第34話 修復/Restore
リサが自分の娘の上官との接吻を、娘にひとしきり見せつけたあと、
「あいつの状態は?」
とレインバードはリサに訊いた。
それに対してリサは、待ってましたと言わんばかりの笑顔で、医療用ポッドのもとに駆け寄った。今はちょうどモルガンが
リサがそのコンソールを操作すると、真っ暗だった医療用ポッドの内部が、ゆっくりと緑色に点灯し始めた。
モルガンは慌ててポッドから背を離し、レインバードと一緒にその内部を覗きこむ。
「これは――?」
ポッドの中で、何かが
その動きには、明確な生物の存在が感じられた。
照明が明るくなるにつれ、その形態が鮮明になっていく。
細かい気泡を浮かべる緑色の液体で満たされたポッド。
その奥で生動していたのは、呼吸に伴い収縮を繰り返す胴体だった。
「ゾンビ……?」
モルガンが最初に抱いた印象は、そんなものだった。
肋骨や胸骨がはっきりと浮かび上がるほど、痩せ細った肉体。
その上には、薄い皮膚の張りついたほとんど骸骨のような顔があった。
口に着けられた装具越しに、くぐもった呼吸音が聞こえる。
「意識はあるか、ワイルドファイア」
レインバードはそう言った。
『今は、驚くほどに目が醒めています』
聞き覚えのある合成音声で、ポッドが答えた。
それは、死んだはずの諜報員――〈
監理局の報告データでは、彼は夏祭りでのリビルダーズ一行の監視任務中、
「彼のこと、ただの弱小
とリサは言った。
確かにモルガンは、ずっとそう思っていた。
自分の上位互換とも言える
「彼の能力が、レッドプレデターに比べて大きく劣っていたことは確かに間違いないけれど……その解釈は、もう一つ、彼の大切な性質を欠いているわね」
そしてリサはまるで自分のことのように、誇らしげにこう言った。
「――殺される度に、彼は強くなって蘇る」
不意打ちのように明かされた事実に、モルガンはしばらくの間、沈黙した。
その挙句にようやく絞り出した言葉は、結局、否定的な反応だった。
「監理局のデータベースに、そんな能力はなかったはず。不死の能力なんて――」
そう言った途端、レインバードが
「それは、超能力じゃないからね。彼は、私の発明品の一つ。人工多能性幹細胞で全身が構成された
モルガンはポッドの中をじっと見つめ続けた。
「この緑色の液体は――まさか、血清?」
「そうよ。致命傷の場合、早急な修復が必要だからね。血清の作用で、修復力が飛躍的に増大するの。それ以外にも、失われた記憶情報の
リサの説明を補足するように、レインバードが言う。
「その過程で肉体に吸収された血清が、超能力を次の段階へ覚醒させる」
「ワイルドファイアに、そんな特性が……」
モルガンが唖然として骸骨の眼と睨み合っていると、突然、合成音声が響いた。
ワイルドファイアとは、また別の声が。脳内に、直接。
『ドクター、目的地に到着しました』
人工知能ベータが、そう
「ありがとう、ベータ。行きましょうか」
リサはそう言いながら、京極玲の姿へと変身した。
その姿は、目的地とやらとなにか関係があるのだろうか、とモルガンは考える。
リサ――玲が、医療用ポッドのコンソールを再び操作すると、ポッドの内部が暗くなっていき、ワイルドファイアの姿が消えていった。
「貴方は、あともう少しだけ、休んでてね」
*
しばらくすると円盤の一部が開き、それがそのまま階段状のタラップになった。そこから、三つの人影が降りてくる。
三人組の先頭にいるのは、緑色の肌を持つ
今は、リサ・ストロングマンの姿をしていなかった。
「こんな広場に、何の用だ?」
彼女の後ろで、レインバードがそう訊いた。
「さあ、ピクニックでもするんじゃない? あたしは監理局に追われる身だし、絶好の機会でしょ」
さらに後ろで答えたのが、モルガンだ。
彼女がタラップを降りきると、背後に停まっていた円盤が、一筋の気流も起こさずに浮き上がり、そのまま空の彼方へと飛んで消えていった。モルガンが振り返った時には、そこにはすでに緑に発光する巨大な機体はなかった。
「あの
「ベータは、私が呼び出したとき以外は、大気圏外で待機しているわ」と玲は答える。
「大気圏外で待機……」
相変わらず急激に規模の広がる話に、モルガンは戸惑う。
すると玲はモルガンの方を振り返り、
「別に
と言った。
「そんなことは気にしてないから」
「でも、19歳で国際機関の諜報員ってのも、随分とアンバランスな
「あんたのおかげで、今にそうじゃなくなるとこだけどね」
モルガンは、普段に増して毒を吐くようになっていた。
その裏側には、不満だけでなく、少なからず不安があった。ずっと従い続けてきた監理局を、いまや敵に回しているのだという不安が。勿論、監理局に従っていた理由の大部分は、刃向かったところで勝ち目がないからだった。それにあの機関に与えられる任務は、いつも面倒なことや、危険なことだらけなのだ。
しかし、監理局を離れざるを得なくなった今でも、やはりレインバードやリサに駒のように操られている気がして、まったく自由になったようには感じられないのも事実だった。
「不安になってしまうのは、よく分かるわ」
心を見透かしたように、玲が言った。
「寄り添おうとしなくていいから。それより、あたしたちはどこに向かってるの?」
「それはね――」
玲が、三人の行き先を宣言する。
それは、予想だにしないアイデアだった。
「ふっ、くだらん」
と、それを聞いたレインバードは言った。
「貴方には、別にやることがあるのよね?」
レインバードの一蹴をものともせず、玲はそう応じてみせた。
そして、彼女は背負っていたバックパックから何かを取り出す。
黒いカーボンファイバー製の、アタッシェケースだ。
ケースの表面には迷路のように細かい
モルガンはほとんど反射的に視線を向けていた。
それは、いまモルガンが欲してやまないものだったからだ。
血清が収められている
モルガンは思い出す。
あのケースを手に入れるために、繁華街の闇の支配者たるビッグ・ブルを殺した時のことを。
なぜ気づかなかったのか、モルガンは自分に嫌気がさした。
彼女が話した通り、血清がリサ・ストロングマンの血液からつくられているのだとすれば、繁華街にあのケースを流通させていたのも、リサ・ストロングマンに違いないではないか。
初めて血清を手にした時からずっと、自分はリサの手のひらの上にいたのかもしれないと思うと、モルガンの不安はよりいっそう深まった。
「明後日だ」
レインバードはケースを受け取った後、モルガンに向けて言った。
「明後日、
「了解です」
モルガンは、地面に高圧水流を放ち飛び去っていくレインバードの背中に向けて、右手を胸に構え、軽く頭を垂れながら言った。
それは、レインバードの指揮する部隊における〝敬礼〟のポーズだ。
*
これといった特色のない、二階建ての一軒家。
玄関の表札には〈京極〉の文字が刻まれていた。
「ここが、あんたの家……?」
モルガンは何の変哲もない建物を屋根まで見上げ、猛烈な違和感を抱く。
何かがずれているような、しかし何とも言えない変な感じがした。
家の外観は、周囲の住宅地ともよく調和しているように見える。
ただ――何かがおかしいのだ。
「あら、玲ちゃん? おかえりなさい」
意識外から飛んできた声の方を見ると、買い物袋を
偶然通りかかった、買い物帰りの隣家のおばさんといった印象。
「ええ、ただいま帰りました」
玲は平然と言い、女性は通り過ぎていく。
そのままモルガンはぼーっと立っていると、玲が、
「さ、入って頂戴」と言って玄関の鍵を開けた。
ナルクの研究室に比べると、随分とセキュリティの脆弱な扉をくぐる。
玄関に靴は出ていない。
廊下は真っ直ぐにリビングに通じていて、左側には二階に続く階段があった。
靴を脱いで、玲が階段を上る。モルガンもそれに続く。
二階には部屋が二つだけあった。階段から遠い方の部屋に入った。
「ここで適当にくつろいでて。飲み物とか持ってくる」
そう言って、玲は部屋を出ていった。
扉が閉まると、モルガンは知らない密室に取り残された。
不安で心が落ち着かず、座る気分にはならなかった。
立ったまま、部屋の中をぐるりと見回してみる。
部屋の隅には洗濯物なのか衣服が乱雑に積まれ、中には下着も含まれていた。
それ以外には、本棚、学習机、時計、ベッド、テレビ……。
どれも一つずつしかない、一人用の部屋。
あとは、一世代ほど古い据置き型ゲーム機、韓国男性アイドルのポスター、歴史もの少女漫画……。
またしても違和感があった。
それも、さっきより何倍も濃度の高い違和感が。
モルガンはベッドの隅に浅く座り、その違和感の正体について整理した。
据置き型ゲーム機。
韓国男性アイドルのポスター。
歴史もの少女漫画。
単純な印象の問題だ。
あの京極玲にこれらに対する興味が本当にあるのかどうか、という。
モルガンはすぐに立ち上がり、ポスターへと手を伸ばす。
黒い髪と真っ白な肌の
「お待たせーっ」
唐突に扉が開け放たれた。
モルガンは緊張のあまり動けなかった。
玲はポスターに触れたままのモルガンの指先を見て、薄く笑い、
「ま、本を表紙で判断するなってことよね」
とだけ言った。
モルガンは玲に促されたまま床に座り、麦茶の入ったコップを受け取った。
「これ、ヘンな薬とか盛ってないでしょうね」
玲の顔をじっと睨みながら、モルガンは疑り深く聞いた。
「娘にそんなことをするわけないでしょう。神に誓って、そんなことはないわ」
と玲は毅然とした態度で言い切った。
モルガンはコップに視線を落とし、麦茶の表面で不安そうに揺らぐ自分の顔と見つめ合った。
監理局に追われる身になってから、普段に増して神経質になっている自覚はあった。
不安そうなモルガンをよそに、玲はお茶を豪快に飲みきり、言った。
「これを飲み終わったら、私たちのすべきことをしましょう」
「すべきこと?」モルガンは訊き返す。「まさか、また実験のこと?」
「いいえ。それとはまた別のタスクよ。言うなれば、終末への備え」
モルガンが、玲の相変わらず曖昧な物言いに反応するより先に、階下から男の声がした。
中学生くらいの、若い少年の声だ。
「ただいまー」
声は確かにそう言っていた。
すぐに階段を上る音がして、足音は部屋の前まで近づいてくる。
モルガンは扉の
玲の方を見ると、なだめるように手をひらひらと振っている。
「安心して」と玲は言った。「彼は、私の家族よ」
――家族?
モルガンは首を傾げ、唇だけを動かして言葉を反復する。
その三文字を聞いてさえ、すぐには玲の意図を
家族と聞いて彼女が最初に想起したのは、孤児院の男性職員から向けられる性的な視線や、廃病院での隠遁生活の末に対立したかつての仲間たちだった。
玲の柔和な表情を見つめて、モルガンはようやくそれが〝敵意のない
「姉ちゃん、ただいま」
扉の外で、少年がどこか事務的な声音で言う。
何も応答を返さずにいると、その気配は遠ざかり階段を下りていった。
「今のって……あんたの弟? 挨拶しなくてよかったの?」
「大丈夫。向こうも慣れてるから」
「へえ……」
納得したように言いながらも、モルガンの内心はうんざりしていた。
その感情は彼女自身の愚劣さに矛先を向けている。
初めて家の前に立ったときの違和感の理由を、今更になって理解したのだ。
一人暮らしの人間が、二階建ての一軒家に住んでいるものだろうか。
家に入ってからも同じような
二階の奥に与えられた個室。
小学校入学の際に買ったのであろう学習机。
モルガンにはない〈実家〉こそが玲の住居だったのだ。
自分の鈍さに苛立ちながらも、モルガンは麦茶を一口
途端に、身体に力が入らなくなった。
(は――? なに、これ――……)
ベッドに凭れ掛かる。
視界に映る玲の顔が、不気味に歪み始めた。
そして襲い来るのは――強烈な、眠気。
「ごめんね。私は、神を信じていないの」
玲のくぐもった声を最後に、モルガンの意識は消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます