第1章

Day 01

第1話 夢か現か/Reunion

 神崎は、またしても振動によって起こされた。

 耳慣れたアラーム音とともに、携帯がズボンのなかで振動している。

 雨に濡れたシャツが、身体に張りついていた。


てて」


 起き上がると同時に、背中に鈍痛がはしる。

 玄関に入ってすぐ、扉にもたれ掛かったまま眠ってしまったせいだ。

 昨夜は酒でも飲んだのだろうか。

 飲みの席にはほとんど参加しないたちなのだが、はて。

 どうも記憶がはっきりしない。

 視界も、奇妙に歪んでいて気持ちが悪い。

 神崎は洗面所に向かって、眼鏡を外すと冷たい水を顔に三回浴びせた。

 タオルで拭いて、眼鏡をかける。

 身体は疲弊したままだが、頭はわりとすっきりした。

 なのに、視界は歪んだままだった。

 一度眼鏡を外してみる。

 視界がクリアになった。

 再び眼鏡をかける。

 視界が歪み、外すとクリアに。

 まるで度がきつすぎて合わない眼鏡をかけたときのようだった。


(俺の視力、上がってる……?)


 眼鏡を外したまま鏡に映る自分を見て、違和感を覚える。


「あれ?」


 わざわざ疑問符を口に出す阿呆な自分の顔を見ながら、違和感の元を探る。

 視線を下に落としていくと、すぐにそれは見つかった。

 胸のあたり。なんとなく大きくなった気がする。


「おっぱい……?」


「そんなわけがあるか」


 セルフでツッコんだ。

 触ってみると、確かに胸は大きくなっている。

 だが感触は脂肪のようなプニプニではなく、ガチガチといった感じだ。

 筋肉の感触。

 少し後ろに下がって身体全体を映す。

 やっぱり筋肉がついていた。

 そしてそこで、もう一つのことにも気がついた。

 顔や身体の所々に、傷痕のようなものがあったのだ。

 何か怪我をするようなことしたかな、と考えて、ようやく記憶がよみがえり始めた。

 指でなぞった傷口の痛みが、ぼんやりとした記憶を鮮明にする。

 昨夜。炎。銃弾。土砂降りの大雨。そして――衝撃。 


(昨日のあれは、なんだったんだ……?)


 再びポケットの中で振動する携帯が、彼の意識を現実に引き戻す。

 あわててそれを取り出した。

 誰かからの着信ではなく、あらかじめ設定しておいたアラームだった。

 画面には『準備』と出ている。

 そろそろ出勤時間だから準備をしろ、という意味で設定しておいたのだ。

 仕方なく適当に準備を整えて、家を出る。



 最寄り駅の商店街は衰退の一途を辿たどり、シャッター通りと化していた。

 その場所は、ちょうど街の南側と北側とを分ける境界線と一致する。

 神崎も住んでいる南側の地域はごく普通の住宅街となっているが、商店街を通り抜けて北側に行くと、出た先は大きく様相を異にする。

 近年海沿いに誘致された、統合型リゾート地域。

 ホテルやショッピングモール、レストランに映画館だけでなく、国際会議場や展示施設などのビジネス施設までもが一体になった複合観光集客施設を中心に、眠らない街としての賑わいを見せている。

 神崎の仕事場も、そこにある。

 密集して建設された幾つもの宿泊施設の内の一つ、ホテル〈ラブハイヴ〉がそうだ。

 その名の示す通りに、神崎の働き先というのは、ラブホテルである。



 出勤してすぐ、神崎が最初に任された仕事は、二〇二番客室の清掃だった。

 部屋番号を聞いたとき、神崎はほんの少しだけ狼狽うろたえた。


「行くぞ、神崎」


 励ますように神崎の肩を叩くのは、頼れるベテラン社員――相模さがみじんだ。

 彼に対する初対面の印象はというと、良くも悪くもミステリアス。

 ……というか、今も現在進行形で理解不能な存在である。

 たとえば、頼れるベテラン社員が身体中に神札を貼って現れたらどう思うだろう。

 きっと、人生で最も奇妙な記憶として死ぬまで脳に刻みつけられるのではないか。

 それこそが、まさにいま神崎に肩に手を置いている相模の姿なのだ。

 ホンモノの異常者とは言葉なくとも伝わってしまう。これは真理である。

 かなり〝キている人〟の姿をしているが、神崎がこの姿を見るのは数十回目なので、もう慣れたものだ。


「どうした、具合でも悪いのか、神崎?」


「いや、人間の感性って簡単に死ぬんだなと。ちょっと感傷的に」


 頭にどデカい疑問符でも載せたような顔の相模を置いて、神崎は客室に向かった。



 掃除用具を手に部屋に入ると、相模がカーテンと窓を開け部屋を換気する。

 神崎は室内にあるゴミを回収して、テーブルや水回りの拭き掃除。

 バス・トイレ・洗面台の清掃も、二人で分担して行う。

 神崎が風呂場の扉を開けると、シャワーの水が出たままになっていた。


「はあ……」


 栓を回して、水を止める。


(ぜったい、栓が緩いだけだよな……)


 二〇二号室には幽霊が出る、という噂があった。

 広がる噂には当然その種があり、それは今回の場合、従業員たちに共通の経験であった。

 シャワーがひとりでに動き出したり、宿泊客からの不可解なクレームが頻発したり、など。

 その噂を信じ切っている相模はいわゆる〝視える側の人〟のようで、全身に神礼を貼り付けるという完全防備の状態で、この部屋の清掃に挑んでいるというわけだ。

 異常者にも異常者なりの論理がある。これもまた真理といえる。

 一方で、神崎にそのような霊感は微塵もなく、今日も淡々と仕事をこなしていく。

 洗面台に髪の毛が一本落ちていただけでも、クレームになり兼ねない。

 仕事には速さだけでなく、正確性も求められるということだ。

 それでもフロント業務よりはマシだろうな、と神崎は思っている。

 たとえば、自分の手によらない清掃ミスのクレームに対応する受付の仕事よりも、清掃ミスについて職場の人間から責められるだけのほうが、はるかに合理的に思えた。

 遂行すべき職務は少し多いが、すべては無人の室内で完結するものだ。

 効率的な方法を自分なりに見つけ出せば、さほど難しい仕事でもなかった。

 時間に余裕をもって、丁寧に部屋を掃除してまわる。

 清掃を行っているうちにほこりが出てくるので、最後に掃除機をあてる。

 全体的な客室清掃を終えると、そのあとはベッドメイキングと備品の管理。


「あ」


 神崎がベッドの掛布団を持ち上げたとき、何かがひらりと落ちた。 


「お」


 少し遅れて気付いた相模が、それを持ち上げる。

 派手色の女性もの下着だった。

 何をどう間違えれば忘れていくのかわからないが、ではよくある。


「これはもらっておこう」


 すっ、と相模は拾ったそれをポケットにねじ込んだ。


「いやっ、そんなもんしまうなっ」


「すでに今日で二つ目だぞ。しかも、上下セット」


「聞いてねぇっ」


 そんなやりとりを交えつつも、清掃は終わる。

 部屋を出る直前、回収し損ねた陰毛を発見した相模が、身体から外した神札の粘着部分でそれを取り払っていたことも、神崎は特に触れなかった。

 異常者にも異常者なりの論理があるのだ。



 休憩時間になると、神崎はホテルの屋上で時間をつぶすことが多い。

 口にくわえた煙草に、ライターで火をつける。

 肺に入った煙が喉を逆流してきて、痛みに思わず咳き込んだ。

 最初の一本はいつもこうなる。

 煙草は吸うには吸うが、神崎の喫煙習慣は特殊なものだ。

 口の中でなんとなく煙を味わうだけ。肺に入れるのは苦手だった。

 頻度に関しても一ヵ月に一本も吸わない。

 ニコチン依存にはほど遠く、たまに手持無沙汰のときに吸うだけ。

 実際、煙草に火をつけたのは今年に入ってからでは今日が初めてだった。

 半年以上吸っていない計算になる。

 背後で扉の開く音がした。

 振り向くと、相模がいた。神礼だらけの姿で。

 神崎の隣に立って、同じように煙草を吸い始める。

 まるで神崎の存在に気づいていないかのように振る舞うので、神崎はツッコむどころか軽く会釈をするタイミングすら見失ってしまい、ぼーっと相模の横顔を見つめていた。

 どこか愁いを帯びた瞳の端整な横顔が、ゆっくりとこちらに正面を向ける。


「仕事には、もうかなり慣れてきたみたいじゃないか」


「はい?」


 唐突に言われたので、神崎は思わず聞き返した。


「最初はかなり狼狽うろたえていたのに、今では他のスタッフの仕事を手伝うほど余裕を見せるとは。飲み込みが早いんだな。……本当に、働き始めてすぐの頃のお前の混乱ぶりと言ったら――」


 言って、相模は勝手に回想の世界に浸っていった。

『働き始めてすぐの頃』というのは、神崎が高校一年生、すなわち十六歳のとき――五年前の話だ。一体いま相模の頭の中では、どんな失態の回想が行われているのか。神崎は恥ずかしくなって、フェンス越しの街に視線をらす。


「思えば、出会いからして奇妙だったな」


 相模が呟いた瞬間、神崎は些細ささいながらも無視できない違和感を覚えた。

 普段の相模の印象は何というか〝多くを語らない男〟という風なものだ。

 しかし今日は過去のことをなど語り始めたり、やけに口数が多い気がした。

 そういえば屋上で煙草を吸う姿を見るのも初めてだ。

 いつにも増してセンチメンタルになっているような。

 何かあったのだろうか。

 かすかな疑問を抱きつつも、相模の話に耳を傾けた。


「俺が路地裏で殴られてるのを見て、割って入ってきただろう」


「そうでしたね」


「自分より背丈のある男にも立ち向かって、お前ボロボロになってたな」


 うなずく神崎の頭の中で、ひっそりと古い記憶が甦り始めた。

 真夜中の、路地裏での大喧嘩。

 しかしどのような経緯でそうなったのかは、思い出せなかった。

 過去を振り返ることなどあまりしないから、もうかすれてしまったのだろう。


「最後まで立ってたのは、お前一人だけだった。それで……誰も戦えなくなったあと、お前は、一言も口を開かずにその場を去ろうとしてただろ」


「そう、でしたかね」


「俺が礼を言おうとしたとき、お前、なんて言ったか覚えてるか?」


「いいえ」


 相模は空を仰いで煙を吐き、記憶を優しくなぞるように言った。


「『礼はいらない。あくまで個人的な憂さ晴らしだ』」


「……本当に言いましたっけ?」


「……いや、言ってなかったかもしれない」


「なんすかそれ」


 神崎は思わず呆れて額に手を当てた。

 しかし相模は真剣そのものな雰囲気のままで、


「でも、お前はそういうことを言う人間のはずだ」


「そうですかねえ」


「ああ、そうだ。そういうところが、お前は――いや、なんでもない」


 相模は何かを言おうとして、諦めて言葉を飲み込んだ。

 神崎は特に気にすることもなく、通行人を見下ろしながら煙を吸う。


「気にならないのか?」


「はい?」


 本日二度目の聞き返しである。

 この人との会話はどうも展開が予測できないと、改めて実感する。


「俺が何を言いかけてやめたのか、気にならないのかと聞いている」


「別になりませんよ。無理に聞き出したって仕方ないでしょう」


「そうか」


 神崎の答えを咀嚼するように、相模はどこか神妙な面持ちになった。

 最終的にどんな印象を抱いたのかはわからない。

 相模はまた別の話題を切り出した。


「仕送りの方はどうだ?」


「相変わらず毎月入ってます。いったい父親は、どこで何をやっているのやら」


「最後に会ったのは、たしか六年前だったか」


「そうですね」


「そうか。……いつか、会えるといいな」


 そんな会話で、二人の休憩時間は終わった。


  *


 普段通りに仕事をこなし、いつもより少し早い時間に、家路へ。

 今までと何ら変わらない一日。

 ……いや、刺激的なこともあるにはあったが。

 そしてもう一つ、心の中で一日中引きずり続けていた疑問。


(昨日のあれは、何だったんだ……?)


 仕事をしている間も、頭の片隅にずっと残っていた記憶。

 昨夜起きたと思っている出来事は実はただの夢で、傷は夢遊病のように無意識にできたか、気付かなかっただけかもしれないとも思った。

 でも、それでは腑に落ちないという気持ちもあった。

 雨と汗の混じった匂い、全身を蝕む痛みが、今も鮮明に思い返すことができる。

 あれらがすべて夢の中でのものだったとは、考え難い。

 街はまだ昼間かのように賑わい、通行人たちが行き交っている。

 町中の大きなネオンの看板が、夜の闇を過剰なほど明るく照らしていた。

 そしてそれは、同時にこの町の闇の面も照らし出していた。

 煙草の吸い殻で散らかった地面。うろつく酔っ払い。

 随分と時代錯誤な光景だった。

 時代に、現実に、社会に溶け込めない存在が集まり、欲望のけ口とする場所。

 神崎も同じく、集団から孤立した存在であることを自覚している。

 だが、神崎はここが好きではなかった。

 汚れた欲望を隠すことなく垂れ流し、快楽に溺れる人間たちが、どこか醜く、愚かしく思えた。

 眩しい街明かり、雑踏、人いきれ。

 必死に孤独を紛らわせようとする街の姿は、同時に彼の孤独を否定しているかのようで。

 人混みは、かえって神崎を孤独にした。

 自ずと逃げるように、早足になった。

 周りのことはできるだけ見ない。

 歩みはどんどん早くなり、やがてそれは走るのとほとんど変わらなくなった。

 商店街を抜けて、ようやく神崎は一度立ち止まった。

 前を見る。

 異変に気づいた。

 普段この時間帯では、まだ遠くて見えないはずのアパート。

 このときばかりは、はっきりと見ることができた。

 それは、そのアパートが強烈な光を放っていたから。

 アパートの、ちょうど彼の部屋だけが赤く輝き、黒い影を立ち上らせる。

 炎と煙。

 家が、火事になっていた。


「はあッ!?」


 驚きのあまり、叫んだ。

 自宅へと全力で走り出そうとして――脚は、前に出なかった。

 アスファルト舗装の地面が、高速で顔面に接近する。

 衝突が起きる前に、神崎は気を失っていた。

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