第38話 隠されたなにか/Restrained
蒸し暑い空気とエキゾチックな街並みが広がる、東南アジアの小国。
六年前、
少なくない貯金を支えとしながら、町の小さな修理屋と日本語教室の仕事を切り回し、今では海辺のアパートで穏やかな日々を過ごしている。
鳥の
海の向こうに沈んでいく太陽を眺めながらビールを飲んだりなどしているときは、言い知れぬ解放感を味わうとともに、いつも思いを馳せるのだった。
今も日本で生物物理学研究者として生きている、もう一人の自分に。
冷たく計算された競争と終わりなき成果主義の重圧から、自分は逃げ出したのだ。
――リサ・ストロングマンと入れ替わることで。
果たして彼女は今も、自分よりも上手く、自分をやっているのだろうか。
激しい生活の変化と地理的な距離によって、日本での記憶が、矢のような速さで霞んでいく。
まだ京極玲が、世界に一人だけだった頃の記憶が。
*
神崎は、深く息を吐き出した。
心の中で、もう寝るべきだ、と自分に言い聞かせるのは、これでもう何度目か。
時計をちらりと見れば、午前一時を回っていた。
しかし、身体は拘束されたように言うことを聞かず、動けない。
もう一話だけ、と誰にともなく言い訳をする。
神崎は、これまで二一年間の人生で、まともに見たことなど一度もなかったのだ――『夏の人気深夜ドラマ一挙放送スペシャル!!』など。
ドラマ鑑賞の趣味があるわけでもなければ、作品に対して特に興味もなかったのだが、一度真剣に見始めてみると、これが意外にも面白い。
いつの間にか、神崎はリビングルームのソファに深く身体を沈め、次々と展開されるドラマの世界に没入していた。
明日の仕事を考えて罪悪感を覚えたりする必要は、今ではもうない。
ないのだが、普段罪悪感を覚えることをあえてやると、背徳感を伴うものだ。
――要するに、なんか気分がいい。
神崎は、強制的に始まったこの生活の楽しみを、また一つ発見しつつあった。
物事の悪い部分だけでなく、良い部分も見え始めてきている。
そんな少年のような心持ちで、夜更かしという刹那的享楽への欲望を貪る。
形式だけの言い訳を繰り返しながら。
もう一話だけ、もう一話だけ、もう一話だけ……。
やがてドラマが最後のシーンを迎えると、爽やかなエンディングテーマと共に流れ出すクレジットに、神崎は思わず肩をすくめる。
まるで夢の世界から引き戻されたかのように、現実が彼を迎えに来た。
(背徳感で後押しされてただけで、ドラマ自体はつまんなかったかも……)
急に冷め切った神崎は、ゆっくりとソファから立ち上がった。
寝室へ向かう廊下を歩く。
テレビの音が消えた途端、家の中は静寂に包まれていた。
自分の足音さえ、柔らかなカーペットの生地に溶け込んで消えていく。
広く長い廊下は深夜では暗く、視線はあまり遠くまでは通らない。
電灯のスイッチを無視して途中まで踏み込んだことに少し後悔するが、押しに戻るのも面倒なので、そのまま寝室へと進んでいく。
廊下に沿って無数に並ぶ大きな扉には、なかなか威圧感があった。
同じ近景が続き、本当に進んでいるのか不安になる。
(肝試しなんて、家でもできるんじゃねーか……)
そんなことを考えながら歩いていると――視界の隅で、何かが動いた。
一瞬すぎてはっきりとは視認できなかったが、人影だった。
それが、まるで
開け放たれた扉が、ゆらゆらと揺れている。
神崎はその扉を覗き込み、真っ暗な室内に視線を巡らせた。
大きな本棚で埋められた、書斎のような空間だった。
部屋の中央にある机が、がたりと揺れた。
神崎は静かに接近し、机の下の人影を思い切って――蹴り上げた。
「――ぎぃぇァッ!?」
情けない悲鳴とともに、机が飛び上がる。
「
その下から後頭部を押さえながら出てきたのは――雨宮だった。
「お前、なにやってんの?」
「探し物だよ」
蹴られたケツを押さえてピョンピョン跳ねながら、答えた。
「何を探してるんだ」
「裏付け」
「とは?」
「前も言ったろ? あの兄妹ほんとに信じられんのかって。それを判断するための裏付けを、探してんの」
「そういえばそんなこと言ってたな」
そこで、神崎は以前にも深夜に雨宮がいない日があったのを思い出した。
まだここに来たばかりの頃、繚介の部屋で変なボードゲームをした、あの夜だ。
「お前、毎日こんなことしてたのかよ。必死すぎだろ」
「うるせー」
言って、雨宮は部屋から出ていく。
「どこ行くんだ?」
「俺はまだしばらく探すよ」
「……」
あの兄妹の素性が知れないのは、神崎にとっても同じだ。
なにか信頼を判断できる裏付けがあるのなら、それに越したことはない。
だから――
「なんか探すアテはあるのか? まだ見てない部屋とか」
「なんだ、お前も来んのかよ」
――だから、神崎は、雨宮に協力することを決めた。
「部屋は全部見たよ。でも絶対あるだろ、隠し扉とか」
と雨宮。
「そこは言い切るんだな」
「あいつらの行動パターンを考えれば、どっかに必ずあるはずだ」
そう話しているうちに二人が辿り着いたのは、またしてもリビング。
「お前、さっきまでここにいたよな。何してたんだ?」
「……あれは、刺激的な映像体験だった」
「ああ……」
雨宮は共感するような、哀れむような視線を向けてくる。
「お前、隠すの下手かよ。別に男同士だからいいけど」
「そんなことはいいから、探せよ」
あらぬ勘違いを生んでしまった気がするが、無視して探索を始めた。
「隠し扉ねえ……」
呟きながら、部屋のなかを歩き回る。
もし隠し扉があるとすれば、それは壁の中に続くだろう。
二人で、壁を入念に確認していく。
大きなリビングは、ぐるりと一周調べるだけでも時間がかかりそうだ。
「見つからないか」
と一周したところで雨宮が言った。
神崎も一通り壁を調べ終え、雨宮の方へ向き直る。
「見つからないな」
「そうか……今日はもう遅いし、この辺にしておくか」
雨宮が諦めたように言う。
その瞬間、奇妙なざわめきが神崎を襲った。
(これ、知ってる……?)
視界いっぱいに広がる、大きな洋風の部屋。
絵に描いたような、大富豪の家のリビングルームだ。
そこから吊られた、近未来的で複雑な形状のシャンデリア。
壁際にある暖炉。
奥には、さっきまで座っていたソファと、テレビが見える。
(この景色、この角度……)
神崎は思い出す。
この家に来て、最初に鮮烈な印象を、衝撃を受けた瞬間を。
彼の背後には、大きな本棚が佇んでいた。
(まさか……)
神崎は突き動かされたように、本棚の書籍を放り出していった。
「おいおい、どうした急にっ」
慌てたように駆け寄る雨宮を無視して、本をすべて床に落としていく。
神崎は、すぐに空っぽになった本棚に耳に押し当てると、今度は雨宮も同様にするよう促した。
雨宮が耳を押し当て、神崎が本棚を軽く叩く。
「……向こうに、空洞がある?」
雨宮が言うと、神崎は静かに頷いた。
二人で力を合わせて、本棚を横から押してみる。
空の本棚は、重々しく動き出し――その後ろに隠されていた空間が、
雨宮の言う通り、隠し扉は、確かにあったのだ。
「え」
ずっと探していたものなのに、いざ実際に目の当たりにした雨宮は、ひどく困惑している様子だった。
その部屋の中が、あまりにも想像とかけ離れていたからかもしれない。
携帯のライトで、真っ暗な部屋の中を部分的に照らし出す。
コンクリートが打ちっぱなしの外壁に囲まれた、無機質な空間。
ちょうどドラマや映画で見る警察の取調室のように、部屋の真ん中には小さな机と、それを挟んで向き合うように、簡素な椅子が二つ。
机の上には、可愛らしい個包装のされたチョコレートがばら撒かれた容器があった。
「……やっぱり」
と神崎は呟く。
「知ってたのか?」
雨宮が尋ねた。
「初めてこの家に来たとき、紗香と話したんだ。この部屋で」
そこは、世界の秘密を、初めて教えられた場所だった。
監理局について、超能力について。
甘くてまずい、チョコレートをつまみながら。
ライトを部屋のさらに奥まで飛ばし、それを認識した途端、神崎は身震いした。
机を挟んで奥にある椅子。
そこに、座っている人間がいた。
闇の中に浮かび上がる、幽霊のように真っ白な肌の女。
それだけでも、その正体を判別するのには十分だった。
「――伊賀⁉」
雨宮が駆け寄る。神崎もそれに続く。
それは、パイプ椅子に太い鎖で拘束された、伊賀響子だった。
首には、神崎が着けられているチョーカーと同じものがあった。
「……」
響子は依然として俯いたまま、沈黙している。
気を失っているのかと思ったが、彼女はゆっくりと顔を上げ、長い髪の隙間から、虚ろな視線を二人に向けてきた。
彼女の色の薄い唇が、微かにパクパクと動いている。
机の上には解かれたチョコの包装があった。
彼女は、チョコを食べていたのだ。
よく見れば片腕だけは拘束を外れていて、それだけの自由は与えられていたようだ。
チョコレートの甘ったるい香りが異様な緊張感と混じり合い、奇妙な不快感を生み出した。
「伊賀、ここで一体、何があったんだ……?」
神崎は訊いた。
「……私は、失敗した……。カグツチの、封印に……」
静寂のなか、響子はか細い声で、そう言った。
雨宮と神崎は言葉の意味を理解できず、ただ彼女を見つめていた。
彼女の虚ろな瞳は、どこか遠くを見つめ、何か重大な記憶のなかに囚われたままでいるかのようだった。
「失敗……?」
神崎が震える声で問いかけた。
響子は、再びゆっくりと首を垂れ、暗闇の中に顔を隠した。
長い髪が彼女の表情を覆い、沈黙が戻る。
雨宮が彼女のそばに膝をつく。
その間、神崎は響子の拘束を解く手段を探すことにした。
「何を失敗したんだ? 俺たちに話してくれ!!」
雨宮が彼女の肩にそっと手をやると、響子は声にならない言葉を呟いた。
「……全ては、カグツチの復讐……私は……阻止しようとした……でも、無駄だった……」
彼女の声は、弱々しくなっていく。
「カグツチの……
「誰だ?」雨宮が問い詰めた。「カグツチって誰なんだ、響子?」
響子は目を閉じた。
その顔には、深い苦悩が刻まれていた。
「逃げられない……誰も……終末からは……」
そして声は、もう聞き取れないほど弱くなり――
「――いやああああっ!!」
――突然、響子が激しい悲鳴を上げた。
その叫びは部屋全体に轟き、壁によって反響し、何重にも響き渡るかのようだった。
彼女の身体は異様な力で震え、拘束された鎖がギシギシと音を立てていた。
目は大きく見開かれ、焦点の合わないまま天井を仰ぎ、口からは断続的な息が漏れた。
響子の叫び声は止まらない。
次第に彼女の肌は血の気を失い、より病的な白さを増していく。
「響子、響子――ッ⁉」
雨宮が響子の肩を掴んで、何度もその名前を呼びかける。
神崎は彼女の首元のチョーカーが、静かに点灯していることに気づいた。
「雨宮、離れろ!!」
神崎の声は、響子の叫びによってほとんど掻き消された。
伊賀の肩を掴んでいる雨宮の手を、神崎が強引に払いのける。
その直後、響子の身体がびくりと痙攣した。
そして全身の力が一気に奪われたように、彼女は力なく椅子の上で項垂れる。
部屋のなかに、再び静寂が戻った。
ただ行方不明の緊迫感だけが、その場に残り続けていた。
呼吸する彼女の胸が、まだゆっくりと上下していることだけが希望だった。
「拘束は解けそうか?」
雨宮の問いかけに、神崎は静かに首を横に振る。
「そうか……」
雨宮はしばらく響子の姿を見つめて立ち尽くし、唇を噛みしめていた。
「……もう、ここにはいられない」
神崎は絞り出すような声で言った。
そして二人は、重い足取りで部屋の出口に向かう。
雨宮の足は、躊躇しながらも進み、何度も振り返りたくなる衝動を抑え込むかのように、ぎこちなく前へ進んでいった。
数歩歩いたところで、ついに雨宮は一度だけ立ち止まり、
「また明日、ここに来るよ」
眠る響子に向けて、そう言った。
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