第24話 白石永花/Recount
とあるアパートの扉の前に、浅倉快斗は立っていた。
目の前の玄関扉の油性塗料はほとんど剥げ、外壁には
扉の脇にある焦げ茶色に錆びたポストには、手書きの表札が入れられていた。
『白石幸雄・白石永花』
その部屋は、失踪した
浅倉は年賀状から彼女の住所を割り出すと、すぐに示された場所を訪れたのだった。
下手に嗅ぎ回って怪しまれるリスクを
季節外れのコートのポケットから年賀状を取り出し、念のため住所を再確認する。
問題の住所は――確かにあっている。
浅倉は神経を尖らせて、人差し指をゆっくりとインターホンに伸ばし。
押した。
改造されているのか、と浅倉は考えた。呼び鈴が鳴らないように。
部屋の主は、訪問者を忌避し、孤絶を徹底している。
浅倉はもう一度、今度はより強い指の力で、インターホンを押した。
間の抜けた呼び鈴。
どうやら、単なる動作不良だったようだ。
数秒の静寂。
金属の軋む音を立てて、内側から扉が開かれた。
現れたのは、縦縞の赤いシャツを着た初老の男だった。
表札に書かれていた〝白石幸雄〟の方――おそらく永花の父親だろうと浅倉は推察する。
浅倉は
「永花の友達の浅倉です。あなたの娘について、二三訊きたいことが」
と言った。
男はチェーンで繋がった扉の隙間から、浅倉の目をじっと見た。
男の目の下には
「……入れ」
と男は渋いしゃがれ声で言った。
扉のチェーンが外されると、浅倉は遠慮なく敷居を跨いだ。
日当たりの悪い北側に面する部屋で、電気は灯されておらず、外から見た通りの薄暗い空間。
浅倉はリビングに通されて、ローテーブルのそばにどすんと腰を下ろした。
「会うのは初めてだと思うが……君は本当に娘の友達なのか?」
まるで浅倉の正体を見抜いたような問いかけにも、浅倉は動揺しない。
幸雄はただ、こう訊ききたいだけなのだ。
本当は娘の恋人なのではないか、と。
「いえ、俺はただの友人です。仕事を通して知り合った」
「ということは、君も教師なのか?」
「はい、体育担当の。ここ最近になって、彼女と急に連絡が取れなくなったので」
浅倉は堂々とした態度を崩さず嘘をつく。
この程度のごまかしは慣れたものだ。
「それで、永花について何か知っていることは?」
浅倉は、さっそく本題を切り出すことにした。
「悔しいことに、私も分からないことばかりだよ。四日前から行方知れずでね」
「そうですか。最後に彼女と会ったのは?」
「四日前の朝だよ。仕事に行ったきり、帰って来なかったんだ」
「彼女から何か聞いていたことは? 誰かと会う予定があるとか」
「ないね」幸雄は首を振った。「いつもまっすぐに帰ってくる」
「じゃあ身代金目当ての誘拐、とか?」
「まさか」幸雄は鼻を鳴らして両腕を広げた。「うちにそんな財産があると思うか?」
確かに、と答えるのも失礼だと気付き、浅倉は無言で頷いた。
浅倉がそんな発想をしたのは、結実から送られてきた写真――冬の公園で、微笑みを浮かべながら父親と並んで立っている――にうつっていた永花に、どこかの名家のご令嬢のような気品を感じたからだった。しかしこの家を見てみれば、現実はそうでないことは歴然だ。
「ところで、そのコートは暑くないのか? 今はもう七月だが」
「大丈夫です。これ、薄手素材なので」
話している間にも、浅倉は部屋の中をくまなく観察している。
悟られぬよう自然な振る舞いを意識しながら、可能な限りの情報を収集する。
しかし、部屋のなかに特に引っ掛かるものは見つからなかった。
花瓶や置物のような適度な装飾と、あとは極めて平凡な日用品が一揃い。
本棚や写真からは私生活を掴みやすいが、それらも見当たらない。
唯一気にかかったのは、奥の部屋に続いているであろう
(……しまった)
そこで浅倉は、自分の犯した失態に気づく。
襖に、気を取られすぎていたのだ。
その証拠に幸雄も、襖のほうにじっと視線を向けている。
うまくごまかす方法に考えを巡らせていると、幸雄が言った。
「そうだ。永花の部屋を見るか? 友人の君なら、彼女について何か気付くことがあるかもしれない」
「そうさせてもらいます」
浅倉は立ち上がり、促されるまま襖の向こうへと踏み入った。
永花の部屋は混沌としていて、ただでさえ狭い空間のほとんどが失われていた。
大量の本で積み上げられた何柱もの塔で、部屋は埋め尽くされている。
本棚はあるがすでに隙間がないほど本が詰められていて、ベッドの上にまで何冊かの本が散らばっていた。
基本的にはフィクションを好んで読んでいたのだろう、哲学的であったり学術的な書籍は少なく、ジャンルは多岐にわたるが大半が小説だ。
「先の読めない展開が、好きだったんだ」
気付けば、幸雄が隣に立っていた。
「現実の世界で起こる大概の出来事は、それが起こる前から理解していた。小説は現実より奇なり、さ」
「昔から、頭のいい娘さんだったんですね」
「そうでもないさ」
非難でも謙遜でもなく、幸雄はそう言った。
浅倉は作業机に設えられた本棚に歩み寄った。
その本棚の最上段に並んでいる本だけは、小説ではなかった。
『西洋美術大全集』。
『上級者向けプログラミング講座:応用編』。
『ハリウッド映画に学ぶ脚本術』。
どの本も、そのまま鈍器として使えそうなほど分厚い。
本の内容や分野にはまったく統一性がないように思え、それはもしかすると、白石永花という女が、いかに多才だったのかを表しているのかもしれなかった。
本棚の一番上には、写真立てが倒した状態で置かれていた。なぜそんな置き方をするのか、答えは明白だ。埃を積もらせないためだ。
つまり、それだけこの写真は白石永花にとってかけがえのないものだということ。
浅倉はその写真立てを、ゆっくりと起こした。
被写体となっているのは、黒いワンピースを着た清廉な空気のある少女――幼少期の白石永花――と、それよりもさらに幼い少年の姿だった。二人は、両親の間にはさまれて立っている。
「彼女の隣に立っているのは……弟さん?」浅倉は尋ねた。「彼はいまどこに?」
「さあな」幸雄の答えは素っ気なかった。
「それはどういう――?」
浅倉は思わず動揺していた。
白石永花だけでなく、その弟も行方不明になっているのか?、と。
「ああ、悪い」幸雄は説明を加える。「何年も前に離婚してから、
そう言って、幸雄は写真に目をやった。
その視線は惜しむようでも、懐かしむようでもなかった。ひとことで言えば、無感情。幸雄は、浅倉がこの家を訪れたときから、失踪した娘について語るときでさえ、ずっとそんな目をしていた。
すべての悲しみはすでに、彼を通り過ぎたあとなのだろうか。
彼はすでに一通り泣きはらし、酒と思い出に溺れ、深い悲しみと耐え難い現実との折り合いを、つけてしまったあとなのだろうか。
――娘が失踪してから、たった三日のうちに?
「永花と、彼女の母親の関係について訊いても?」
幸雄があまりに感情をみせないので、浅倉は更に踏み込んだことを躊躇なく訊くことができた。手掛かりになるかどうかはともかく、永花と母親の関係に何かがあることは、ほぼ間違いないはずだ。
なぜなら、写真には母親の顔だけがなかったからだ。
写真の枠からはみ出ている、というようなことではない。妻より身長の高い幸雄は、頭の上までしっかりと枠に収まっている。
写真のなかの母親の顔の部分だけが、綺麗に丸く切り抜かれているのだ。
「〈ダムナティオ・メモリアエ〉という言葉を知っているか?」と幸雄は唐突に言った。
「だもな……?」聞いたことのない言葉だ。
「記録の破壊、という意味だ。古代ローマの、反逆者に対する刑罰。社会的な体面や名誉――
「はあ……?」
あまりにも急速な話題の展開だった。
なぜ急に古代ローマの話を?
永花の母親と、何か関係があるのだろうか?
いったいこの話題がどこに着地するのか、予想もつかない。
「手に余るほど強大な力に逆らうときには、その代償もあるということだ」
幸雄はそう言うと、続く言葉は閉ざしてしまった。
そのとき、感情のない幸雄の視線が初めて、何かの意志を持ったように見えた。
――
彼の視線はそう言っていた。
それこそが、先の読めない一連の陳述の、明確な帰結だった。
幸雄への詮索はここで終わりにするべきか、浅倉が悩んでいると、出し抜けに幸雄は
「どうした、何があった?」咄嗟に、浅倉は幸雄の身体を支えた。
浅倉は少し驚く。幸雄の身体は想像以上にがっしりとしている。
加齢によって増加した純粋な脂肪ではなく、筋肉の間に脂肪が入り込んでいる、
幸雄の呼吸は荒々しくなっていた。青ざめた顔には、脂汗まで
幸雄は浅倉の介助を無視して、よろめきながらキッチンへ行き、流し台に嘔吐した。
どろりとした吐瀉物が糸を引く。それには、赤黒い血が含まれていた。
つっかえるような息をしながら、幸雄は言った。
「胃潰瘍でな。薬を飲んで横になれば落ち着く。心配はいらん」
「だったら、少し休んだほうがいいんじゃ――?」
「そうさせてもらうよ。私は部屋に戻る。君ひとりで、気の済むまで調べてもらって構わん」
そう言い残して、幸雄は自室へと去っていった。
そうして浅倉はひとり、永花の部屋に残される。
一人きりになると、部屋はいっそう静かになった。
視覚的にはこんなにも散らかっている部屋なのに、物音ひとつしないのが、浅倉の感覚を狂わせる。
ここで終わらせて帰るつもりはなかった。
全身の神経を冴え返らせて、蛇のような目で部屋中を幾重にも走査する。
視線は、クローゼットの上で止まった。
――過去にはこんな事例がある。
ある日突然、行方を眩ませた16歳の少女。
彼女の自室のクローゼットからは、下着や服がすべて消えていた。持ち出したのは他でもない、失踪した少女自身であった。彼女は長期間にわたる家出を想定し、密かに付き合っていた一人暮らしの大学生の自宅に、衣服やメイク道具・生理用品一式を事前に持ち運んでいたのだった。下校途中の同級生と通学路で話している姿が目撃され、発見そのものは容易だった。
とある4歳の少女は、友人の飼い犬とともに失踪した。
数百人のボランティアと警察によって街中の広範囲にわたり捜索された後、少女とともに行方不明になった子犬の飼い主である友人によって、彼女は発見された。それは自宅付近の空き家のクローゼットの中だった。寝室のクローゼットの扉が開けられた途端、子犬は無傷の姿で、嬉しそうに飼い犬に飛びついた。少女は失踪時と同じ服装で、クローゼットの中に座り込んでいた。閉じ込められた恐怖と飢餓のなかで、彼女は座った姿勢のまま、息絶えていたのだ。
――浅倉は、壁面収納のクローゼットに近づいていく。
本当に何かがあるのかは、わからない。何もないのかもしれない。
写真でしか見たことはないが、白石永花という女は、機能不全家族の元で育った16歳の家出少女より、はるかに思慮分別があるように見えていた。ましてや27歳の女が、失踪したと思いきや自宅のクローゼットから出られなくなり餓死していた、なんて滑稽な結末はまっぴらごめんだ。
観音開きになった扉のノブに、手をかけた。
ふと、数秒前の幸雄の視線が、浅倉の
美由希のことにこれ以上は立ち入るな、と忠告するような冷たい視線。
扉を前に逡巡していると、クローゼットの中からがたがたと物音がした。
ドアを握る手に力が入る。
心理的リアクタンス――〈カリギュラ効果〉とも呼ばれる心理現象。
閲覧を禁止された情報が、かえって彼の興味をかき立てる。
制限に抗おうという人間元来の性質が、彼の背を強く押していた。
思い切ってクローゼットの扉を開け放ち、その内側を覗き込む。
薄暗く、狭い空間を占拠していたのは――巨大な一つの機械だった。
浅倉は一瞬にして蛇に睨まれた蛙のような気分になり、その場から動けなくなった。
機械の塔は、ががががと唸るような機械音を立て、独りでに動き出す。
よく観察してみると、塔は独立した一つの機械ではなく、幾つもの機械が複雑に接続されて構成されていた。それも、最先端の精密機器でもない、一般的かつ古い事務用機器のみで。
ブラウン管テレビ、プリンター、タイプライター……どれもありふれた電子機器である。
センサーが一度点滅し、キーボードが小気味いい音を奏でて押下されていく。
誰にも操作されていないはずの機器が、自ら文章を生成し始めていた。
やがてキーボードの動作は停止し、束の間の静寂のあと、塔は最後の唸り声を上げる。
そうして、接続されたプリンターの排紙口から、一枚の用紙が吐き出された。
用紙が、浅倉の足元にひらひらと舞い落ちる。
浅倉は機械の動作が完全に停止したのを確認してから、その用紙を拾い上げた。
A4サイズの白い用紙の真ん中には、小さな文字で、たった一行の簡潔な文章が記されていた。
『〈黒魔女〉を探せ』
カリギュラは、〈
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