第5話 日常/Reserve

 和泉家の浴室を訪れると、そこには立派な大浴場が広がっていた。

 壁と床は一面に大理石が敷かれていて、天井からはシャンデリアが優雅に垂れ下がっている。

 大きな窓からは芝生の庭が見え、その中央に美しい彫像が据えられていた。

 アパートの湯船では脚を伸ばして浸かることすら出来なかったというのに、ここではめいっぱい伸ばしても浴槽の端には足が届かないほどだ。

 神崎は、やわらかい朝陽を受けながら微笑む女神像と視線を交わし、

 

(……逆に落ち着かん)


 自分は贅沢な暮らしには向いてないのかもしれない、と思った。

 手早く入浴を終えると、神崎は手持ち無沙汰になった。

 庭に出て煙草を吸ったりもしてみるが、それだけで一日を費やすことなどできるわけもなく。

 リビングのソファに座り、ぼーっとテレビを見ながら過ごしていると、


(あ、そういえば)


 与えられた自室に、本棚があったのを思い出した。

 もしかすると自分が泊まることを考慮して、暇にならないようあらかじめ用意しておいてくれたものなのかもしれない。

 すぐに自室に戻って、本棚の物色を始めた。

 読書など何年振りだろうか。

 手に取った一冊の表題を見る。


『完全敗北~童貞義弟に調教された女~』


 完全にハズレだった。

 もう一冊引く。


『ぼくの兄嫁は未亡人』


 もう一冊……。


義姉ギシ義姉ギシ♡アンアン!!』


「俺はいったい何者だと思われてるんだ⁉」 


 本棚の中身を全部ひっくり返した。

 床に散らばった、目が痛くなりそうなほどピンクな本は、もれなく官能小説だ。

 しかも徹底的に義姉モノに限定。


「俺はいったい何者だと思われてるんだーーー⁉」


 もう一度、神崎は、天に叫んだ。


  *


 篠塚しのづか結実ゆみは、ごく普通の女子高生だ。

 少なくとも本人は、自分のことをそう捉えている。

 たまに、同級生や先生からは「勘がはたらく」とか「察しがいい」と言われることもある。でも、それもたぶん、の範疇のことだ。

 とは言っても、家庭環境には変わっている部分もあって。

 両親は共に分子生物学研究者で、仕事で海外に行くことも多い。だから、昔から双子の姉と二人きりで過ごす時間が長かった。

 変わっていることといえば、それぐらい。

 やっぱりあたしは普通だ、と彼女は思う。

 彼女の普通の一日は、いつも携帯の目覚ましから始まる。

 が、昨夜が設定を忘れていたらしい。

 だから、目覚ましより先に起きた思い込んで、ゆっくりと眼鏡をかけてから時計を見た彼女は、ひどく焦った。


(まずい――!!)


 ベッドから飛び出し、キッチンに向かう。

 トースターに食パンを放り込んで焼かせている間に、洗面台へ。

 鏡に映る自分の焦った表情に向き合って、少し落ち着きを取り戻す。洗顔と制服への着替えを済ませて、独特な寝癖にブラシを当てる。

 時間はあまりないが、外見のケアは多少遅刻してでも欠かせない。

 それも終えた頃に、ちんっ、とトースターが呑気な音をが鳴らす。パンを受け取ると口にくわえ、かばんを引っつかんで玄関へと急いだ。

 彼女の通っている高校、朱鷺沢ときさわ高校は自宅から歩いて通える距離にある。中学受験をして中高一貫コースに合格してから、同じ学校に六年通うことになるということで、近くに家族で引越しをすることにしたのだ。

 携帯で時間を確認する。走れば間に合いそうだ。

 乱暴に身を投げ出すようにして、曲がり角を抜ける。

 と、その瞬間、目の前に人影が現れた。

 同じく角で曲がろうとしてきた女性と、見事なまでのごっつんこ。

 結実はずれ落ちた眼鏡を直すのも後回しにして、痛む額を押さえながら、


「ご、ごめんさいっ」


 と、ぶつかった相手に謝罪した。

 彼女の目の前にあったのは、差し出された真っ白な手のひらだった。

 女性はぶつかったことなどなかったかのように平然と立っていて。

 まばたき一つせずに、あたしをじっと見つめてくる。


「あ、ありがとうございます……」


 結実は戸惑いがちに礼を言って、彼女の手を取った。

 女性の恰好は風変りだった。

 黒い和服に、つやのある黒髪を紙で結んで、片側だけおさげ髪にした女性。

 右目の下には、小さな泣きぼくろがあった。

 背丈はすらりと高く、まるで日本画からそのまま出てきたような姿。

 服装が似合っていなくて浮いている、というよりも、似合いすぎていて際立っている、という存在感があった。

 思わずしばらく見とれてしまい、彼女の真っ黒な瞳が、こちらをじっと見つめてきていることにも気づかなかった。


「あ……えぇっと、すみません……」


 なにも言葉を発さない彼女に対して、結実はもう一度謝罪したが、女性は結実を咎めているとか、不機嫌というのではなく、ただの感情の読めない目をしていた。

 女性は静かに頷いたような動きをして、何も言わずに去って行く。

 結実も立ち上がって、反対方向の学校に走り出した。

 何事もなかったようにすれ違って、おしまい。


 誰もいなくなった路地。

 黒い和服の少女――神風は薄い電子端末を取り出して、小さな声で言った。


「和泉紗香の通う高校を、特定した――」


  *


 一時間目の授業は芸術系科目だった。

 紗香の通う朱鷺沢ときさわ高校では、芸術系科目は音楽・書道・美術の三科目からの選択形式であり、紗香と結実は二人とも美術を選択していた。

 壁や天井に点々と絵の具の汚れがついた美術室はいま、蜂の巣をつついたように騒がしかった。

 既に授業が始まってから十五分が経過しているが、一向いっこうに教師の姿が見えないのだ。ふつう担当教師が諸事情で授業をできないときは、その時間は代理の教師なりが教室内での自習を監督したりするはずだ。

 が、その代理の教師すら、来る気配がない。

 教員間での情報共有ぐらいしておけよ、と教室内で誰かがこぼした。

 何人かの生徒はすでに別の授業のノートやら宿題やらを机に出し、黙々と自習を始めていた。紗香もその一人だった。

 二時間目の倫理の授業での小テストに備えて、赤シートでプリントを隠しては答えを確認するのを繰り返す。

 紗香は決して成績優秀でもなければ、勉強熱心でもなかった。今こうして勉強をしているのは、単なる暇潰しだ。

 

(集合的無意識および元型の存在を主張した人は……ユングね)


 赤シートをずらす。正解だった。

 プリントの最後の行まで確認し終わった紗香は、美術室内を見渡した。

 ちなみに朱鷺沢高校は男女という特殊なクラス編成になっており、男女とも同じ学校で生活してはいるが、HRホームルームや授業は別々である。なので、教室には女子しかいない。

 彼女の斜め左前の席に座っているのは、篠宮結実。

 席を離れてやって来た生徒、武田たけだ咲姫さきと談笑していた。


「――そうしたらさあ、頭のてっぺんのとこがこうパックリ、って感じで開いて、そこからオムスビをこう――」


 少し鼻にかかったような声で、迫真の語り口の咲姫。

 それにしても一部だけ聞くと奇妙奇天烈な内容の話である。

 一体、なんの話をしているのだろう――そんな疑問が顔に出てしまっていたのか、


和泉いずみは、そんな話聞いたことある?」


 気付けば会話の矛先が自分に向いていた。

〝矛先〟というと攻撃的だが、あまり会話を得意としない紗香にとってそれはある意味で攻撃であり、その表現は正しかった。 


「えと、何の話?」


 なんとか笑顔をつくろって訊き返す紗香。

 訊かれると、咲姫はなぜか得意気な顔になって、


「ふふん、黒魔女伝説よ」


 と言った。


「黒魔女……」


「そ。エス先生のことなんだけどね。男子から聞いた話では、頭の上に大きな口がついてて、そこからオムスビを大量に食べてたんだって」


 かなりインパクトのある話だったが、どこかで聞いたことがある気もした。

 いかにも女子高生が好みそうな、よくある怪談話である。

 しかしエス先生とは誰のことだろう。学校内部での噂話では意味もなく人名が伏字にされることは多いが、なんとなく気になった。


「今日も来てないし、もしかして町に出て人を狩ってるんじゃない?」


 咲姫が言って、結実と紗香は控えめに笑う。 

 紗香は笑いながら、ということは、S《エス》先生は美術教師の白石しらいし永花はるか先生のことか、と内心で納得した。

 一頻ひとしきりの会話が終わったあと、篠宮結実はさり気なく付け足すように、咲姫に言った。


「でも、白石先生ってそんな悪い人じゃないと思うよ?」

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