この名前を名乗るのは、いったい何年ぶりだろう。

 そんなことを思いながら、モルガンは頭のなかで何度か練習した通りに、自分の素性をきわめて簡潔に明かしてみせた。


「ただいま」と心の込められてない挨拶をする。


「どうしてここが分かった?」


「さあ、のかもね。世界には、信じられないことがあるんだよ」


 モルガンは、空いている方の手で玄関の明かりを点ける。

 記憶よりもずっと老いた父の姿。

 白みがかった髪と髭、長年の重荷に押しつぶさたように、縮んで丸くなった背中。

 目の下にはくまがあり、身体は少し太っていて、なのに顔は瘦せこけていた。

 買い物に行ってきた帰りなのか、ビニール袋を提げている。 


「お酒ばっかりだね」


 モルガンは嫌味っぽく言った。


「私も生きる必要があるのでな。大切な娘を失ったとしても」


「あたしもそうだよ。のは、大変だった」


 苦痛に満ちた人生が思い出されて、拳銃を握る手に力が入る。


「ここで撃てば、辺り一帯が大騒ぎになる。本当に撃つ気はないんだろ」


 幸雄は怖気づくこともなくそう言った。

 モルガンは彼の背を強引に押して、部屋の中を歩かせる。

 窓枠に置かれたぬいぐるみをひっ掴んで、銃口と父の間に挟み込んだ。

 ぬいぐるみの形が歪むぐらい、強く銃口を突きつける。


「これなら、撃っても平気だね」


「そのぬいぐるみは、お前にやるつもりだったんだがな」


 それは、ペンギンのぬいぐるみだった。

 埃を被り、日に焼けた大部分が変色している。


「だけど、結局あたしを捨てることにしたのね」


「それは、違う」


 幸雄はすぐにそう答えた。


「どう違うの? あたしがその後、どんなふうに生きてきたかも知らないくせに」


「知ってるさ」


「へえ、あんたには何もかもお見通しってわけ」


「何もかもじゃないが、必要なことは知っている。〈FataMorganaファタ・モルガーナ〉のこともな」


 幸雄は、監理局の関係者の中でも少数の諜報員アセットだけが知っているはずの名で、彼女のことを呼んでいた。


「それ、どこで知った?」


 モルガンの声がより一層冷ややかなものになる。


「さあな。夢で見たのかも」

 

 そう言うと、幸雄は笑った。

 彼には、銃口を前にしても冗談を飛ばすほどの余裕があるのだ。明らかに異常だが、彼がかつてリサと愛し合った男なのだと思うと、途端にしっくりくる感じがした。


「真面目に答えなさい」


 モルガンは強い意志でそう命じる。


「それは途方もなく壮大な規模の話だ。私でさえ、すべてを知ることはない」


「だとしても、あんたが知っていることは、すべてあたしが知ることになる」


 モルガンは幸雄を座らせた。

 自分は座らず、彼の後頭部に銃口を向け続ける。


「リサはどうなった? 母親には会えたのか?」


 と幸雄は訊いた。


「いるわよ、ここに」


 そう言って、注射筒シリンジをテーブルの上に乱暴に置く。

 容器の中で、アメーバが蠢いた。


「なるほど。確かに世界には、信じられないことがあるみたいだ」


「でしょ。今まともに口を聞けるのは、あんただけだよ」


 そして、何日もここに通ったりすることは、きっとできない。

 今日のこの一日で、謎をすべて訊き出してやらねばならないのだ。


「さて、何から話そうか?」


「あんたには、あたしやリサとは別の家族がいたんでしょ」


「そうだ。私は、美由希みゆきという女と結婚していたし、彼女との間に、息子と娘がいた」幸雄は白状する。「リサと出会ったのは、その後の話だ」


「ママとは、どこで出会ったの?」


「彼女の仕事は、知ってるのか」


「娼婦でしょ。港町の辺りで働いてた。あたしには隠してるつもりだったみたいだけどね」


「そうだ。私が彼女と出会ったのも、そのときだ」


「家族がいるっていうのに」


「家族は大事さ。でも家庭ってのは、安定を求める場所だろ。男の欲求には、安定の中じゃ満たされないような、厄介なものもあるんだよ」


「はいはい、話を続けて」


 普通の父は、娘の前でそんなことを堂々と言うものなのだろうか。

 家族のいないモルガンには、それすらわからない。


「商売なんかじゃなかった、私たちは本気で愛し合っていたんだ。長いブロンドの髪、美しい金目銀目ヘテロクロミアの瞳、海のように深い碧と、太陽のように燃えたぎ琥珀こはく色の視線が、私の心を射止めた――」


 幸雄は、突然熱に浮かされたように饒舌に語り出す。

 彼の目には、若かりし頃のリサの姿が今も焼き付いているのかもしれない。


「――しかし何よりも美しく思えたのは、彼女の内側に広がる世界だ。彼女は他の娼婦とは違い、深い知性を兼ね備えていた。まるで現代に蘇ったクレオパトラのように――」


「――そういうのいいから、次に進めて。どうして、あたしを捨てたの?」


 すべて訊き出すつもりではあったものの、生き別れた両親たちの惚気話には興味がない。

 テーブルの上の注射筒シリンジでは、リサが「♡」型に変形していた。

 なんだそれ、とモルガンは思う。


「まず最初に言っておくと、俺は、お前を捨てたんじゃない。それは選択の結果に過ぎない」


 そう幸雄は語り始めた。


「娘と天秤にかけて、なにを選んだっていうの」


「可能性だよ。私は、それに賭けてみることにした」


 リサとよく似た曖昧な物言いに、モルガンは苛立ち始める。

 その苛立ちが言動に出るより早く、父は言葉を継いだ。


「〈救世同盟〉を知っているか?」


「……知ってる。大昔に、監理局の施設にいたとき話を聞いた。監理局からあたしたちを救ってくれる、正義の同盟でしょ。あれは、ただのおとぎ話だけど」


「私は、それを作ろうとした」


「だから、あたしは邪魔になったのね」とモルガンは言った。「地獄の苦しみのなかで生み出されただけの戯言たわごとを、追い求めるために」


「そう物事をネガティブに捉えるな。純然たる事実だけに目を向けるんだ。確かにお前には、悪いことをした」幸雄はなだめてくる。「だがそれは、長い目で見れば必ずしも悪いことではない」


「正当化なんかしなくていい。それよりも、ただのトラック運転手でしかないあんたこそ、どこで救世同盟の話を聞いたの」


「妻の美由希は数理論理学者で、N.A.L.C.ナルクに所属していた。彼女が偶然にも、監理局の秘密を知ってしまったんだ。だから、私も手を貸した。陰謀を阻止するために」


「はっ、一般人が正義の味方気取りってわけ」


「ただの正義感だけじゃないさ。永花はるか――私と美由希の娘も、監理局の実験台にされていた。家族のためだ」


「あたし以外の家族、ね」


 この男は、別の娘を選んだのだ。

 不倫相手との間に望まれずに生まれた自分ではない、もう一人の娘を。


「それに、気取りというのも違う。計画は割にうまくいったんだからな」

 

「そんなこと、どうでもいい。あたしは、救われなかった」モルガンの語気に、怒りが帯び始める。「あんたとリサに見捨てられたせいで酷い孤児院に入れられたし、監理局でも、人間扱いされなかった」


「待て、比美子。話はまだ終わってない――」


「その呼び方はやめて!!」怒りは収まらない。「あんたが、正義の味方ごっこをしてる間に、あたしは人殺しで、薬中で、文字通り、クズに育っていった!!」


 世界が、音を立てて軋んでいくのを感じた。

 空気が轟音とともに揺れている。

 モルガンの手元から、渇いた破裂音が鳴った。

 ほぼ同時、拳銃を握る手に、振動が伝わる。

 それは感情の昂ぶりが生み出す錯覚などではなく、現実で――。


(え――?)


 モルガンは唖然として手元を見る。

 ペンギンのぬいぐるみが破裂して、床の上で散り散りになっていた。

 そして、椅子に座った幸雄の背中は――


「それが、お前の力か」


 ぬいぐるみの中の綿毛がくっついているだけで、平然としていた。

 また、力が暴走していたのだ。

 リサの肉体を破壊することになったときと、まったく同じように。

 自分の能力が制御できずに立ち尽くしているうちに、幸雄は椅子から立ち上がり、モルガンの方へ振り返っていた。


「私は、当然お前のことも救おうとした――いや、救ったんだよ」


「何を、言ってるの……?」


「お前が監理局から逃げ出した日――〈事故ロスト〉を起こしたのは、私だ」


「どういうこと……?」


 父親が、〈事故ロスト〉の日に、施設にいた――?

 モルガンも、和泉兄妹も、その他多数の超能力者たちも、監理局に施設を逃げ出す契機となり、全てが変わったあの〈事故ロスト〉の日に――?


「だから、私のしたことは、長い目で見れば必ずしも悪いことではない」


 幸雄はそっとモルガンの手を握った。


「お前がこんなにも強くなったのは、ある意味、私が正しい選択をしたからだ。わかるか? お前はあの孤児院で育って、そして力を手に入れたんだろう――素晴らしい力だ。そして、監理局から逃げ出すチャンスを与えたのも、この私だ。結果として、お前は救われたんじゃないか?」


 モルガンは、父の手を振り払う。


「救われた……? あたしを捨てておいて、今さらそんなことを言うの? 捨てられ、実験台にされ、血清で中毒になって……これが救いだって? それに、あたしは逃げ出した後、結局、自分で監理局に戻ったのよ。血清に釣られて恩人を殺して、レインバードの手を握ってね。なのに、今はその監理局に裏切り者扱いされてる。救われたなんて思ったことは、一度もない!!」


 注射筒シリンジと拳銃をウエストポーチにしまって、モルガンは玄関へ向かう。


「会えてよかったね。よくわかったわ――あたしのことも、あんたのことも」


 その言葉を最後に、モルガンは玄関の扉を勢いのままに開けた。

 廊下に飛び出したとき、部屋のすぐ前にいた住民か誰かと肩をぶつけてしまったが、立ち止まって謝ることも、振り返ることもしなかった。

 ただ、しばらく雨に濡れてほとぼりが冷めてから、少しだけ思うことはあった。

 夏だというのにコートを羽織った、いかにも〝探偵〟のような男について。

 そして同じくして男は、雨のなかに飛び込んでいった黒いボディスーツを着た女について。

 お互い、こう思うのだった。


(変な恰好して……なんだったんだろう、アイツ)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る