第18話 追憶/Remember

「おかえり、ヒミコ」


 背後から、誰かがあたしの肩に手を置いた。

 緊張で研ぎ澄まされた身体が、瞬間的に状況を分析する。

 か細い指の感覚から、その手が女のものだと理解できた。

 そしてこの夢探索の同行者は、元より一人しかいないのだ。

 となれば振り向くとそこに立っているのは、京極玲――ではなかった。


「ニーナ?」


 あたしは彼女の名前を呼ぶ。   

 肩や太腿を大胆に露出させた服装で、片耳にだけピアスが開いている。

 赤紫色のメッシュが入った前髪は異様に長く、両眼が完全に隠れるほどだ。


「ただいま、ニーナ」


 あたしは自然な笑顔で言って、ニーナと軽く抱擁ほうようした。

 に帰ってくると、彼女はいつもそうしてくれる。

 それは恋人同士ではなく、母娘おやこや姉妹に近い距離だ。


「これが、今日の戦利品?」


 ニーナはすぐに離れて、あたしの腕を持ち上げて訊いた。

 そこには、古めかしくも高級そうな腕時計が握られていた。

 Lacoラコ――と文字盤にメーカー・ロゴが記されている。


「かなり上物なんじゃない? 売ればお金になりそう」


 あたしの返答を聞く前に、ニーナは腕時計を手に喜びに浸り始めていた。

 その表情を見ていると、なんとなくあたしまで嬉しい気持ちになる。

 この時期、あたしたちは盗品を売り捌くことで糊口ここうしのいでいた。

〈反乱の日〉に監理局の施設を逃げ出して、に隠れて暮らしていたのだった。

 瓦礫の世界。

 崩れた外壁からは鉄骨がき出している。

 生命の息づかない暗澹あんたんとした空間。

 まるで戦場のように無残なこの場所は――打ち捨てられた廃病院だ。


「わたしも、いいものを手に入れたわ」とニーナが言う。


 彼女はボロボロに劣化したバックパック――これも盗品だ――から何かを取り出した。

 あたしはそれを受け取る。


「これって……」


 それは台座の上に光る天球がついた家庭用プラネタリウムだった。


「昔、失くしたって話をしてたでしょ? たまたま見つけたから、持ってきた」


 、ということは、これも盗品なのだろう。


「こんな古いのじゃ、大したお金にならないでしょ」


「これは売るんじゃないの。あなたへのプレゼントよ」とニーナは言った。「十九歳の誕生日おめでとう、ヒミコ」


「ニーナ……」あたしはすっかり打ちのめされて、言葉に詰まってしまう。


 ありがとう、と言おうとする直前に、あたしは違和感を覚えた。

 ニーナはその能力ゆえか、あたしよりも早く、その異変を察知していた。

 どこかで空気が唸っている。

 重苦しく振動する空気の音は、こちらに近づいているようだった。

 経験上、あたしたちはこれが何の音なのかすぐにわかる。

 この振動音は――ヘリのローターが回転する音だ。


「監理局が来た!!」


 ニーナが叫んだ。

 あたしは窓から外を見る。

 病院の前、森の開かれた場所に、ヘリコプターが着陸しようとしていた。

 装甲には、交差したオリーブの枝と盾をあしらった紋章が描かれている。

 その下には四つのアルファベット――〈H.C.S.D.〉。

 ――〈Human人類 Crisis危機 Supervision監理 Department〉。 

 監理局のヘリコプターだった。


「能力を使いなさいっ!!」とニーナが言った。


「でも――」


 突然のことに、あたしは尻込みしてしまう。

 だけど、迷っている暇はない。

 どちらからともなく、あたしたちは走り出した。

 逃走経路は確保している。

 何度も話し合いを重ね、最も安全かつ迅速に逃げられるであろうルートを。

 身体を斜めにして、定められた経路を辿る。

 ニーナは監理局の訓練を受けているし、あたしも彼女に鍛え上げられた。

 通常の人間よりも、走る速度ははるかに速い。


「ヒミコ、皆との――あたしとの約束を思い出してっ!!」走っている途中、ニーナは言った。「監理局が来た時は、仲間を見捨ててでも自分の身は自分でまもるの――!!」


「……わかったっ!! ごめん、ニーナっ」


 そう――あたしには能力があるのだ。人目を忍ぶには、最高の超能力が。

 決意とともにバッグをそこらに放り投げ、服も下着もぜんぶ脱ぎ捨てる。

 そして、意識を集中させると――。

 あたしの身体は透明になり、ニーナを除く誰からもその姿は見えなくなった。

 この能力は、身に着けるものまで透明にはしてくれないのだ。

 そして自分以外の人間を透明にしてあげることも、できない。

 ニーナの言葉通り、監理局が来た時は、あたしもあたしだけのために、惜しみなく能力を発動するようにと、予め話し合っていたのだけれど。

 それでもやっぱり、前を走るニーナに対して、申し訳なく思う。


(ニーナ、ごめんね……)


 あたしは心の中で、何度も謝った。



 南病棟一階に隠された、霊安室の裏口へ。

 本来は霊柩車で、遺体を搬送するために使う出入口だ。

 ニーナはつるの絡みついた扉を開け放ち、病院の外へ飛び出そうと――


「久しぶりだな、あわれな雛鳥スクワブたちよ」


 そこに監理局の諜報員アセットが、いた。

 その男の顔の左半分には、醜い火傷の跡があった。

 長身長髪の男の眼が、あたしたちを冷ややかに見下ろしている。

 その視線は、姿が見えないはずのあたしの目まで、はっきりと見据えていた。


「逃げられると思うなよ」


 あたしの目を睨みつけたまま、そう、話しかけたりもする。


「能力を解除しろ、被験体番号〈165〉」とてつくような冷たい声で言った。


 レインバードの指示に従って、あたしは能力を解除する。

 突然現れた全裸姿のあたしを見て、レインバードは高い鼻にしわを寄せた。


「どうして、ヒミコの姿が――」


「――たった今、お前が教えてくれた」とレインバードは言った。「ずっと意識が右斜め後ろあたりに向いていることぐらい、視線を読めば判る。仲間を見捨ててまで逃げる覚悟は、どうやらお前の方が必要だったみたいだな」


「レインバード……」とニーナが厭悪えんおを込めて言う。


 あたしたちは先回りされていた。

 ヘリの音は、陽動のためだったのだろうか。

 なぜ逃走経路を知られていたのか。どこかに盗聴器を仕掛けていたのか、それともあたしたちの情報を抜き取れるような能力者エグゼクティヴが監理局側にいるのか、その答えはわからない。だが、とにかくバレていたのだ。


「ここがお前たちのねぐらか」


 レインバードは呟いて、廃病院の中に視線を飛ばす。

 あたしたちの間を通り抜けて、霊安室へ足を踏み入れた。


「〈アサイラム〉、だったか?」とレインバードは言った。


 ニーナは身体をぴくりと震わせる。あたしも、動揺した。

 やはり、バレているのだ。

 この場所を初めに〈アサイラム〉と呼んだのは、ニーナだ。

 それは〈避難所〉を意味する英単語であり。

 その語源は〈聖域〉を意味するギリシャ語の〈アスロン〉にある。

 彼女がその名を付けたとき、二人きりだったはずの瞬間さえ、監理局には筒抜けだった。


「少し見せてもらうとしよう」


 レインバードはさらに奥へと進んでいく。

 ゆったりと歩きながら、うまそうに煙草を吸い始めたりなどする。

 なぜすぐに攻撃しないのか?

 あたしたちに反抗の意思を見出さなかったから?

 理解ができず、あたしたち二人は戸惑っていた。 


「監理局に戻りたいと思ったことはないか?」


 レインバードは歩きながら、背中を向けたまま言った。

 あたしたちは答えない。答える必要などなかった。


「六年前の〈事故ロスト〉の日のあと、血清がなくなっていた」


 あたしたちの反応を気にもしないで、レインバードは言った。


「そんなの、騒動のなかで瓦礫の下にでも埋もれたんじゃないの?」とニーナは言う。


「それは、違う。注射筒シリンジそのものは残っていた、無傷でな。消えていたのは、その中にあった〈血清〉だけだ。つまり、誰かが無断で〈血清〉を使用した形跡があった」


 ここでレインバードは振り返り、あたしを一瞥した。


「〈血清〉を使ったのは、お前だな?」


「それで? 何が言いたいの。六年前の不正を理由に、あたしを処分しに来たとか?」


 堪え切れず、あたしは苛立った声で言った。

 その怒りの根元には、間違いなく恐怖があった。

 人は理不尽な恐怖に追い立てられた時、怒りの感情を持つものだ。

 レインバードはまったく動じない様子で、こう言った。


「あの体験は、病みつきになるだろう。が欲しくはないか? あの快感は、他の薬物では味わえないからな。だが残念なことに、血清あれは監理局でしか手に入らない」


「だから、監理局に戻って来いと? 餌で釣ろうってわけ?」とあたしは言う。


「そんなモノに釣られるわけないじゃないっ!! ねえ、モルガン」とニーナ。


 彼女と目を合わせて、あたしは黙って頷いた。

 当たり前だ。

 自分がいちばん欲しいものは、自分がいちばんよく知っている。


「――それが、お前の本心なのか?」


 そう言って、レインバードはさっきまであたしたちがいたロビーで立ち止まった。

 そしておもむろに右手を横に伸ばし、掌を手刀のような形にした。

 しなやかに動かした長い腕の表面を、水滴が伝い。

 瞬時にほとばしった何筋もの水流が、腕に高水圧ブレードを形成した。

 ブレードで、古ぼけた待合用ソファを切り裂いた。

 埃やウレタンが散って宙を舞う。

 ボロボロになったソファを蹴り飛ばす。

 その下にあった床は、隙間のない溝蓋のような形状をしていた。

 レインバードがブレードで破壊すると、地下の空間が現れた。

 地下室、ではない。部屋と呼ぶには薄暗く、狭い空間。


「配管ピットだな」とレインバードは言う。


 手洗や風呂場が多く設置される病院では、必然的に給水・排水量が多くなるし、医療ガスといった特有のものも利用される。それらの配管メンテナンスのために、病院では最下階の床下にコンクリートで囲まれた空間を設け、そこに配管を通しているのだ。

 いま、それが目の前に露出している。

 レインバードはその中に、なんの躊躇もせずに飛び込んでいった。

 あたしもそれに続こうとすると、


「やめとこうよ、ヒミコ」


 ニーナがあたしを引き留めようとした。

 その彼女の表情は、何かに対して酷く怯えているように見える。

 果たして彼女は、暗所や閉所を怖がるような人だっただろうか。

 それとも、レインバードがいるからなのだろうか。

 あたしは不思議に思った。


「行くよ、ニーナ」


 ニーナの制止を振り離して、飛び降りる。

 すると、ニーナも恐々こわごわといった様子であたしについてきた。

 懐中電灯も持たずに、ひやりとした空気のなかを進む。

 先に奥へと進んでいたレインバードは、こちらを向いて立ち止まっていた。

 足元には、来た時には持っていなかった朱色のボストンバック。


「――っ」


 あたしには見覚えがなかったけど、それを見た瞬間、ニーナは顔色を変えた。

 長い前髪で目は隠れているものの顔色は蒼白で、ただならぬ気配が伝わってくる。

 冷え切った空気に反して不自然に、汗までかいていたりもする。


「これって――」


 あたしは近づいて、バッグの中を覗き込んだ。

 小さなパッケージ袋がいくつか。

 粉末状の白いものが入れられている。

 ガンジャ、葉っぱ、チョコ、草、マリファナ、……。

 呼び名は色々とある。どれも意味しているものは同じ。

 ――大麻だ。


「これ、ニーナの?」


 あたしは振り返って、ニーナに訊く。


「ヒミコっ、違うの、これはっ……」


 その動揺が、答えだった。


(……ほんと。レインバードの言う通り)


 あたしは母親同然の彼女に対して、半ば呆れはじめていた。

 隠れて大麻を吸っていたことについても、そうだけど。

 それ以上に。


(……嘘を吐くのが、下手すぎる)


 あたしはニーナに近づいていく。

 彼女はまだ、ごめんなさいっ、とか何とか言い続けている。

 そんなニーナに向かって、あたしはそっと両手を広げ。


「大丈夫。大丈夫だよ、ニーナ」 


 優しく、胸の内側へと抱き寄せた。


「ヒミコっ、ひみっ、こっ…………ッ⁉」


 あたしが左手に力を入れた途端、彼女の嗚咽は呻き声に変わった。

 胸の中で、彼女は横隔膜を激しく収縮させる。必死に助けを求めるように。

 ニーナを押し飛ばす。

 あたしの左手には、氷で形成されたナイフが握られている。

 その先端から赤黒い血が、まるで涙のように垂れ落ちていた。

 刃先から断続的に落ちる血のしずくは時間とともにまばらになり、やがては止まる。

 その頃には、ニーナも動かなくなっていた。

 彼女の髪は乱れ、いままで前髪の下に隠れていた部分が露わになっている。

 そこには、眼球も眼窩もなかった。


「上出来だ。被験体番号〈615〉」


 レインバードが、そう冷淡な評価を口にする。

 彼の能力で形成された氷の刃が、空気中の水分となって消えていった。 

 握りしめるものを失って彷徨うあたしの手を、レインバードが握る。

 その目を見上げて、あたしは言う。 


「血清、くれるんでしょ」


 ――自分がいちばん欲しいものは、自分がいちばんよく知っている。


  *


「――さあ、帰るぞ、モルガン」


 目覚めたとき、モルガンはベッドの上にいた。

 徹夜での研究のために備えられていた、折り畳み式の簡易ベッドだ。


「……あんたが一人で、わざわざベッドまで運んでくれたの……?」


「まあ、そうね」


 目覚めたモルガンを上から覗き込んで、玲は安堵の色をしている。


「それじゃあ……ありがとうって言えばいいのかな」


 モルガンの言葉に、玲は少し驚いた顔をして、言い足した。


諜報員アセットって基本野蛮そうだし、超能力で大切な機械を壊されたくないからね」


「前言撤回、あんた死ね」


 言い放って起き上がる。

 モルガンの後頭部は、枕ではなく玲の膝の上にあった。


「それと今思ったんだけど。擬態能力者シェイプシフターなら当たり前じゃん」


「なんの話?」


 ぽかんとした表情の玲。

 モルガンは答える。


「綺麗な肌の話」

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