第12話 探偵/Reciprocity

 篠塚結実は、IR地域の無秩序な街筋を抜けて、とある雑居ビルの前で立ち止まった。

 一階の正面に出ているのは『熊沢楽器店』。

 楽器店に用はない。

 結実は雑居ビルに巻きつくように作られた、狭い外階段をのぼる。

 二階の小さな美術系予備校の前を通り過ぎ、三階の英会話教室を過ぎて、四階の扉の前で立ち止まる。

 扉には、太いペンで〈浅倉探貞事務所〉と書かれた紙が貼られている。いくら〝探貞事務所〟と明記されていても、こんなにも安っぽくて杜撰ずさんで、しかも人目のつかない場所にあるのだ。どれだけ思い詰めている人でも、ここに何かの相談に来るのは自分以外にはいないだろうと彼女は思った。

 しかも〝探偵〟の字が間違っているではないか、あとで指摘しておかねば、と考えながら、扉を開ける。

 ほこりっぽい匂いが、部屋からあふれ出てきた。


「ああ、篠塚か」


 金髪に染めた青年が事務所の出窓の部分に腰かけ、何かをかじって食べている。

 この青年こそが結実の協力者にして事務所の主、浅倉あさくら快斗かいとである。

 彼が手にしているのは、透明のビニール袋。中にはパンの耳が大量に入っていた。


「それ、駅前のパン屋さんで無料のやつですよね」


「ああ、そうだな」


「本当にお金がないんですね」


「知るか」


「しかももう夕方ですよ、昼食にしては遅すぎます」


「知るか」


 浅倉はまったく同じトーンで、まったく同じ返答を繰り返す。

 ビニール袋を机の上にぽいと投げ置いた。

 机の上には、すでに資料やら書類やらが無造作に散らかされている。


「お前、学校はどうした?」


「ちゃんと行きましたよ。さっきも言いましたけど、今はもう夕方です。てか、あたし制服着てますし」


「制服着ててもサボるやつはいる」


「なんでわざわざ補導されそうな恰好をするのやら。謎ですね」


「家出てからそういう気分じゃなくなることもあるだろ」


 そんなやり取りをしながら結実はソファに座ろうとして――前に浅倉がその上でヨダレを垂らして寝ていたのを思い出し、逡巡しゅんじゅんした。が、立ちっぱなしもおかしいと思ったので、結局ソファに浅く腰かけることにした。


「おい、なんで座ってんだよ」


 浅倉が顔を顰めてにらみつけてくる。


「立ちっぱなしじゃおかしいかな、と」


「そうじゃねーよ。なんでここに居座る必要があんのかって話をしてんだよ」


 それは、確かに彼の言う通りだった。


「ユカに関して、めぼしい新情報はないからな」


 何時いつものように、浅倉がそう告げる。


 ユカ――篠塚結華ゆか

 その苗字の示している通り、彼女は結実の双子の妹である。

 かつて、二人は行方不明になった彼女を探すために、協力関係を結んだのだ。

 浅倉が個人で探偵業を始めてからは、事務所ここに来てはお互いに情報を交換する日々。

 そんなことを繰り返しているうちに、結実はいつの間にか事務所に居座るようになっていた。

 そして新たな情報を得る手段も尽き、もはや捜索は手詰まりとなった今でも、その習慣は続いていた――。


「そのことは、あたしもわかってますから」


 彼の声色が寂しげだったのは、結実に対する同情か、あるいは、彼自身も結華の不在を悲しんでいるからか。

 浅倉は出窓に座って、橙色の夕陽に目を細めていた。


「……学校のほうは、どうなんだ?」


 しばらくして、浅倉が訊いた。


「特に変わりないですよ。……あっ、そういえばあたし美術部なんですけど、今日も顧問の先生いなくって」


「そんなの、別に珍しいことでもないだろ」


「はい、まさにそれが問題なわけです」


「……?」


 浅倉は疑問符が実際に頭上に見えそうな顔で、結実のほうを振り向いた。


「だから、白石先生ってもともと非常勤ですけど、以前から無断欠勤を繰り返してるんです」


「破天荒で面白そうな奴だな。今のトキサワにはそんなのがいるのかよ」


 浅倉は笑い飛ばすように言った。

 興味を惹かれたのは、同類のオーラを感じたからか。


「ええ、それはもうスゴい変人っぷりですよ。変なカタチの指輪してたりして」


「変なって、どんなカタチだよ」


 結実は両手の親指と人差し指で輪をつくって、形を再現しようとする。


「なんか、こう、輪っかがねじれた、みたいな――」


「あれか、プレッツェルか?」


 浅倉の一言に、結実は思わず吹き出した。


「本物のプレッツェルを指にめてるってことか?」


 プレッツェルの追撃に、結実は涙を流して腹を抱える。

 篠塚結実は、致命的なほどに、笑いのハードルが低かった。


「で、そのプレッツェル先生がどうしたんだよ?」


 結実は一通り爆笑したあと、呼吸を整えて話を続ける。


「それで、あまりに変人すぎて、変な噂まで学校中に蔓延はびこってるんですよ。この前の美術の時間に武田さん――隣のクラスの美術部長の子が言ってたんですけど。若い女を憎んでて夜な夜な狩っているとか、その髪を集めて自分の服を織っているとか。何しろその先生、いっつも黒いワンピースを着ているので」


「へえ」


「あと、これはなんかの昔話にもありましたけど、頭の上に二つ目の口があって、それでオムスビを食べているとか」


「それは多分『食わず女房』だな」


「ああっ、それです多分。さすがに流用が酷すぎますよね。そこまでくると逆にえるっていうか」


「そうか? 俺の聞いた元の話ではオムスビではなくプレッツェルだったが」


 プレッツェルの再来。篠塚結実、撃沈。

 浅倉が結実を決定的に拒まない最大の理由は、彼女のその痛快な反応にある。

 適当に話しているだけでも楽しんでくれる、その空気感が彼には心地よかった。

 結実は笑いを止められないまま、話し続ける。


「それでっ、その噂で先生、なんて呼ばれてると思います?」


「さあ、さしずめ〈怪人プレッツェル〉ってところか?」


「それが〈黒魔女〉って呼ばれててっ……!!」


 息を切らしながら、結実は言った。

 一方で浅倉の反応は――思わず敵地に足を踏み込んだような、険しい顔をしていた。


「――今、なんて言った?」


「だからっ、〈黒魔女〉って……っ!!」


「そいつは、誰だ?」


 浅倉は出窓から降りて、結実の目の前に詰め寄った。

 その目は、真剣そのもので。


「えと、急にどうしましたか……?」


 浅倉の鋭い双眸そうぼうが、一回り以上の身長差をもって降り注ぐ。

 途端に、空気が質量をもって感じられた。

 結実は一歩、後退る。


「今、〈黒魔女〉と言ったな」


「はい……?」


「そいつは、誰だ?」


「ですから、美術部の顧問の先生って……」


「名前は?」


白石しらいし先生……下の名前は確か、永花はるか、だったと思います」


「白石永花か……」 


 浅倉は顎に手を当てて、自分の記憶のなかを探り回る。

 そこに、遠慮がちな結実の声。


「あの……よければ状況を教えてもらえませんか……?」


「ああ、悪いな」


 重々しい空気が緩み始める。


「話は三年前にさかのぼるが」


「三年前。浅倉さんがちょうど、探偵業を始めた頃ですよね」


「ああ、その直後の話だ」

 

 浅倉はうなずく。


「あの電話が掛かってきたのは――」


 *


 ――三年前。

 雑居ビル四階に位置する〈浅倉探貞事務所〉には、まだ真新しい空気が漂っていた。

 出し抜けに、電話のベルが鳴る。

 意想外のあまり、それは部屋中に響き渡る轟音のように感じられた。

 初めての着信を告げる、契約したばかりの固定電話。


「……?」


 浅倉はその場にいたものの、すぐには受話器を取らずに、警戒の視線を送っていた。

 なぜならその電話の向こうにいるのは、探偵・浅倉快斗の最初の依頼主なのだ。

 現実の探偵の仕事はほとんどが浮気調査で、あとはそれよりくだらない遺失物捜し。

 浅倉もそのことは承知の上で、探偵業を始めたのだが。

 この依頼が、自分に壮大な何かをもたらしてくれないかと、どこかで期待してしまう。

 目を閉じて、何度目かのイメージトレーニングをしてみる。

 いつも思い浮かべるのは、依頼主のさいなまれた表情だ。

 悩みの種に眠りを妨げられ、不眠症の影響で浮腫むくみきった男の顔。

 男は毎晩、隣で眠る妻に、自分が本当に心から愛されているのかと自問するのだろう。

 苦悩はやがて偏執的な妄想へと姿を変え、男は浅倉に電話をかけてくるのだ。

 ――情欲に飢えたあの女が、不埒極まる男と通じている証拠を掴んでくれ。

 あるいは、かもしれない。

 ――駅まで歩く道中に紛失した、ワイヤレス・イヤホンの片一方を見つけ出してくれ。


 浅倉は受話器を手に取った。

 ことのほか依頼主の声は男ではなかったし、女でもなかった。

 機械音声だ。


「浅倉快斗、仕事を頼みたい」


 詐欺目的の迷惑な自動音声通話ロボコールかと思ったが、そうでもなかった。

 相手は紛れもなく、〈浅倉探偵事務所〉の依頼者なのだ。


「仕事ってのは、奥さんの素行調査か?」


「――を追いかけろ」


「は?」


 唐突に、機械音声で聞き馴染みのない単語を告げられたので、聞き逃してしまう。


「〈黒魔女〉の影を追いかけろ」


「依頼内容の前に、名前を聞いておこうか」


「それについて言うことはできない」


「なるほど、うちはその手の仕事はしないんだ。電話をどうも」


 浅倉は毅然とした態度で答え、電話を切ろうとする。


「この電話がただの悪戯だと思うなら――」


 電話を切る直前に、機械音声は言った。


「預金残高を確認してみるといい」


 それだけ言い残して、通話は切断された。 

 疑念を抱きつつも預金残高を確認すると、二百万円もの額がしっかり振り込まれていた。

 これ以降、同じ機械音声からの電話はなかった――。


 ――〈黒魔女〉の影を追いかけろ。

 それが、〈浅倉探偵事務所〉の開業以来、最初の依頼である。


 *


「――ってことだ」


 浅倉は、携帯で録音していた機械音声との通話の再生を止めた。


「……っていうか」


 結実はジト目になる。


「貯金、二百万もあったんですね」


 結実の下半月状の細目が、机の上のビニール袋に向いていた。


「そのお金、いったい何に使ったんですか」


「勘違いすんな」


 浅倉は強気に否定した。


「使ってねーんだよ、貯金は」


「はい?」


 細められた目が、今度は困惑に見開かれる。


「着手金ゼロがうちのモットーだからな。報酬金オンリーさ」


 結実は呆れた様子で、所々に汚れのある天井を見上げた。


「正義を前にして呆れてんじゃねーよ。それに〈黒魔女〉とやらの件が解決すりゃあ、二百万もぜんぶ報酬金として使い放題だろう」


「それはそうですが……何か解決の糸口があるんですか?」


「今そいつを提示できることを期待されてんのは、お前のほうだろ」


 浅倉はぴっ、と結実を指差した。


「白石先生は変な人ですし、あたしもよく知らないんですけど……何を教えればいいですか?」


「さあな、わからん。とりあえずなんでもいい。住所とか経歴とか」


「両方とも知りません」


「住所ぐらいは調べりゃわかるだろ。忍び込めよ、深夜の職員室にでも」


「それ、本当にあたしがやらなきゃいけない仕事なんですか」


「そうだ。俺たちの関係はギブアンドテイクだからな」


「あたしは毎日の昼食代をあなたにギブしてますが」


「ま、それだけじゃ不十分ってこったな」


 居丈高にそう言う浅倉を不満気に睨む結実。

 が、ふと何かを思い出したように表情を変える。


「そういえば去年の末に白石先生から貰った年賀状、あれで住所がわかるかもしれません」


「おお、そいつはファインプレーだ」


 結実が鼻高々に悦に入っていると、携帯が制服のポケットの中で振動した。

 すぐに取り出して、画面を見る。

 誰かからのメッセージだった。

 結実はそれを読むと浅倉の方を向いて、


「あたし、ちょうどいま用事が入ったんで今日はこれでいいですか? 年賀状は見つけたら後日送りますので」


「おうよ」


 結実が出て行くことを見計らって、浅倉はすでに煙草に火をつけていた。


「昼食代、ここに置いときますね。貯金二百万もあるので別に要らないと思いますが」


「はいはい」


 五千円札を一枚だけ机に置いて、結実は事務所を後にした。


  *


 響子は剣道部の入部に同意したあと、その日の練習の最後まで参加した。

 結実と紗香は先に帰宅しており、響子はひとり教室に戻っていた。

 扉を抜けてすぐ、廊下と教室の境界で、一度ピタリと立ち止まる。

 整然と並べられた机と椅子。白い縞を残していない深緑の黒板。

 すべてが赤橙色の夕陽に照り返っていた。

 響子は自席の足元に置かれた鞄を持ち上げる。

 転校してきたばかりの彼女が使っているのは、学校指定のバッグではなく〈スポルディング〉製の大型ダッフルバックだ。

 内容物の重量を慎重に確かめるようにして肩に掛け、扉の方へ。


「ねえ、あんた」


 背後から声を掛けられた。

 どこかに敵意をひそめたような、とげのある声質。

 振り返ると武田咲姫さきがいた。

 腰にセーターを巻いたポニーテールの少女。

 窓際最後列の座席の上で、携帯を片手に。

 夕陽が逆光になっていて、表情が読めない。

 派手な装飾の携帯カバーと長い爪が、内面の猥褻さだけを感じさせた。


「あたしがいるってこと、本当は気づいてたでしょ」


 攻撃的な詰問口調を、響子は直感できたかどうか。

 座席から立ち上がって詰め寄ってくる。印象よりも身長が高い。

 目角を立てて見下ろしてくる。

 響子は密室の中にいることに気づく。


「……」


 何も答えずに立ち去ろうとした響子の背中に、まだ声が続く。


「ねえ――あたしって、そんな恐い?」


 声は少しだけ弱弱しくなっていた。


「こわくない」


 振り返らずに、はっきりと答える。


「じゃあ、どうしてあたしだけそんなに避けてるわけ?」


貴方あなただけを避けているわけじゃない」


 背後で咲姫が言葉を詰まらせる。


「あんたの前の学校がどうだったのかは知らないけどさ」


 ようやく絞り出したような彼女の声。

 よく聞いてみれば、棘のある声質は敵意によるものではなく地声だった。


「人と人との会話ってね、秘密の交換みたいなモンなの。人間みんなそうやって繋がってんの――少なくとも、世の中の大半の女子はね」


 響子は扉の前で、心臓に杭を打たれたように立ち止まる。


「……秘密の交換……」


 肺から言葉がこぼれ出す。

 動かない足元がもろくよろめいた。

 それは片時かたときの変調で、咲姫は違和を感知しなかった。


「あたしねぇ、ケッコー色んな人の秘密、握ってるんだよね。みんな知ってるのもあれば、あたししか知らないのもあったりしてさ。たくさん秘密知ってるから、それでまあ学校ココの中心人物? みたいな?」


 調子を取り戻した響子は振り返る。

 咲姫の言葉に引っ掛かった違和感はさっぱりと消えている。

 心臓の杭は、捉えどころのないまま抜けきっていた。

 しかし咲姫は、響子が自分の話に興味を惹かれたと思い込んでいるのか、得意気な調子のままでいる。


「で、なんでそんな秘密握ってるかっつーと……やっぱり調べまくるわけ」


 咲姫は独善的に話を続ける。

 彼女の声に敵意はないが、邪悪な別の何かが宿っていた。


「あたし、陰でなんて言われてるか知ってる? 〈探偵〉だって」


 必要もないのに笑いをこらえるのが、かえっていやらしい。


「そんであんたのことも色々調べて回ったんだけど。出身校も家もわからないわ、本人は話しかけられる前に姿を消すわで、秘密どころか基本情報すら不明で困っちゃうわけ」


 何が〝困っちゃう〟のか響子には理解できない。


「だからあたしが一対一で直接聞こうかなって思ってさあ?」


 咲姫の声に宿っているのは、軽蔑だった。

 敵対心は、自分と同等な人間にしか向けられない。

 それは響子に対するものとは決定的に違うのだ。


「……貴方に教えられることは、ない」


「じゃ、剣道部の県大会が近い、ってことは知ってた?」


 唐突に、咲姫はそう訊いてきた。

 彼女の話には、どうも論理的な繋がりが見出せない。

 響子は、知らない、という意を込めて首を横に振った。


「そっか。なら当然、隆太りゅうた――剣道部の部長があたしの彼氏で、今年の県大会に人生がかかってる、ってことも知らないんだよね」


 夕陽が雲に隠されて、彼女の表情があらわになる。

 毒気がもう抑えられなくなった、というような顔で、


「あいつ自身はまるで気にしてないみたいなカオしてるけど、その彼女としては、ぽっと出の転校生に面目を潰されるわけにはいかないんだわ」


 彼女の言葉は、すでに響子の興味の対象ではなくなっている。


「そのバッグの中身、ずっと気にしてるよね?」


 咲姫は、響子の肩に掛けられたバッグを指さした。

〈スポルディング〉製の大型ダッフルバック。


「やけに慎重に扱ってるし。見られちゃマズいものがあるんじゃないの?」


「貴方の知るべきことじゃない」


 まるで〈探偵〉気取りの咲姫を、いとも容易たやすく拒絶する。

 彼女が背を向け扉を開けた途端、ガタンッと背後で物音が響く。

 ままならない響子への怒りを物にぶつけている――のではなかった。

 机と椅子をね飛ばす勢いで飛び掛かる咲姫の手が。

 それは響子にも読めない事態だった。

 武田咲姫は美術部長。運動部所属ですらない女子高生だ。

 彼女の動きそのものは簡単に読める。

 読めなかったのは、どう考えても勝機のない咲姫が攻撃に出たことだ。


(――⁉)


 咲姫の長い爪の先が、バッグに触れてしまいそうになる。

 避けられないと確信する。

 響子はバッグから肩を抜き、全身で咲姫のほうに振り返る。

 ほぼ同時に咲姫の指先がバッグと触れ合い――衝撃が――。

 耳をつんざく爆音がとどろき、が二人に襲い掛かる。

 咲姫はそれを白い光だと思った。

 バッグが爆発し、閃光が視界を漂白したのだと。

 実際にはそれは光ではなかった。

 それは白い紙だった。

 バッグに詰められた無数の紙片の、凄まじい洪水。


「なんなの……いったい……?」


 咲姫が思考を言語に捻り出したときには、すでに静寂が支配していた。

 彼女は響子に上から庇われるような状態で、床の上に転がっていた。

 幾つかの紙片が、夕陽を受けてきらきらと輝きながら宙を舞う。

 その紙の一枚一枚は、人のシルエットのような形状をしていた。

 頑丈なダッフルバッグは弾け飛び、布地の切れ端として床に散っている。

 咲姫の頬には紙片による一筋の切り傷があったが、今はまだ気づかない。


「……はっ……」


 傷一つない響子が、呆れとも安堵ともつかない息を吐く。

 彼女の視線が向く方を見ると、明らかに異質な物体がそこにはあった。

 拳十個分ほどの長さのある片刃かたはの刀剣と、その鞘。

 咲姫は響子を無理やり押し退けて、刀の側に屈み込んだ。

 刃に、彼女の顔が映っていた。

 銃器が孕むような暴力性がなく、殺しのために湾曲した造形さえ美しい。

 持ち上げると、見た目以上の重さを感じた。

 それは今までに斬られた魂の重さかもしれなかった。


「……これ、あんたの?」


 畏れるような目を刃に固定したまま、訊く。

 響子からの返事はない。


「なんで、こんなものを?」


 返事はない。


「ていうかこれ、本物?」


 返事はない。


「銃刀法とか、どうなってんの?」


 返事はない。


「ねえ、あんた――」


 振り向くとすぐそこに響子の目があった。頭がくっつくほど近くに。

 両手が驚異的な力で咲姫の頭を掴んでいて、離れられない。

 飲み込まれてしまいそうな真っ黒の瞳。

 響子の薄い唇が初めて自発的に開くのを、間近で見る。


「〝秘密〟の記憶を全部忘れたら、貴方の価値はどうなると思う?」


 今度こそ、白い閃光が咲姫の視界を漂白した。


 ――403 Forbiddenアクセス拒否.

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