第22話 海の日・イヴイヴ/Rehearsal

 少女たちが、浜辺の上をサクサクと足音をたてて動き回っている。

 そして、跳ねる。

 ネットの上を行き来するのは、カラフルな縞模様のビーチボール。

 それが目の前に飛んで来る。

 神崎は打ち返そうと両腕を構えて、膝を落とした。

 熱い砂が足の裏に吸いついた。

 すぐ近くで潮が鳴る。

 風が、粘つく感触を頬に残して通っていく。

 空高くからの陽光に目を細め、神崎は。

 太陽に向かって、跳ぶ――寸前に、何かが陽光を遮った。

 神崎の顔の上に、陰を落とす何か。

 ボールの代わりに視界を覆っていたのは、白くて形のいい……尻。


(……またかよ)


 バチンッ、というゴムが破裂したような軽快な音が響く。


「っしゃあっ!!」


 続いて高揚感に満ちた、紗香の歓声。

 一方で神崎の戦意は完全にしおれ、その場に座り込んだ。


「なに、もう疲れちゃったの? 意外と体力なくない?」


 わずかに上気した顔で、見下ろしてくる紗香。

 水着に巻きつけられた水色のパレオが、風になびく。 


「それがさらに意外なことに、俺の身体はまったく疲れていないんだ。なぜだと思う?」


「さあ?」


 紗香はわざとらしく首を傾げている。


「それは、さっきからお前しかボールに触っていないからだっ!」


「そんなの、自業自得でしょ」


 紗香は何食わぬ顔で言い返してくる。


「悔しかったら、本気出せば?」


「いやいや、仲間どうしでボール取り合ってどうすんだっ、こういうスポーツはチームプレーが肝心なんだよっ!」


 神崎は唾をとばす勢いで抗議した。


「わたしだって、昨日あなたに負けた分をここで取り返さなきゃいけないんだもんっ!」


 神崎の顔面に向かって唾がとぶ。


「だから、それなら向こうのチームに入れよっ! 仲間の邪魔すんなっ!」


 紗香の言っている〝昨日〟というのは、あの〈焔夜〉の出来事の話だ。

 勝負中に闘争本能にでも駆られたのか、明らかに異常な様子を見せた紗香を助けるために、神崎が決死の覚悟で勝負を終わらせた夜。

 しかしそんな事情など知りもしない彼女は、ただ神崎に敗北したという事実が、どうしても受け入れられないようだった。


「あっちはチームの一人が雨宮くんなのよ⁉ そんなの、圧倒的不利じゃない!! 絶対に嫌よ!!」 


「本人を前にして言わんでくださいっ」


 同じく戦意を失くしていた雨宮が、ネットの向こうで不満を言う。


「うっさいわね! あんたは早くボール拾ってきなさいよっ!」


 これ以上の反抗は無意味とわかっている雨宮は、一度だけ舌打ちをしてビーチボールの元に走り去っていった。

 ちなみにチーム分けは、神崎・紗香・結実と、雨宮・繚介・響子で三人ずつに分かれている。

 相手チームの繚介は妹とは違い、最初の方は雨宮や響子にもあえてボールをパスしたりして連携を図っていたが、アツくなってからの試合は完全に紗香と繚介の兄妹間で完結していた。


「本当に可哀想だな、雨宮のやつ」


 神崎の憐れみの視線の先で、雨宮は海に流されていくボールを必死に追いかけ、そして派手に転んでいた。



 腰まで浸かる深さのところで、雨宮がようやくボールに追いついた。


「じゃ、そっち投げるぞーっ」


 ボールを両手で持ち上げる雨宮。

 しかし神崎の視線は、その背後に向いていた。

 繚介と紗香も、同じ位置に視線を飛ばしている。

 太陽が眩しいのか、目をつむっていた響子も、同じ反応をした。


「なんだよ、お前ら。俺の後ろにサメでも迫ってんのか――」


 雨宮が背後を振り返ると、どっと押し寄せる巨大な波が、


「うぉぁああ⁉ なんじゃありゃあ!!」


 雨宮は素っ頓狂な絶叫を上げて、ボールを掲げたまま走る。

 背後に迫る波は、普通よりも少し波高が大きいどころのものではない。

 浜辺にいる全員を呑み込めるほどの、巨大な水の塊だ。

 他の海水浴客もその存在に気付き、てんでんばらばらに逃げ惑う。 

 波は怒り狂ったように轟音を立てて、波打ち際で激しく砕けた。 

 雨のような水飛沫が降り、周辺全体が白い霧に覆われる。


「雨宮は⁉」


 なんとか堤防の上にまで逃げびた神崎が言う。

 すぐ隣にいた繚介が静かに首を横に振った。


「探してみよう」


 視界の晴れない霧のなかで、堤防から落ちてしまわないよう慎重に歩く。

 三歩ほど歩いて、繚介が立ち止まった。


「ん? いまなにか踏んだような」


「踏むって、いったい何を……?」


 神崎も同じ場所を踏みつける。


「ぐえっ」と車にかれた蛙を思わせるうめき声がした。

 穏やかな潮風が吹きぬけて、少しだけ霧が晴れると。

 堤防にへばりつく、新種のヒトデ――みたいな雨宮の姿。


「はあ、はあ……マジで死ぬかと思った……」


 雨宮は全身ずぶ濡れのていたらくで立ち上がる。 


「お前の運動神経でよく生き残れたな」と神崎。


「俺、中学まで水泳やってたからさ」


 雨宮は自慢げに答えた。


「天衣無縫だな、ある意味」


 そう言う神崎の隣で、海水浴客が砂浜の様子を携帯で動画撮影していた。


「なに? 今のスゴい波」


「ヤバいでしょ、津波?」


「ていうか霧やばっ」

 

 三人の若い女性は動画をSNSにでも投稿する気なのか、野次馬のように逃げずにいる。


「お前ら、ここは危険だ。逃げろ」


 と繚介が忠告した。


「ああ、今すぐにでもここを離れたほうがいい」


 と雨宮も繚介に続く。

 三人はそう警戒を促す雨宮の姿を見て、すぐさまその場を去っていった。

 その姿を見つめて、雨宮は感心したように腕を組んだ。


「意外に聞き分けの良い奴らだったな」


「ま、お前みたいなのに忠告されたら逃げるだろうよ」


「いやいや、俺そんな鬼の形相とかしてないし」


 海からの生ぬるい風が吹いて、雨宮の髪を揺らす。

 ……と同時に、雨宮は猛烈な違和感とともに視線を下へと移した。 


「天衣無縫だな、ある意味」


「それ言葉の使い方間違ってるよな⁉」


 一糸纏わぬフルヌード姿で、雨宮が叫ぶ。


「とりあず女どもが来る前に隠せ隠せ」と繚介が冷静に言う。


「大丈夫だろ」


 神崎は引き止める。


「霧でいい感じに隠れてるし」


「そんな都合のいい謎の光みたいにはいかないだろっ!!」と雨宮。


 グズグズしていると、そこには近づいてくる一人の影。


「やべっ」


 これには神崎も本気で焦り出した。

 霧の中から姿を現したのは……紗香だった。


「雨宮くん、無事だった!?」


 紗香が駆け寄――ろうとして、立ち止まる。

 汚物を投影された瞳から、光が失われる。

 ――ワンテンポ遅れて、


WHAT?」


 平坦な一音のあと停止した。


「おっ、フリーズしたな。刺激が強すぎたか」


 繚介がまたも冷静に言う。


「言ってる場合か!! 俺の水着は――」


 失われたエクィップメントを探す雨宮。

 それは、案外すぐに見つかった。

 青い海にむなしく漂う、一枚ひとひらの海パンが。


「俺が取ってきてやる」


 神崎がナイスガイっぽく宣言して、海にダイヴ。

 穏やかな海をスイスイと往復し、堤防に登る。


「さ、履けよ」


 海パンを手渡そうと手を伸ばした瞬間、


「危ないっ!!」

 繚介に跳ね飛ばされいた。

 手元から落ちた海パンには、大きな穴が穿うがたれていた。


「何が起きた⁉」


「おそらく」


 繚介が言う。


「〈RainBirdレインバード〉の仕業だ」


「予知能力が発動したのか?」


 自分の状態もかえりみずに、雨宮が訊く。

 繚介は静かに頷いて、海の上に視線を飛ばした。

 神崎も同じ方を見た。

 、と硬い地面の上を歩くような足音が、霧の中で近づいてくる。

 やがて霧の中から姿を現したのは、長髪で痩身長躯そうしんちょうくの男。

 彼の足元の海面だけが凍りつき、道のように形成された氷の上に立っている。


「レインバード……!!」


 繚介が緊張を込めてその名を発音する。

 男の顔の左半分は、醜い火傷の跡に覆われていた。


  *


(……ここは)


 夢の中、モルガンは分娩室にいた。

 昨日の夢探索で来たのと、全く同じ場所。


(……いや) 


 すべてがそのまま一緒というわけでもない。

 カレンダーは、前の記憶から五年後のものになっている。

 両親や赤ん坊の姿もなく、がらんとした室内に、オルゴール調の音楽があわく控えめに流れている。

 モルガンは室内をぐるりと見回して、そこに玲の姿もないことに気付いた。

 いるのは、自分一人だけ。

 ほんの少し、ざわざわとした焦燥感がこみ上げてきた。


比美子ヒミコさん、お薬の時間ですよ」


 ナースが包交車を押しながら現れた。

 出来の悪いオープンワールドのように、明らかに扉をすり抜けていた。

 手にはピストル型の注射器が握られている。

 針の先端が、蛍光灯の光を鋭く反射した。


「――ッ⁉」


 モルガンが危険を察知して動き出すより速く、ナースは驚くような力で腕を掴み、ベッドに押し倒してきた。

 何ごとかを小声で呟き続けながら、吐息がかかる距離まで迫ってくる。

 壊れた蓄音機レコードのように繰り返される言葉は、こんなものだった。


「お薬の時間ですよお薬の時間ですよお薬の時間ですよお薬の時間ですよお薬の時間ですよお薬の時間ですよお薬の時間ですよお薬の時間ですよお薬の時間ですよお薬の時間ですよお薬の時間ですよお薬の時間ですよお薬の時間ですよお薬の時間ですよお薬の時間で……」


 針の先端は、抗いようもなくモルガンの皮膚を貫通し。

 押し出された注射筒シリンジの内容物が、途端に体内をおかし始めた。

 不可解なことに、注射に伴うはずの痛みはなかった。

 当然だ。痛覚がないのは、夢の中にいるからだ。

 たりだが本質的な理屈によって、モルガンは夢を自覚した。

 冷え切った目でナースの顔を見て、モルガンはようやく、それが誰だったのかを知る。


「玲? なんなのこれ?」


 ナース姿の京極玲に、ベッドの上で馬乗りにされたまま訊いた。


「目が覚めたみたいね。とは言っても、まだ夢の中だけど」


「いきなり注射したりとかしないでよね、ってさっき言ったよね?」


 減らない冗談は無視して、問いただす。


「ごめんなさい」玲は申し訳なさそう顔をした。


「もしかして痛かった?」


「いや、夢の中だし。まったく痛くはなかったけど」


「そう? 夢の中でも痛みを与えることはできるのよ。ほら」


 そう言うと、玲はモルガンの頬をつねった。


「いたい」


「でしょ?」

 玲との会話は彼女に主導権を握られているようで、どうも調子が狂う。


「そんなことより、その注射器に入ってたのって」


「血清よ。昨日、廃病院の記憶に迷い込んでしまったでしょう? だから追加の分を入れておいたわけ。さっき夢を自覚できたのもその作用ね」


「あの注射は夢だけじゃなく現実でも同期してたってこと? あんたは寝てるのに?」


「貴方はそうだけど、私は半分起きて半分寝てるの」


「なにそれ、フクロウみたい」


「まあ、そんなところかしらね」


「もしかして夢の中でも分かるようにしたのは、あんたなりの親切心とか」


「心が通じるようになってきたみたいね。普遍的無意識のなかにいるからかしら」


「あんた、いつか睡眠薬とか盛ったりしそうだよね」


「それだけはしないと、神に誓いましょう」


 玲は胡散臭い台詞を吐くと、


「ま、神を信じるかどうかは別の問題だけど。……さて、遊びはここまでにして行きましょうか」


 モルガンの手を取り、立ち上がった。

 いつの間にか、彼女の服装はナースから白衣姿に戻っている。

 さりげなく繋がれた手にモルガンの動揺が伝わったのか、玲は言った。


「貴方がまた別の記憶に迷い込むのを防ぐためよ」


「そんな単純な方法が効果あるんだ」


「これほどまでに多くの情報で埋め尽くされた世界では、物理的接触ほど確実なものはないわ」


 意識や記憶の情報だけで構成されたこの領域において、いったい何が〝物理〟に分類されるのか。モルガンには到底理解できなかったが、何かしらの境界があるのだろう。

 分娩室の扉を開けることもなく通り過ぎると、白いリノリウムの廊下に出た。

 行き先も知らず廊下を奥へと進んでいきながら、モルガンは先導する玲に訊いた。


「あんたはこの前、ここがあたしたち二人に共通の意味をもった場所だと言ってたよね」


「そうね」


「そして、それは夢探索の定常処理ルーティーンだから、意味がないとも言ってた」


「それはどちらも本当のことよ。この世界――普遍的無意識領域は、とにかくあまりにも情報密度が高すぎるの。だから意識や記憶の波に吞み込まれないためには探索者プローバーは最低でも二人以上じゃなきゃいけないし、血清も物理的接触も必要なことなの。そして夢探索は、無限の広さを持った論理空間のなかで、最も探索者プローバーに近い地点――すなわち、探索者プローバーにとって最も重要な意味を持った記憶情報――から出発する。それが私達の場合が、分娩室というわけ」


 どうしてそれが分娩室なのか? 玲はその問いの答えは話さなかった。

 そして、きっと訊いても教えてはくれないのだろうということも、すでにわかっていた。

 だから、質問の内容を変えてみた。


「で、今はどこに向かってるの? 今日はあたしのどんな過去を詮索するの? たまには他人の頭の中ばかり嗅ぎ回ってないで、自分の話でもしてみたら?」


 モルガンの非難に対する玲の反応は、しかし予想外なものだった。

 玲が突然、ある病室の前に立ち止まる。


「それが貴方の望みなら、とても好都合ね」


 不敵に笑って、ドアノブに手を掛けた。


「今日は、そのためにあなたをここに連れてきたのよ――」


 病室のドアが、開かれる――。

 その先は、何もない暗闇だった。

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