第19話 銭湯/Recline

 夏祭りからの、帰り道。

 六人は駆ける。

 全力で駆ける――大雨の中を。


「あーもーっ! なんで急にこんな大雨になるのよーー‼」


 走りながらわめく紗香。

 そこにいる誰も、傘は持っていなかったのである。


「おわっ!!」


 神崎の背後を走る雨宮が、濡れたマンホールの蓋で足を滑らせて転倒する。


「お前、ドジっ子すぎな」


 言いながらも、神崎は手を貸してやる。

 立ち上がって再び走り出そうとするが、雨宮は立ち止まったまま、車道を挟んで反対側の歩道を見ていた。

 視線の先には、屋根付きのバス停留所。


「おーい、一旦あそこで雨宿りしねえ?」 


 遠くへ走っていこうとする皆に呼びかける雨宮。

 紗香が、少し離れた所で立ち止まる。


 皆で、停留所に座った。

 結実はハンカチを取り出して、自分の髪や身体を拭き始める。

 それが終わると今度は響子の方を向き、


「響子ちゃん髪長くて大変そうだし、わたしが拭いたげるよ」


 と言って、彼女の髪を拭き始めた。

 響子は無抵抗で、されるがままの状態に身を任せている。

 その光景は、まるで仲睦まじい姉妹のようである。外見は響子のほうが大人っぽいのに、いまは結実の妹のように見えるのが少し可笑しかった。

 そんな二人を微笑ましく眺めている紗香はというと、彼女もまた繚介に髪を拭いてもらっていた。 

 そして、神崎はそんな紗香の姿を、ぼーっと見つめていたのだった。

 長くて綺麗な髪から落ちた水滴が、柔らかそうな頬へ、さらに白い首筋を伝って、彼女の胸元に滴り落ちていく。

 その細やかな動き一つ一つを眺めることに、神崎は生まれて初めて経験する、ある種の視覚的な快楽を覚えていた。

 髪を拭き終えると立ち上がって、着物の裾を絞ったりする。

 そのときにふと、彼女と目が合った。


「――どうしたの?」


「い、いや。なんでもない」


 神崎は慌てて目を逸らした。

 紗香は不思議そうな顔をしたあと、繚介のほうに向きなおって、


「まだみそうにないけど。これからどうする?」と訊いた。


「そうだな……」


 顎に手を当てて、しばらくバスの時刻表を眺めたあと、その指をぱちんと鳴らす。


「みんなで銭湯に行くか‼」


 まあ、そういうことになった。


  *


 いちばん近い銭湯までは、十分ほどバスに揺られると到着する。

 またしても発揮された繚介の突発的な提案については、雨宮と神崎が面倒臭そうなぐらいで特に反対意見はなかった。問題の二人についても、繚介が全員分の代金を払うということで、同行を決めた。 


(まあ、銭湯に入れることに関しては賛成だし……)


 そんなことを思いながら、窓の外を眺める神崎。

 大粒の雨が窓を叩く。

 雨足が遠ざかるどころか、天候は更に悪化していた。

 響く雷鳴の音を聞いて、神崎は紗香と出会った日のことを思い出す。

 しかしあのときと違って、今の神崎はとても平穏な気分だった。

 そんなあまりにも自然すぎる空気が、逆にどこか不自然に思えてならない。


(この日常は、いつか終わるんだろうか……)


 ふと、考えてしまう。

 その疑問に呼応するように、今日の雨宮の言葉が浮かび上がった。


〝あの二人のこと、信用できると思うか?〟


 そして、紗香の言葉。


〝苦手なのよ。友達とか。そういう集団は〟


〝〈リビルダーズ〉には、超能力者の保護とか、〈監理局〉への反抗っていう目的があって、そこにたどり着けば終わり〟


 彼女は、そう言っていた。

 いつか目的を達成したとき〈リビルダーズ〉は終わるのだ、と。

 だが、今ここにいる全員と縁を切り、これまでの生活に戻ることは、神崎や紗香ににとって本当にいちばん幸せなことなのだろうか。

 ……今の、この充実した時間を失っても。


「おーい、降りるぞ。神崎」


 気付けば銭湯の前でバスが止まっていた。

 繚介の声を聞いて、神崎は席を立った。


  *


「ふぃー」


 熱い湯に肩まで浸かると、思わず神崎の口から気の抜けた声が漏れた。

 全身を固めていた疲労が溶け出していく。


「ふぃー」


 これは雨宮の声だ。

 タオルを頭にのせて、気持ちよさそうに目を閉じている。 

 そして、がらら、と扉の開かれる音。

 最後に現れたのは繚介だった。

 タオルで前を隠すこともせず、堂々と目の前を歩いていく。

 そんな彼を見て、神崎は雨宮のほうに寄っていってささやいた。


「あいつ結構筋肉あるんだな。いつもスラッとしてる印象だけど」


「まあ鍛えてるみたいだしな。色々あんだろ、妹を守るためにさ。予知能力ってだけでも充分役立つけどな」


「へえ……。ところで、お前の能力って?」


「ないよ、そういうのは。……強いて言うなら、精神はこん中では俺が一番マトモな自信がある」


「…………ははっ」


 その言葉に、神崎は思わず失笑した。


「なんで笑うんすかっ!?」


「いや、そういうの自分で言う奴いるんだ、て」


「あのな……」


 雨宮は呆れたように言いながら腕を組んだ。

 ちょっとだけ、むかつく動作だ。


「俺みたいなのは、実はけっこー重要なんだよ。繚介とか紗香に常識があると思うか? あいつらだけ放っておくと、どんどん先鋭化してあらぬ方向に突き進んでいくぞ?」


「まあ、確かに。それはありそうだな」


 神崎は半ば納得させられ、水滴だらけの天井を見上げたあと、雨宮に向き直った。


「あれ、俺は?」


「お前は、目つきが悪い」


「タレ目に言われたくねー……」


 そんな言い合いをしつつも険悪なムードにならないのは、銭湯のリラクゼーション効果のおかげか。それに、お互いがただ冗談を言っているだけなのだという共通の認識もあった。


「大松明、倒れなくてよかったな」


 ふと、雨宮はそう言った。

 ついさっきの〈焔夜〉でのハプニングの話。

 そういえばあの熱狂のなかでも、雨宮だけは最後まで冷静だったか。彼の自己評価も、あながち間違ってはいないのかもしれない。


「そういや……あんときの紗香、様子がおかしかったな。なんていうか……動物? みたいだった」


「おい、酷い言い様だな。本人が聞いたら泣くぞ」


 雨宮は眉をひそめて指摘する。


「けど、まあ言いたいことはわかる。あいつは、いつもあんな調子だよ」


「あれってやっぱ監理局での経験が――」


「だろうな」


 言葉を詰まらせる神崎が言い切る前に、雨宮は賛同した。


「しかしまあ、無事にすんで良かったよ。お前のおかげだ」


「俺、特になにもしてないけど」


 あの大松明が倒れなかったのは、ほとんどただの奇跡と言ってよかった。傾いだ大松明が戻っていったとき、あんなに大きなものを動かすほどの風が吹いているようにも感じられなかったが、はてさて。

 あれはどういう現象だったのかは、神崎にもわからない。 


「でも、お前が無理にでも勝負を早く終わらせてくれてなかったら、もっと危険なことになってたかもしれない」


 雨宮は神崎があのとき瞬発的に考えたことと、まったく同じことを口にした。


「あのとき、お前もそう考えたんだろ?」


 そしてその思考の一致まで見抜かれていた。

 素直に、すごい。


「お前よくわかったな」


「一応リビルダーズの一員として、こんな厄介なことに巻き込んで申し訳ない……と言いたいところだが、俺もほとんど巻き込まれたようなもんだから」

 

 雨宮は自嘲的に肩をすくめてみせる。

 

「まあ、巻き込まれ同士、ぼちぼちやってこうぜ」


 と神崎は言った。

 昨日会ったばかりの男二人、ここですでに、友情のようなものが生まれつつあった。


「おい、俺も混ぜろよ」


 すると拗ね気味にくねくねと身を寄せてきたのは、繚介である。

 神崎はその場ですっくと立ち上がった。


「露天、行ってくる。雨宮は?」


「俺はいい。まだ雨降ってるし、寒いだろ」


「そっか」


 神崎は一度湯から上がり、少しぬめついた床を歩いて露天風呂に続く扉を開け放った。

 雨はまだ少しだけ降っていて、神崎は天井の張り出ている隅の方で、湯に浸かった。

 ぽつぽつと雨の落ちる音以外には、なにもない穏やかな静寂。

 ふと、もたれかかっている壁の向こうから、引戸の開くような物音がした。


『まだ、ちょっと雨が降ってるね』


 これは、篠塚結実の声だ。


『響子ちゃん、何してるの?』


 どうやら隣の女湯から声がもれているるらしい。

 こんなにはっきり聞こえるのは構造に欠陥があるのでは、と心配していると、壁一枚隔ててさらにもう一つの声。


『ちょっと神崎くん、あんまり聞き耳立てちゃダメだからね』


「俺は喋ってないのになんでわかるんだよっ!!」


 壁の向こうに叫ぶ。


『気配で読み取れるわよ、それぐらい』


「どんな超感覚なんだよそれ……」


『ん? これ、向こうに声聞こえてるの?』


 結実が紗香に訊く。


『あのーっ、聞こえてますかー?』


「聞こえてるけどー」


『質問なんですけどぉー、紗香と神崎さんって、付き合ってるんですかー?』


『「んなわけあるかーいっ!!」』


 壁の向こうで、紗香も同じような反応。


『あれ、違うんですか? てっきりそういうご関係かと……』


「あのな……。俺はそいつと出会ってからまだ二日しか経ってないんだ。……もし付き合うとしても、付き合いの長い雨宮の方を疑えよ」


『雨宮くん……? あ、神崎さんってそういう……すみません』


 なぜか謝罪された。あらぬ誤解が発生している気がする。

 神崎がしっかりと弁明しようと言葉を選んでいると、がらがらと扉が開き、雨宮が現れた。


「なんでいま来るんだよ、お前は」


「いや、なんか騒いでたからさ……」


 どうやら叫び声を聞いて様子を見に来たらしい。


「繚介は?」


「サウナに籠ってる。俺も監禁されそうだったから、逃げてきた」


「そっか」


 言ったあと、神崎は親指で背後の壁を指さして、


「ここ、女湯あっちに声聞こえてるらしい」


「マジか?」


 雨宮にしては、少し大きめのリアクション。


「伊賀もそこにいるのか?」


 数秒の間、沈黙が続く。そして、


『…………いる』


 消え入りそうな声がかすかに聞こえた。

 背後の壁越しなこともあって、神崎はまるで幽霊に囁かれたような感覚に陥って首筋が少しぞわっとしてしまう。


『雨宮くーん』


 壁の向こうから、紗香の声。


「なんだー?」


『あんまり盗み聞きしちゃだめだからねー』


「興味ねぇってのー」


 言いながら、雨宮は神崎の隣に座って浸かる。


『ほら、響子ちゃんも何か話しかけてみなよっ』


 これは、結実の声だ。

 再び数秒の沈黙をおいてから、響子の声。


『……神崎大翔』


「ん、俺か。どうした?」


『和泉紗香のそばに、いてあげて』


「お、おう……。今は無理だけどな」


 隣の雨宮が、壁越しに聞こえないように小声で言う。


「これ、本当に筒抜けじゃん……」


「だな」


「しかも紗香あいつ、この状況を楽しんでやがるな」


「ああ。こっちも何か仕返ししてやるか。突入作戦だ」


 神崎が立ち上がったところで、


『刺して殺されるか、指さして笑われるか、どっちがいい?』


 壁越しにエコーのかかった紗香の声。彼女の聴力は驚異的である。


「お前耳良すぎだし、二つ目の選択肢はどういう意味だッ⁉ っていうか寒っ」


 すぐにまた湯に浸かってしまう。 



『さーって、身体でも洗ってこよーっ。ほら、響子ちゃんもおいで』


 数分して、わざわざそう口に出す結実。

 紗香と同じく、彼女もこの状況を楽しんでいるようだった。


「俺も洗ってくるか。逆上せそうだし……」


 そう言って、去っていく雨宮。

 結実と響子が湯からがったことは音で分かったが、紗香の方はまだいるのかいないのか。

 神崎は壁の向こうの音に、意識を集中させる。

 蟋蟀こおろぎの微かな鳴き声さえ騒がしく聞こえるほどの静寂だった。

 そのなかで、人の動きに同調して揺れる湯の音がした。

 そして、彼女の声。


『こういうのも、悪くないわね』


 耳をすませば聞こえるくらいの、おとなしい声量。


『広いお風呂って、気持ちが良いわ』


「お前ん家の風呂も相当広いけどな。つか、ここより広いんじゃねーの?」


 壁にもたれたまま、空を見上げて話す。


『じゃあ、何が気持ちいいのかしら』


「さあな。皆で一緒に入るのが、楽しいんじゃないか?」


 壁一枚だけ隔てた向こうには、全裸の紗香。

 そのことを理解しても、神崎はどこか冷静なままだった。


「神崎くんは、それが楽しいの?」


「……わっかんねえ」


『だったら、わたしと同じね。わたし、こういうところに来たの初めてだし』


「ちょっと待て。お前今まで銭湯とか温泉行ったことないの?」


『ないわよ。施設にいた頃はずっと戦ってたし』


 ならば、施設を出てからは――きっと同じだったのだ。

 彼女のが再び思い出される。


〝苦手なのよ。友達とか。そういう集団は〟


 そういうことだ。

 彼女が施設を出て、初めて外の世界とまともに接することができるようになったのは、高校一年生――十六歳の頃だ。

 他者との触れ合い方を学ぶには、あまりにも時間が足りない。だから、友達ができない。

 結果、孤立する。

 そんな彼女が作り上げた〈リビルダーズ〉も、やはり友達には成り得ない。


「……結局俺たちって、何なんだろうな」


 ひどく曖昧で哲学的な言葉が、口をついて出た。

 紗香に向けた質問でもなく、ほとんど独り言に近い。

 が、答えはすぐに、意外なところから返ってきた。


「……兄妹だ」


 繚介の言葉だった。


「そりゃあ和泉とあんたはそうだろうけどさ――」


「そうじゃない。お前や雨宮も同じ一つ屋根の下で暮らしてんだ。それは、家族だろう」


「家族、ねえ……。俺たちの中に、まともな保護者がいるとは思えないが」


 そう言った瞬間、紗香の呼吸がわずかに乱れたのを感じた。

 彼女たちが両親に棄てられたのだということを、思い出す。

 いまの言葉は言うべきではなかったか、と撤回しかけるが、繚介は動じる様子もなく、


「家族の形態はそれぞれだ。俺たちには親はいない、兄妹だけだ。でもそれで、家族なんだ」


 と答えた。

 家族――両親に棄てられた二人にとって、その繋がりはどんな意味を持つのだろうか。


『……ねえ、神崎くんの両親は、どんな人だった?』


 紗香の声にも、もう動揺している様子はなかった。

 彼女は両親の顔も覚えていない。だから、恨んでもいない。

 ただ親というものを知らない彼女は、心から純粋に、そう訊いていた。


「あんま、覚えてないけどさ――」


 神崎は目を閉じた。

 糸をたぐるように、記憶を思い起こす。

 両親の姿が、一枚の写真となって瞼の上に浮かんでくる。

 それは鮮明に焼きついていた。

 笑顔の父と母、そして子。

 どこにでもあるような〝家族〟の姿。


「……車で、よく海に連れて行ってもらったな」


 神崎は夜空に浮かぶ星々の輝きを眺めながら、振り返らないうちに遠く去ってしまっていた記憶を手繰り寄せた。


「親父はトラックの運転手で、自分の運転にやたら自信を持っている人で、家族をよくドライブに連れて行きたがってた。それで御袋は……地図を見るのが好きだったから、旅の予定を立てるのがいつもの役目だったよ」


『へえ……』


 紗香の声も、どこか遠くへ思いを馳せているよう。

 両親の記憶を持たない彼女は、いったいどんな景色を思い浮かべているのだろうか。


『神崎くんのお母さんは、なんのお仕事をしてたの?』


「俺も未だによくわかってねーけど……数理論理学者だよ。何かについて突き詰めて考えたり、複雑なパズルを解くのが好きだった。地図を見たり旅の予定を立ててたのも、それと似たようなものだったんだと思う」


『素敵なご両親だったのね』


「ま、最後には離婚したんだけどな」


『……』


 紗香が押し黙ってしまう。


「いや、別にそれがトラウマになってたりするわけじゃねえ。ただ……俺には不可解だった」


 神崎は夢のような記憶の、その顛末を語る。


「離婚した理由は、誰も教えてくれなかった。何か喧嘩や対立をしている様子もなかったし、不倫や浮気問題だって無縁だったのに、急にだぜ? おかしいよな」


 言葉は、ダムが決壊したようにべらべらと、止め処なく流れ出てくる。

 銭湯のリラクゼーション効果とは、こんなにも人間の口を軽くしてしまうのか。

 あるいは、今日まで積み重ねてきた日々――出会ってからたったの四日という短い時間が、そうさせたのだろうか。

 とにかく、神崎は記憶のままに歩んできた道について語った。


「そっからは母親と二人暮らし。で、またここでもおかしくてさ。スッパリ離婚したはずなのに、たびたび自分の部屋で父親の写真とか眺めてやんの。そうやってしばらく眺めたら、いつも決まって写真立てを伏せて置くんだ。大切そうに。埃が積もらないためだ」


 記憶は、もう遠い昔のことのようだ。

 二十一歳の神崎にとって、過去とはそれほど長い期間を示していない。記憶があるのは、せいぜい十数年分くらいのものだ。

 それが、三十年も四十年も前のことかのように思えた。


「まあそんなんで、一年後には私立の高校に入学して――そういや、お前がいま通ってるのと同じ高校なんだっけ? 奇遇だよな」


 私立朱鷺沢ときさわ高校。紗香たちも現在、同じ高校に通っている。


『オナコーってやつよね』


 紗香が冗談めかして言った。

 その言葉を引き金に、神崎は彼女と最初に交わした会話のことを思い出した。


「……そういやお前、俺のこと色々調べ回ってたんだよな?」


『ええ。雨宮くんが一通りの情報を洗ってくれた』


「じゃ、いまの話もぜんぶ知ってたのかよっ」


 紗香が壁の向こうで、くすりと笑った。

 鈴を転がすような笑い声には、いつもと違って馬鹿にされているような感じがなかった。


『でも、あなた自身から話を聞けてよかったわ。なんていうか……そんな世界も、本当にあるんだなって思えた。人伝ひとづてに見るだけのデータとは、違ってね。すごく、不思議な気持ち』


「……そうかよ」


 なんの変哲もない人生を語っただけなのに、真っ直ぐな言葉に思わず少し照れてしまう。


『もっと話の続き、聞かせてよ』


「はいはい。……あとは、まあ普通かな。でも成績は悪かったぜ。暇なときつるむぐらいなら、友だちも――」


 両親の話題だったはずが、気付けば神崎は自分の過去を明かしていた。

 紗香や繚介の生い立ちと比べれば、はるかに変わり映えのしない平凡な人生だ。それでも紗香は、壁の向こうで静かに聞き入っていた。

 彼女の知らない、歩めなかった道の話を。


「それで――――ッ⁉」


 話を続けようとして、神崎は痙攣したように全身を引きつらせる。

 突然の、すさまじい頭痛。

 視界が真っ暗になった。

 脳味噌が内側から破裂してしまうのでは。そんな恐怖が襲う。

 閉じていた目を開けると、眼球に魚眼レンズをつけたように、浴槽が大きく歪んで見える。


「くッ――⁉」


 すぐに目を閉じて額を押さえる。

 溺れるように、うめく。


「どうした⁉ 神崎、大丈夫か⁉」


 異変に気付いた繚介がそばに寄る。身体を支える。

 過負荷に耐え切れなくなったコンピューターがそうするように、神崎の脳は一旦、シャットダウンした――。


  *


「で、湯あたりだって?」


 風呂上がり。紗香が呆れ顔でそう言った。


「みたいだ。心配かけて悪かったよ」


 なぜか床の上に正座させられている神崎の目の前で、優雅にマッサージチェアの上に座っている紗香。その片手にはイチゴ牛乳の瓶を持っている。


「まったく……次からお風呂入るときは、必ず水コップ一杯のむこと‼ そうすれば湯あたりしなくなるからね」


「は、は~い……」


 紗香の左右では、気勢をがれていく神崎を、結実は苦笑しながら、そして響子は無表情に眺めている。

 そこに、缶ビール二つを両手に現れる繚介。


「お前らなんか羨ましいな」


 繚介から缶ビールを受けとる神崎を見て、雨宮が呟く。


「なんだ、飲むのか?」


 雨宮の前に缶ビールを差し出す。


「いや、未成年に飲酒すすめんなよ」


 そう言う雨宮が手に持っているのは、紙パックのコーヒー牛乳。

 結実はラムネを、響子は水をそれぞれ手にしていた。


「んじゃ、何はともあれ、今日一日お疲れサンっ!!」


 繚介の声を合図に、皆で乾杯する。

 それぞれの飲み物たちが共鳴し、爽快な音を響かせる。

 今日という長い一日が、ようやく終わった。

 嬉しいような、寂しいような、そんな感情が、神崎の胸にわだかまった。

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