第23話 抑圧/Repress

 霧の中で何かの気配を感じ取った響子は、海の方を睨みつけた。


「キョウちゃん、何かあったの?」


 すでに合流していた結実が訊く。

 響子は無言のまま、カメラの絞りを絞るように遠くを見据え、


「結実、逃げろ」とだけ告げた。


 言葉足らずな忠告に、結実は困惑する。


「逃げるって、どういうこと? キョウちゃんはどうするの?」


「後で合流する。しばらく経って電話すれば、出る」


「そんなこと言ったって、連絡先とか、交換できてないし――」


「――いいから、逃げろ‼」


 響子は怒鳴るように言う。

 結実は、普段は大人しい響子の印象が豹変したことに数秒絶句した後、


「わかった。説明はあとで聞かせてもらうから」


 強い意志のこもった瞳でそう言い、その場を離れた。

 響子は彼女を見送ることもせず、足場の覚束おぼつかない霧の中を、駆ける――。



 霧の中から現れたレインバードは、じっくりと四人の顔を見回したあと――雨宮にその視線を留めた。


「――ッ」


 発話未満の短い呼吸のあと、レインバードは走り出した。

 銀盤の足場が高速で形成され、手には氷塊の槍が出現する。

 深く膝を沈め、雨宮に向かって、跳んだ。

 その瞬発力を前にして、誰一人として動けなかった。

 一本の巨大な槍の穂先は、雨宮の顔面の寸前で――跳ね返った。

 その、瞬間――常人の認知閾にんちいき以下の刹那の世界でのことだ。

 高く蹴り上げられた響子の脚が、レインバードの胴体に直撃していた。

 レインバードは氷の上で受け身を取り、冷淡な声で響子に問う。


「お前がなぜ邪魔をする?」


 響子は背後の雨宮を一瞥いちべつし、


「こいつは無能力者だ。お前たちの標的ではないはずだ」


「だが当局に対する重大な反乱分子であることには違いない。排除の必要性はある」


 レインバードは立ち上がる。


「俺の邪魔をするというのなら、お前もそのリスト入りだ」


 剥き出しの脅迫を前に、響子の表情は――あまりに場違いなことに、笑った。

 あざけるるような、あるいは、笑い慣れていないがためにそう見えるだけのような、そんな笑みだ。


「わたしの名前は、すでにの上にあるだろう」


「何の話をしている?」


 レインバードは火傷跡のない右半分の顔をひそめる。


「情報収集が不十分だな」


 響子は昂然と言う。


「〈伊賀〉という名と監理局の関係について、深く調べてみるがいい」


「……ちっ」


 レインバードは舌打ちする。


「その関係とやらも、お前の存在ともども消してくれる!!」


 鋭い氷の矛先が極大の斧に形状変化し、響子の脳天に襲いかかる。

 一方で、彼女はその凶悪な刃を歯牙にも掛けず、左手をまっすぐに空へとかざす。 

 その手には、人体を模した形状の小さな紙――〈形代かたしろ〉と呼ばれる、神霊を宿す呪術の道具――が一枚握られていた。


「――召喚術式・悪行罰示識神あくぎょうばっししきがみ天之尾羽張あめのおはばり〉」


 響子は詠唱する。

 その形代を中心として空間の断裂が広がり、燦爛さんらんと閃光が溢れ出した。

 空にできた亀裂は瞬く間に修復され、同時に閃光が消え失せる。

 氷の斧が響子の頭上に到達しかけたときには――その手にはつるぎがあった。

 刃だけで拳十個分ほどの長さがあり、弓なりに曲がった日本刀。

 響子はその刀を即座に目の高さで水平にして、かすみの構え。


「なによ、あれ……⁉」


 意識を取り戻した紗香が驚愕する。

 華奢で繊細な肉体と刀身のみで、斧の重圧に拮抗きっこうしていた。


「わたしの身に傷の一つでもつけてみろ。お前もただでは済まないぞ」


 警告する少女は、一滴ひとしずくの汗を首筋に垂らすこともなく。

 頭上の刃を、軽々と退けてみせた。

 レインバードは響子の実力に驚きつつも、


「まあいい。〈D-Day〉はまだ先だ。小手調べはできた。予行演習としては上出来だろう」


 背中から倒れるように海の中に跳んで、消えた。


  *


 響子が庇ってくれている隙に、雨宮は逃げ出していた。

 海水浴場の駐車場へ向けて、全裸で走る。

 そこには、繚介が運転してきたレンタカーのバンが駐車してあった。

 目的はバンの中にある宿泊用の着替え一式だ。

 周囲に人目がないことを充分に確認してからバンに乗り込み、着替えた。

 衣服が身を包んでいる安心感に泣きそうになりながら、バンを出る。


「あ」


 ちょうど、バンに近づいてくる人の影があった。

 眼鏡越しに不安げな目を向けて歩いてきているのは――篠塚結実だ。


「ちっす」


 雨宮は軽く片手を挙げて会釈する。


「あれ、まだ雨宮くんだけ? 他の皆とは?」


 と何も知らない結実。


「ああ、ちょっと……色々あってさ」


 気恥ずかしくなって言い訳を考える、ジャージ姿の雨宮を見て、


「なんか、あれ――」


 結実は笑う。


「お漏らししちゃった小学生みたい!」


  *


「いったい今のは何だったの⁉ 伊賀さん!!」


 紗香が駆け寄る。

 再び響子の手の上で閃光が放たれて、刀が消失した。


「……語り得ることは、なにもない」


 と響子は言う。

 困惑する三人の前に立ち、響子はさらに一言だけ発した。


「レインバードは、和泉紗香が退しりぞけた」


「なにを言ってるの? レインバードは伊賀さんが――」 


 話している間に、紗香の意識は響子の目に吸い寄せられていく。

 真っ黒い瞳孔は、まるでそこに虚ろな穴が空いているかのようで。


「レインバードは、和泉紗香が退しりぞけた」


 紗香だけではなかった。

 繚介も神崎も、その場にいた全員の意識が引きずり込まれていく。

 意識の表層、記憶の一部が、不可知の領域へ隔離され――。


「お前ら、レインバードは⁉ どうなった⁉」


 ジャージに着替えた雨宮がそこに駆けつけて、訊く。

 紗香は、なんの異状も感じさせないを雨宮に向けて、言った。


「レインバードは、わたしがなんとか退けたわ!」


  *


 ひんやりとした空気が、モルガンの肌を撫でる。

 扉は強引に空間をぎ合わせ、唐突に暗い室内へと通じていた。

 最初は何一つない暗闇に見えたが、それは真っ暗な部屋だったのだ。

 しかしただの病室かというと、そうでもない。

 不用意に室内へ足を踏み入れることもできず、玲に話しかけようとしたところで、


「リサ=ストロングマンの記録、173日目――」


 部屋の奥で女の声がした。ドイツ訛りの英語。

 その声は、リサ・ストロングマン――モルガンの実の母親のものだった。


「〈オーファン〉との接近遭遇について、原因はスカラー電磁波がヴァン・デ・グラフ起電機との間で発生させた、ハチソン効果による零点エネルギーへの作用だと推定」


 暗闇で呟かれている言葉の意味は理解できない。


「どうして、ママが……?」


「貴方、母親から仕事の話を聞いたことはないのかしら?」


「直接的には聞いてない。けど、水商売だったはず。ママは隠してるつもりだったけど、あたしは子どもながらに気付いてた」


 少なくとも、今この暗闇の向こうにいる科学者のような職業ではなかったことは間違いない。

 ふと、隣に立つ玲の表情を伺ってみると、彼女は満足気な顔で腕を組んでいた。


「これより〈オーファン〉との第二種接近遭遇の再現、並びに、第三種以降の接近遭遇実験を開始する」

 

 とリサの声。

 そしてしばらくの間、無音が続いた。

 何かの作業をしているような物音と、白衣の衣擦れの音が耳に残る。

 それは豪雨の前兆に漂う、不気味な静謐さのように感じられた。

 破裂を予感させて膨らんでいく静寂の風船。それが突然に四散する。

 重厚なオーケストラ音楽が、静寂に適応したモルガンの鼓膜を揺さぶったのだ。


「うるさっ」


 モルガンは思わずうめいてしまうが、それも音楽に掻き消された。

 部屋から溢れ出す荘厳たる音楽には、聞き覚えがあった。

〈ニュルンベルクのマイスタージンガー〉より、第一幕への前奏曲。

 その爆音のなかに、という不穏な放電音が入り込む。

 そして意識が跳びそうなほどまばゆい光が、部屋中を隅々まで照らし出した。

 光のなかで、入り口のすぐ隣の壁に掛けられた一枚の絵画が目に入る。

 アドルフ・ツィーグラーの〈四大元素フィア・エレメンテ〉だ。


「もっと近くで見てみましょうか、モルガン」


 玲はモルガンと手を繋いだまま、光の方へと歩き出した。


「ちょっ、ちょっと! 近づいて大丈夫なのっ?」


「あくまでこれは記憶情報の再現よ。実際に傷つけられることはないわ」


 そう言う玲の表情は、どこか熱に浮かされたようだ。

 虫が光に吸い寄せられるように、光の中央へとふらふらと歩いていく。

 けたたましい音楽と、放電音。

 不気味なノイズが、頭を針のように刺激する。

 モルガンは思わず目を閉じた。

 開けた時には、二人は光のすぐそばまで来ていた。

 円柱の上端に、金属球がついたような装置。

 顳顬こめかみが痛くなるほどの強烈な光は、そこから放たれている。

 リサは光を前に立ち尽くしていた。

 長い髪と白衣のすそをはためかせる後ろ姿が、逆光になって見える。

 そして。

 地上の、あらゆる生命を祝福するように。

 あるいは、侮辱するかのように。

 それは始まったのだった――――。


「……はいぃ?」


 まず、リサの上半身だけがだらりと背後に倒れ込んだ。

 彼女の瞳は光を失っていて、焦点を失った視線を弱弱しく漂わせていた。

 その体勢は柔軟どころではない。角度はほぼ百八十度に近く、下半身とは文字通り辛うじて皮膚一枚でつながった状態で、その境界はばっくりと裂けて開いていた。

 そこからはらわたが溢れ出し、外圧を失ったホースのように暴れだす。

 それだけではない。

 身体中の筋繊維という筋繊維、神経という神経の一本一本が、まるで各々の意思を持っているかのように、体外で不気味にうごめいていた。

 混然とした蠢動は、すぐに規則性を見せ始める。

 溢れ出した腸と筋繊維と神経が幾重にも編み込まれ、二つの束を形成してゆく。

 それと並行するように、残りの肉や骨や臓腑が、それぞれの束の一部として均一に配列されていった。平均に比べて極端に少ないであろう脂肪も、どこか艶めかしい光沢を帯びて、束の上を移動し、吸収される。

 二つの肉の束は相互に補完するように渦巻き、二重の螺旋構造を作り出して、光の中心――装置の中へと吸い込まれていく。

 異形と成り果てた母の姿は、単なる生物のDNAを超越した無限性を象徴するかのようで、モルガンの目は釘付けにされていた。

 生理的嫌悪感を覚えないのは、許容値を超えた異質さを前に麻痺してしまっていたからか、あるいは、どれだけ血塗られた記憶でも脱臭しきってしまう夢のせいか。

 は以前の形態を完全に失ってなお、どくどくと脈打っており、いくつかの臓器は自らの正しい配置を探し求めるように未だ移動を続けていた。

 なかでも、二つの束の上を対称的に移動する小さな器官は特に目立っていて、モルガンは無意識にそれを目で追っていた。

 その二組の器官――ぶよぶよとした小さな球――は、眼球だった。

 左右で虹彩の色が異なるそれは、紛れもなく彼女の母のものである。

 回転方向とは無関係の不自然な動作で束の上を滑っていた二組の眼球は、左右に並ぶと同時にモルガンと視線を嚙み合わせて、停止した。

 ――視線。

 光も生気もないくせに、ただならぬ使命感を抱えた力強い視線。

 それがモルガンを真っ直ぐに貫いていた。


「――っ!!!!」


 その瞬間、抑圧された嫌悪感が、耐え難い悪寒となってモルガンの精神に押し寄せた――。


  *


「――っ!!!!」


 ホテルのベッドの上で、モルガンは汗だくで飛び起きた。

 隣のベッドでは、玲はまるで眠ってなどいなかったかのように――本当に彼女の言葉通り、半分しか眠っていなかったのか――涼し気な顔をして、


「おはよう、モルガン。どうだった? わたしの頭の中は」


 と、そう語り掛けてきた。

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