第20話 鏡よ、鏡/Report

 誰もが寝静まった深夜。

 紗香は自室のベッドから、ゆっくりと起き上がった。

 窓の外は大雨で、一度は止んだはずの嵐が再び吹き荒れていた。

 強風に揺すられた窓ガラスが、びりびりと音を立てている。

 天候は昼間よりもさらに悪い。

 落雷がひときわ激しく轟くと、ほんの一瞬、稲妻が薄暗い部屋の中の影をすべて掻き消した。


(……行かなきゃ)


 あの〈事故ロスト〉の日の夜も、こんな天気だった。

 眩い光が消えたとき、紗香はすでにベッドから立ち上がっていた。 

 ほとんど無意識に誘われるように、ゆっくりと歩き出す。

 彼女の手は汗ばんでいた。

 いま彼女の前にあるのは、扉が鏡張りになったクローゼットだ。

 鏡に映し出された彼女の顔は、不安で歪みきっていた。

 彼女は自分の目を見つめ、自分の髪を手で触り、自分の顔を押さえ、自分の身体を強くかき抱いた。

 しかし、それでも彼女の不安は消えず、むしろ鏡に映る自分の姿を見るたびに増していくようだった。


「……くっ……」


 呼吸はだんだんと早くなり、汗が額に滴り落ちた。

 この現実から逃げ出したい、彼女はそう願った。

 だが、その欲求は手放すことのできない強迫観念を前に、脆く崩れ去った。

 クローゼットの、鏡張りのドアを、開く。

 そこには、真っ黒な衣装一式が収納されていた。

 黒いライダースーツ、黒いグローブ、黒いベルト。

 そして――黒い、ペストマスク。

 くちばしが長く突き出した鳥の頭部のようなマスクが、空虚にこちらを見つめている。

 彼女はクローゼットからそれらを引きずり出すと、身を震わせながらネグリジェを脱ぎ捨て、それらを身に着けていった。

 黒い革に全身を包み込み、鏡に映る自分の姿を見ると、紗香の心はようやく一時的な安らぎを感じた。

 その厚い布地が彼女の顔を覆い、鼻と口を保護してくれる。

 それはまるで、彼女を不安という疫病から隔離し、安全な場所に連れて行ってくれるようなものだった。

 大きく深呼吸をして、息を整える。

 シュー、というマスクによって抑制された、独特の呼吸音だけが洩れた。


  *

  

 ビッグ・ブルが死んだ。

 初めてその話を聞かされたとき、自分の耳を疑った。

 最後に彼の顔を見たのは五年前で、その別れの場面は決して友好的なものではなかったものの、それでも彼のことは父親のように思っていたし、いつかは再会して自分のことを認めてもらうことが彼の野望の一つだった。

 リトル・ビッグ・ブル――いぬい健之助けんのすけは、その綽名の通りビッグ・ブルにとって息子のような存在である。

 指導者でもあり目標でもあったビッグ・ブルの葬式を終え、仲間たちも解散していったあと、乾は火葬場脇のベンチに、ただ茫然と座り込んでいた。

 そのまま数時間をベンチの上で過ごし、すっかり周囲が真っ暗になっていたことに気づいたのが、もう数十分も前のこと。

 そして不運にも、まだ動き出せずにいるうちに天気が瞬く間に悪化し、傘も持っていないので、屋根付きのベンチの上から身動きできなくなったのが、現在である。

 古ぼけた火葬場の煙突から棚引たなびいていた、うすい煙――かつて父親であった肉塊が燃やされ、灰となった姿――も、いつの間にか空へと吸い尽くされて消えていた。

 ふと、火葬場の煙突の上で何かがちらりと赤く光るのが見えた気がした。

 数秒間、そちらに視線を飛ばし続けてみるが、何も異常は起こらない。

 

(……気のせいか)

 

 そして視線を戻した瞬間、乾の心臓がばくりと跳ねた。

 

「なッ――⁉」


 彼のすぐ背後に、人の気配を感じたのだ。

 だがそこにあったのは、人でも、障害物でもない、真っ黒い影。

 周囲の暗闇のなかでぼんやりと浮かび上がる影の輪郭を視認して、それが何者であるかを理解したときには――彼は、ものすごい力で突き飛ばされていた。

 地面に尻もちをついてすっ転びながら、その影を見上げる。

 一歩だけ前に進み出た影の一部分を、斜めに射し込んだ月光が照らし出す。

 そいつは、鳥のような長いくちばしを持っていた。

 シューシュー、という呼吸の音が、嵐のなかでもやけにはっきりと聞こえてくる。


「お前、まさか〈八咫烏ヤタガラス〉……⁉」


 その噂はビッグ・ブルから聞いたことがあった。

 それは、闇の社会に潜んでいる者たちにとっての恐怖の象徴だった。

 からすを連想させる仮面をつけた、地獄からの炎の使者。

 全身黒ずくめの、正体不明の自警団ヴィジランテ

 

 ビッグ・ブルが何度も口にするその存在を、乾はまるで信じていなかった。

 口から出まかせ。ただの与太話。自分をからかっているのだと思っていた。

 彼と縁を切ることになったのも、ビッグ・ブルが中身のない虚言にばかり踊らされていたからだ。少なくとも、乾にはそう見えていた。

 だが、それがいま、圧倒的な存在感をもって、目の前に立っている。


ビッグ・ブルおやじを殺しやがったのは、お前か――ッ!!」


 乾は見当違いの怒りをあらわに立ち上がり、影に拳銃を突きつけた。

 彼が人を撃ち殺すのは初めてのことではない。ビッグ・ブルに育て上げられたときから、今まで何人も殺してきた。女も子供も、構わず、平等に。

 いま思えば、ビッグ・ブルが自ら人の命に手を掛けようとはせず彼にばかり殺しの役を担わせていたのは、単に教育のためではなかったのかもしれない。

 八咫烏こいつに狙われることを、恐れていたからなのではないか?

 その実在を知ったいまになって芽生えた一抹の疑念を胸に、慣れきった手つきで、影の頭に一発撃ち込もうとした途端――乾の腕は、人体本来の関節の構造ではありえない形に捻じ曲げられていた。 

 再び転倒させられて、悲鳴にもならない空気を肺から吐き出す。


「……ぐぅッ――!!」


 シュー、シュー、シュー、シュー……。

 テンポの変わらない呼吸の音が、かえって非人間性を感じさせる。

 真っ直ぐに見下ろしてくる八咫烏の目が、ぎろりと赤く光り始めた。

 ゆっくりと突き出された片手にも、その光は宿っていて。


「待ってくれ!! 俺は自分の意思で殺してきたわけじゃねぇ!! 親父に――ビッグ・ブルに命令されたんだ!!」


 乾は光を遮るように両手を顔の前に出し、叫んだ。

 シュー……。

 一瞬、八咫烏は動きを止め、掌の光も弱々しくなった。 

 乾は口角を吊り上げ、笑い声を漏らした。

 彼の言葉の半分は真実だが、半分は嘘だった。

 初めは命令に従っていたが、独立して以降は自分の意思で命を奪ったことも、ある。

 シュー、シュー、シュー……。

 八咫烏の呼吸が元に戻る。

 それに合わせて、掌の光の勢いは激しく増していき、やがてダムが決壊するように、強烈な火炎となって、掌から乾の身体へと溢れ出した。

 赤く燃え上がる炎のなかで、乾の全身は、父と同じ姿へと変わっていった――。


  *


「迷子になりました」


 神崎は暗い廊下でひとり、呟いた。

 トイレに行きたくて部屋を出たのはいいものの、どこかで経路を間違えたのか位置関係を完全に見失い、薄暗い豪邸のなかをすでにもう数分ほど彷徨っている。


「そろそろ膀胱の限界が近づいてきています」


 誰かが声に気付いて導いてはくれないものかと悲痛の祈りを込めて、言う。

 しかし返ってくるのは、ひたすらに静寂。


「雨宮ーっ、繚介ーっ、紗香ーっ……」


 助けを求めつつ、あてもなく廊下を進む。

 目の前に続く景色は、等間隔のドア、ドア、ドア……。

 無限ループにでもハマったかと思ってしまう。


「……ん?」


 ふと、神崎は足を止めた。

 耳を澄まし、物音を追って――扉の一つに、耳を当ててみた。


『〈RedPredatorレッドプレデター〉から〈評議会〉へ』


 扉の向こうから聞こえるのは、誰かの話し声。


『本日の活動内容を報告します。排除対象は、乾健之助――』


 女の子の声であることはわかる。

 だが、こんなにも機械的に話す人物を、神崎は知らない。


「……紗香、なのか?」


 部屋の中に向けて、尋ねてみる。

 だが質問への返答はなく、呪文のように何かを話し続けているばかり。


「おい、聞こえるかーっ」


 とんとん、とドアをノック。返答なし。


(……開いてる)


 ドアノブに手を掛けてみると、なんの抵抗もなく回る感触。


「開けるぞー」


 意を決して、神崎はゆっくりと扉を開けた。

 窓からの月明かりに、青白く照らされた室内。

 部屋の隅にある鏡張りのクローゼットの前に、紗香の後ろ姿を見つけた。

 夜中に運動でもしていたのだろうか、黒いライダースーツを着ている。


「――引き続き、危険分子の排除、および平和の維持活動を行います」


 機械的に呟いていたのは、紗香だった。

 綺麗な姿勢で正座して、鏡に向かって、ぶつぶつと。

 鏡越しに反射して見える彼女の表情までもが、まるで虚無。

 どこか魔術めいた、異様な光景だった。

 このまま踏み入っていいものか、神崎は躊躇する。

 最終的に、彼を部屋の中へと強く引き寄せたのは――爆発寸前の尿意だった。

 戸惑いつつも早足で彼女の背後に歩み寄り、軽く肩を叩いた。


「さ、さやかっ」


 色々な事情が入り混じった情けない声に、ようやく紗香は反応した。

 鏡から神崎の方へと、紗香の首がゆっくりと回転していく。

 その動作がやけに遅く感じたのも、激しい尿意のせいだろうか。

 同時に表情も徐々に形を変え、虚無から、活気のあるいつもの和泉紗香へ。

 二人が目を合わせた頃には、彼女はまったく平然としていた。


「……あら、神崎くん。どうしたの?」


 その声遣いは、どこかぎこちなかったが、追い詰められた今の神崎に、そんな機微を読み取る余裕はない。


「あの、急ぎで頼みがあるんだけど」


「なにかしら?」


 切迫した神崎の声に、紗香が緊張気味に訊いてくる。


「おしっこ、つれてって」

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