第32話 蜃気楼のような夢/Returning

 夢。あたしは夢を見ている。

 孤児院の地下にある、薄暗い倉庫。

 その隅で、膝を抱えて座り込んでいた。

 あたしは、部屋から出られなくなってしまっていたのだ。

 外へつながる扉は、決して子どもの力では開けられないような重いものではない。かといって、鍵が掛かっているわけでもない。

 いつもなら、簡単に開けられるはずだった。

 それがどうしたことだろう、いまではどれだけ強くノブを握っても回せず、押しても引いても扉は一ミリとして動かない。

 厳密に言うと、地下室から出る手段自体はある。

 自分では扉を動かせないとはいえ、出入りする他の人のあとをつければいい話だ。

 階段を上って、地上の部屋――身寄りのない子どもたちが、深刻な設備不良と職員からの虐待に耐え続ける劣悪な環境――まで戻ったこともある。

 しかし、顔見知りの子どもも職員たちも、あたしに一瞥の視線も向けないのだった。まるであたしが、幽霊か何かにでもなってしまったように。

 として施設内で村八分にされたことはあったが、それともまた違う様子だった。

 物理的な接触――誰かの身体を殴ったり引っ叩いても、何の反応も示さないのだ。

 それだけではない。

 助けを求めて声を出すことも、呼吸をすることすらできなかった。

 もちろん食事はしていないし、排泄もしていない。

 そんな状況が、もうかれこれ一週間。

 それなのに、なぜあたしはまだ生きているんだろう?

 誰もが疑問に思うはずだ。あたしもそうだ。

 そして、かなり早い段階で打ち出したあたしの答えは、こうだ。


 ――きっと、あたしは死んだのだ。

 

 ――死んで、地獄に堕ちたのだ。

 

 ――だからここは、地獄だ。


 あたしは服を着ていなかった。

 自分の身体を動かすことはできても、他の物を持ち上げたり押したり引っ張ったり、とにかく何かの作用をすることが一切できない。だから、すぐそばに乱雑に脱ぎ散らされたあたしの服や下着も、いまではもう身につけることができない。

 まるで世界の外側にでも弾き出されたみたいに、あたしの身体一つだけが外界から切り離されている。

 誰かが見つけて助けてくれるのを待つ、などという一握りの希望すらもう見失い、諦めと絶望の渦中で、あたしは何も考えないようにして座っていた。


「――彼女の姿を最後に見たのは、この部屋で間違いありませんか?」


 ふと、扉の向こうから声がした。

 地上に通じる階段を下りながら、女が話している。

 続いて、それに答える男の声。


「ああ、そうだ――おい、扉はまだ開けるなよ。俺がここを離れてからにしろ。――あいつは、悪魔だよ。同僚を殺しやがったんだ。ひとりでに動き出した戸棚に潰されてな。ありゃあ魔法か、呪いか、そういうもんだ」


 よく聞き覚えのある、職員の声。

 あたしの身体は、反射的に手足を縮こまらせた。

 しばらくして軋むような音ともに、地下倉庫の扉が開かれた。

 足音の響きが、こちらに近付いてくる。

 扉とあたしの間にはいくつもの戸棚や備品があって、入ってきた女の姿は、はっきりとは見えない。

 備品にはただの子どもを傷つけるためだけに用意されたものもあり、その内いくつかはあたしも身に覚えのあるものだ。乱雑に倒れた戸棚や備品で、倉庫内はほとんど迷路のようになっていた。

 なのに、足音の女は、一度も経路を間違えることなく、あたしの前に現れた。

 まるで、倉庫全体を上から見下ろして迷路をたどってきたようだ。


「……」

 

 黒いパンツスーツにサングラスという、まるで『メン・イン・ブラック』のような恰好。

 身に纏っているスーツは新品同然の清潔さで、薄汚れた孤児院の倉庫にはおおよそ見合わない姿だった。


「こんにちは、私はとある国際機関から派遣されました」


 女は突然自己紹介を始めた。

 彼女にだけはあたしの姿が見えているのか、それとも頭がおかしいだけなのか、それはわからないけれど、サングラス越しに彼女と視線が噛み合った気がした。


「あなたは特別な資質を持っている可能性があるので、我々の機関で〈面接〉を受けてもらいたいです。拒否権は与えられますが、同行した場合、面接試験の結果によらずいくつかの報酬が出ます」


 堅苦しい話し方は、おそらくマニュアルかなにかであらかじめ用意された文言をそのまま口にしているからで、どこか台詞を言い慣れていない様子だった。


「……」


 あたしはまだ五歳になったばかりだけど、彼女の言っていることは、ちゃんとわかる。

 それでもあたしは答えないし、彼女を視界に入れないように努めた。

 なにか気に食わない返答をしたら、殴られる。

 それがあたしにとっての日常だったからだ。

 もちろん黙っていても殴られるけど、その方が無駄な労力を使わずにすんだ。


「ねえ、きみ」


 女は急に口調を砕けさせて、あたしの目の前に膝をついて座った。

 これが彼女の本来の口調であり、態度であり、接し方なのだろうと感じる。

 この人は、どうやら孤児院の職員たちとはまったく違うようだ、とあたしは思った。


「手、出してごらん?」


 ゆっくりと手のひらを出してくる。

 そんなことをしても無意味なのに。

 あたしからの力は、作用しないのだから。

 たとえ触れ合っても、彼女は何も感じないだろう。

 に力が働かないのだ。

 向こうからは押されるのに、こちらは何をしても押し返されるだけ。


「ほら」


 女は微笑んだ。

 あたしはおずおずと手を伸ばし、彼女と手のひらを重ねてみた。


「ゆっくり息を吸って、こころを集中させてごらん」


 彼女は、新しい言葉を教えるようにゆっくり言った。

 こんな風にして話しかけてくる人と会ったのは、初めてだった。

 いや――その前にも一人だけいた。

 何年も前にあたしを捨てた、あたしのママだ。

 

(……ママ――)


 あたしは遠い母親の記憶を思い出しながら、ゆっくり息を吸う。

 空気を吸い切ったと同時――彼女の手が、ぎゅっ、と、確かにあたしの手を握った。

 そして、あたしも彼女の手を握っていた。

 触れ合っている。力が働いている。お互いに、相補的に。

 ――あたしの身体が、再び、ここに存在していた。


「ジュース、飲む?」


 彼女はそう言って、紙パックを渡してきた。

 受け取ったあと、飲み方がわからずもたついていると、彼女が代わりにストローの包装を解いて、挿した状態で渡してくれた。

 あたしは差しだされたストローを咥えて、紙パックを受け取る。

 吸った瞬間、口の中が痛くなった。

 甘いものを口にするのが、あまり久々すぎたからだ。


「ヒミコちゃん、だよね?」と彼女は訊いた。


 あたしはストローを唇から離し、


「あたしの名前は、卑弥呼ひみこ・ストロングマンです」


 と、フルネームで答えてみる。

 あたしの声は、はっきりと空気を振動させた。


「わたしの名前は――」女性は話しながら、首にかけていたアクセサリを外して、あたしに手渡した。「217に・いち・なな


「に…い、な……?」


 あたしは繰り返して発音したが、それは間違っていた。施設に同じ名前の娘がいたし、まさか名前が数字の羅列だとは思いもよらなかったからだ。

 女性に渡されたアクセサリには、〈217〉と数字が刻印されていた。


「ニーナかっ」彼女は嬉しそうに笑った。「いい名前ね、それ」


「あたし、間違ってましたか?」


「ううん、いいのよ。むしろ、これからはそう呼んでほしいかな」彼女は決して、あたしを否定しようとはしなかった。「でも……さっき言ったのは、あたしの認識番号なの」


「にんしきばんごう……?」


「そう。〈監理局〉で働いている人に与えられる、自分だけの番号よ。例えばあなたなら、〈165番〉」


 彼女はそう言って、もう一つのアクセサリを、今度はあたしの首にかけてきた。


「それが、あなたの認識票」


 掌にのせて見てみると、そこには〈165〉の数字。


「いち、ろく、ご……」


 あたしはそれを見ながら、一語ずつ区切って声に出す。

 正直、自分の名前だとは思えなかった。

 ただ平凡な三つの数字が並んでいるだけだ。

 すると、その違和感を読み取ってか、彼女――ニーナは、


「数字が名前なんて、おかしいわよね」とこぼした。


 あたしの不満を察知しても、怒鳴らず、殴らず、罰を与えず。ただ寄り添おうとしてくる彼女の振る舞いには、とても不思議な感じがした。


「さて、自己紹介も済んだところで」ニーナは腕時計を見て、言った。「どこか行きたいところとか、ある?」


「――とくにないです」


 あたしはジュースのパックをほんの少し強く握る。

 自分の意見を言おうとするとき、いつも無意識に身体に力が入ってしまうのだ。

 本当はプラネタリウムに行ってみたかったが、そう口にはしなかった。


「ヒミコちゃん、緊張してる?」


「してない、です」


「……そう。実はね」


 ニーナはあたしの緊張をほぐしたいのか、微笑みを浮かべて言った。


「認識番号とは別に、あだ名があるんだよ。〈学校〉でも、私をそのあだ名で呼ぶ人も多くいるんだけれど」


「あだな――?」


 あだ名、というもの自体は知っている。でも、この施設であたしに付けられたあだ名といえば、どれもお世辞にも親近感があるとは言えないものだ。


「〈BlindMonkブラインド・モンク〉」とニーナは言った。それは妙に発音の良い英語だった。「それがわたしのあだ名。この言葉の意味、わかるかな?」


 わたしはジュースのストローを咥えたまま、首をかしげる。

 そんなふうに他人の前で自然に疑問を呈するのは、数年ぶりだった。


琵琶法師びわほうし」と彼女は言う。


 びわほうし? あたしはまだわからない。


「そう。お坊さんのことなんだけどね。ほとんどの人は、目が見えないの。でも、目が見えないとほかの人みたいに生活できないし、そのためのお仕事もうまくできない。そんな人たちのために、国がつくったお仕事、それが琵琶法師なの。あなたみたいに小さな子どもに、いろんなお話を歌って語り聞かせて国中をまわるの。――素敵なお仕事だと思わない?」


 あたしはよくわからなかった。

 でも、それは悪いことではない気がした。


「ニーナさんは、目が見えないんですか」と、あたしは訊いた。


 ニーナは考え込むような素振りを見せたあと、真っ黒なサングラスに手を伸ばし、ずっとかけていたそれを、外した。

 彼女には、眼がなかった。

 すらもなく、本当にのっぺらぼうのように、ただ綺麗な肌があるだけだった。


「どう? わたしの顔、怖いかな」


 あたしはストローから口をはなす。


「……こわくない」


「よかった」とニーナは口だけで笑った。


 サングラスをかけていたときからそうだったが、彼女の柔和な表情は、眼がなくとも感じ取れた。


「私もね、あなたといっしょなの。何がか、わかる?」


「ふつうとちがう」とあたしは言った。


「そう。でも、私には特別な仕事がある。……楽器や歌は、うまくないけどね」


「あたしにも、そんな仕事があるの?」


 あたしがそう訊くと、ニーナは頭をそっと撫でてきた。


「かしこいのね。わたしがあなたぐらいの年の頃は、学校にも行かずに、ずっと部屋にこもってビデオゲームしてたよ」とニーナは言った。「面接なんて、受けられるだけでもすごいことなんだから」


「めんせつ……?」


 さっきも、彼女はそんなことを言っていた。


「そう。わたしたちが所属している、ある国連機関の面接試験。それに合格すれば、あなたは特別な子どもたちのための〈学校〉に入る権利が与えられる」


 とニーナは説明した。


「ちなみに、〈学校〉は全寮制よ」ニーナは誰もいないか確認するように周囲を見回してから、顔を近づけてきて、小声でさらに言い足す。「少なくとも、ここよりは……いい環境だと思うけど」


 その言葉を聞いてあたしは、すぐに頷いた。

 とにかくどこでもいいから孤児院を離れたかった、というのが、あたしの本音だ。


「ん、じゃあ、行こっか」


 ニーナが手をそっと差し出してくる。

 あたしはその手を握って、歩き出した。

 首にかかった認識票を、もう一度じっと見つめる。

 

 認識番号の隣に刻まれた、組織の紋章。

 

 交差したオリーブの枝の輪と、花弁のような曲線の輪郭をもった盾。

 その下には、〈H.C.S.D.〉のアルファベットの文字がある。

 

 この日、あたしは人類危機監理局 Humankind Crisis Supervision Departmentの一員となった。

 ファタ・モルガーナ――イタリア語で〝蜃気楼〟を意味し、由来は伝説の魔女モーガン・ル・フェにまで遡る。

 それが、〈学校〉であたしに与えられた名前だ。

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