閉鎖された記録

閉鎖された記録-④/Record-04

 女が、路地裏に放り出された。

 誰かによって、ではない。

 どこから、という問いにも答えはない。

 ただ眩い光と共に、女は突如として路地裏に現れたのだ。

 全裸の姿で、どこからともなく、驚異的な力で弾かれたように一直線に吹っ飛んできて、薄汚れた建物の外壁に衝突した。それが説明できるすべてである。


「ううう……」


 彼女はゆっくりと上体を起こし、周囲を見回した。

 頭を強く打ちつけた影響で、まだ視界がと揺れている。

 薄暗い路地裏には、ゴミが散乱し、冷たい風が吹き抜けている。

 吐瀉物と下水を混ぜ合わせたような、ひどい悪臭がする。

 自分の後頭部に触れると、手のひらには血がべっとりと付いていた。


「ここは、どこだ……?」


 喉から自然に溢れた言葉は、日本語ではなかった。

 ドイツ訛りの英語だ。

 

「私は、何を……?」


 外壁に手をついて立ち上がる。

 記憶が混濁していて、僅かな断片以上のものが見つけられない。

 ただ、果たさねばならない使命があったことだけは覚えていた。


 ――


 極めて端的で意味不明な指示が記憶の中心に残り続け、取り払えない。

 虫食いのように細切れになった記憶を引きずり出そうとすると、物理的な痛み以上の何かが、彼女の脳を蝕もうとした。

 外壁に寄りかかり、頭を押さえて、呻き声を洩らす。

 そうしていると、見知らぬ女の一団が彼女の元に駆け寄ってきた。

 女たちは口々に、意味のわからない日本語でまくし立ててくる。

 

「あなた、こんなところで何してるの?」


「外国人? 観光客?」


「日本語、わかる?」


「ちょっと、血が出てるじゃないっ!!」


「とりあえず、私たちのお店に――」


 言葉の意味はわからないが、こちらを心配している様子だけは読み取れた。

 彼女たちは皆、丈の短いミニスカートを履いていて、体にフィットしたレースブラウスを身にまとっていた。ブラウスからはその内側が透けており、肌の質感がちらりと見え隠れする。足元にはハイヒールを履き、歩くたびにカツンカツンという音が響く。顔には大胆なアイメイクが施され、濃いリップは鮮やかな赤だ。

 答える間もなく連れて行かれた先にあった彼女たちのは、その服装から想像できる通りの風俗店であった。

 従業員用の小さな休憩室で、彼女は怪我の手当てを受けた。

 手当てを受けている間、彼女は部屋の中に視線を巡らせ続けた。

 休憩室は薄暗く、従業員に割り当てられたロッカーが壁沿いに並び、共用のテーブルの上には化粧品や消毒液などが無造作に置かれていた。

 視線を動かすと、壁に貼られた従業員のシフト表を発見する。

 従業員の名前と勤務時間、そして紙の隅には『二○○二年』という記載。


(……?)


 その数字を見た瞬間、彼女の心に強烈な違和感が芽生えた。何かが合わない。

 自分が覚えている最後の年は、一九四五年だったのだ。

 その間には、あまりにも大きな隔たりがある。

 しかし、はっきりとした記憶は相変わらず浮かんでこない。

 もしかしたら、自分は長い間どこか別の世界にでもいたのか、それとも自分が、あるいは世界の時間そのものが狂ってしまったのか――そんな不安が心を覆った。


「大丈夫? 何があったの?」


 気が付くと、一人の女が肩に手を置き、彼女の顔を見つめていた。

 その目には親身に寄り添うような優しさが込められていたが、彼女はその女よりも向こう――化粧台の鏡に映る、自分の姿と見つめ合っていた。

 日本人には見られないブロンドの地毛。色素の薄い瞳と肌。

 断片的な記憶の一部が、少しずつ繋がっていく。

 そうだ。自分はドイツ人だった。

 しかしなぜ、いつの間に、どのようにして、自分は一九四五年のドイツから、二○○二年の日本にやって来たのか。それは思い出せない。

 髪は乱れ、肌には小さな切り傷や打ち傷が残っている姿は、遠い異国から辿り着いた漂流者のようだ。

 別の女性が、鏡に映る彼女の顔を布で拭った。


「無理しないで。あんた、ずいぶん酷い状態だったよ。誰かに追われてたの?」

 

 日本語のわからない彼女が答えられずにいると、女たちは困ったように顔を見合わせ、ひそひそと会話を始めた。


「この子、どうする? オーナーには黙っといた方がいいよね……?」


「そうね……あの人に見つかると絶対ヤバいでしょ……」


「でも、このまま外に放っていくの? それとも警察呼ぶ?」


「警察なんて、それこそあたしたちが困るでしょっ……!!」

 

 女たちが必死に話し合うなか、その背後で静かにドアが開いた。

 現れたのは、肥満体型の大男だった。

 オーダーメイドと思しき、体型にぴったり合ったスーツには皺ひとつなく、シルクの織り込まれた上質な生地に特有の、強い光沢と艶感があった。

 彼が、女たちの言っているこの風俗店の経営者オーナーであることは明らかだ。

 舐めるような視線が、彼女の視線と絡み合う。


「誰だ、この女は?」と男は言った。


 話し合っていた女たちは、その声で初めて大男の存在に気付くと、全員が彼の方を振り向き、身を硬直させて黙り込んだ。

 男はその様子を見ると肩をゆすって笑い、ゆっくりと葉巻を吹かし始めた。

 従業員の女たちの側を通り過ぎ、話題の女の前に立って、見下ろしてくる。

 彼がなにかを言おうとする前に、かすかに開いた口から流れ出した煙が、薄暗い照明の下で渦を巻いて、消えていった。

 

「ジャパニーズ、分かるか?」


いいえナイン


 彼女は英語の部分だけを聞き取って、ドイツ語と身振りで答えた。

 男は、日本語のなかに細ぎれの英単語を交えて、話を続ける。


「お前、見た目は悪くないな。ユー・グッドルッキン。分かるよな?」 


 その一言だけでも、彼女は男の真意を読み取ることができた。

 この男は、自分をこの風俗店で働かせようとしているのだ。


「この歓楽街エリア俺の縄張りマイ・テリトリーだ。俺の下なら手に入る。マネーパワー――」


 男は自らの力に陶酔しきった調子で、彼女を勧誘していた。


「仕事は簡単イージー。最初は、店の清掃クリーンアップ、次は飲み物を運ぶサーブ・ドリンク。その間に、日本語ジャパニーズの勉強。習得マスターしたら、表で男を楽しませるエンターテイン・メン――」


 話の最後に、男は彼女に向かってこう言った。


パワーが欲しければ、まずは闇の世界ダークサイドを味方に付けろ」


 その言葉が、彼女の選択を決定的に引き寄せた。

 

 ――

 

 それは天から降り注ぐ言葉のように、曖昧に、しかし確実に、彼女の行き先を指し示し続けていた。


  *


 仕事の内容は、オーナーの話していた通りのものだった。

 最初は清掃員として、灰皿を掃除し、コンドームの使い捨てられたごみ箱の袋を交換する。やがて日本語が聞き取れるようになると、バニーガールやチャイナドレスの衣裳をまとい、客に酒や軽食を運ぶ接客も任されるようになった。

 言葉が分かると、自然と色々な情報が耳に入ってくる。

 この歓楽街が、近年開発された海沿いの統合型リゾート地域の一部であること。

 オーナーが〈猛牛ビッグ・ブル〉の異名で呼ばれ、この街の闇社会を牛耳る存在として畏怖されていること。

 オーナーが用意した偽造の書類で、日本の滞在資格を取得することにも成功した。

 安価なビジネスホテルと風俗店を行き来する日々が続くなかで、記憶の断片も繋がっていった。


 ――自分がかつて、ドイツ生まれの理論物理学者だったこと。

 ――アメリカに帰化後、〈オーファン計画〉に従事していたこと。

 

 どうして自分が日本に来たのかは依然としてわからないままだったが、その経歴が示す通り、彼女は頭が良かった。

 従業員の女性たちに教わりながら仕事を覚え、必要最低限の日本語もすぐに習得した。接客や身だしなみの整え方、立ち居振る舞い、そして男を喜ばせる微笑みの作り方――どれも戸惑いながらも、数ヶ月のうちに彼女は店にすっかり馴染んでいった。

 

 単独で客を相手にできるようになった頃、彼女にもひとつの出会いがあった。

 男の名前は、白石幸雄。

 風俗店を訪れた客の一人だった。

 彼はくたびれたジャケットに、襟元の少しよれたシャツを合わせていた。ジャケットの色は、度重なる洗濯で褪せたような暗いグレー。


「仕事は何をしているの?」


 彼女はグラスにウイスキーを注ぎながら、流暢な日本語で尋ねた。


「運転手だよ、トラックの」


 テーブルの上に代金を置いたとき、幸雄の財布の中に挟み込まれた一枚の写真が、ちらりと見えた。写真のなかで、幸雄は若く美しい女の肩をそっと抱き寄せていた。さらに、その二人の足元で戯れ合っている、顔つきのよく似た兄妹の子ども。

 白石幸雄の、家族だ。

 家族のいる客は初めてではないが、ここまで愛していそうな男の相手をするのは初めてだ。

 その背徳を意識すると、腹の下の辺りが軽く疼いた。


「へぇ、トラックの運転手さんなんだ。毎日遠くまで運転して、疲れるでしょう? どんな荷物を運んでるの?」


 彼女の問いかけに、幸雄は照れたように肩をすくめた。


「大したもんじゃないさ。主に食料とか、工場向けの部品なんかだよ。あちこち走り回ってるうちに、地図が頭に入っちまうくらいだ」


「じゃあ、私よりもこの街に詳しいかもね。お客さんって、この辺の常連さん?」


「まあ、たまに寄るくらいだ。こんなところに来るのは、日常の息抜きだな」


 彼女は、親しみやすい微笑みを浮かべながら、さらりと会話を続けた。


「息抜きが必要になるくらい、お仕事大変なんだ。家族がいると、仕事も頑張らなきゃいけないものね」


 その言葉に少し驚いたように、幸雄は頷いた。


「まあな。でも、家族のためにやってるんだから、そこまで苦にはならないよ」


「素敵な旦那さまで、奥さまもお子さんも幸せね」


 彼女がちらりと財布に目をやると、幸雄も気付いて、少し照れ臭そうに財布をポケットにしまった。


「いや、照れるな……こんなところで家族の話をするのもなんだが」


「そう? こういう話、好きよ。だって、家庭の話をしていると、あなたのことがよく分かる気がするもの」

 

 彼女はあどけない笑みを浮かべながら、彼の目をじっと覗き込んだ。

 その仕草は、ただの接待ではなく、彼女自身が少し惹かれているようにも見えた。


「じゃあ、ハイゼン。君の瞳に乾杯」


 二つのグラスがぶつかりあい、きん、と高い音が鳴る。

 グラスから口を離すと、幸雄は言った。 


「あんたの目には、高い知性が宿っているな」


「あら、私の目が気に入ったの? 実はね、私の目は、ちょっと変わってるの」


 彼は不思議そうに彼女を見つめていたが、言葉の意味がわからないまま黙っていた。

 彼女はゆっくりと片手で自分の目元に触れた。

 片方の目だけに嵌められたカラーコンタクトを外す。

 何も遮るもののない彼女本来の瞳――左が金色、右が銀色の異なる光彩が、幸雄の前に現れた。

 

「気味が悪いでしょう」


 と彼女は軽く自嘲気味に言った。


「いや、姉さんみたいな別嬪べっぴんが言うことじゃないよ。むしろ、惹きつけられるもんさ」


 その真摯な視線が、彼女の胸に一瞬の暖かさを灯した。


「ハイゼンっていうのは、偽名なんだよな」


 と幸雄は訊いた。


「ええ、そうよ」


 この店の女は皆、本名とは違う源氏名を名乗っている。彼女も例外ではなかった。

 〈ハイゼン〉というのは、彼女が名乗っている源氏名だ。それは、「名前」を意味するドイツ語「heißen」と、ドイツの理論物理学者ヴェルナー・カール・ハイゼンベルクを掛けた洒落であった。


「本当の名前を教えてくれないか?」


 本来ならば、この手の質問は巧みにかわしていただろう。

 だが、今回は何かが違った。

 理由ははっきりしないが、なぜかこの男には信頼を置いてもいいような気がした。

 むしろ今まで隠してきたことのほうが、おかしなことのように思えるほどだった。

 彼の誠実そうな瞳に、どこか安心感を覚えたからかもしれない。

 とにかく、そうすることが正しいことのように思えたのだ。

 だから、金目銀目ヘテロクロミアの彼女は、その両眼で幸雄の顔をじっととらえ、こう答えた。


「リサよ。リサ・ストロングマン」

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