第36話 終末への備え(後編)/Repentance-2 (Phase-2)

 モルガンは大きく息を吸った。

 かびまみれの湿気しけった空気は、肺に入れるとかえって体調が悪くなりそうだが、彼女にとってそれは心地よいものだった。

 懐かしい気分になる。

 何年も前から放置されている、森の奥深くにひっそりと隠れた廃病院の、霊安室。

 ろくに舗装されていなかった道路は今では森に覆われて完全に消え去り、そもそも病院に辿り着くまでの道中が危険すぎるあまり、偏執的な廃墟マニアでさえ近づこうとはしない場所だ。

 もしもここで肝試しでもすれば、少年少女たちの心に一生忘れられないほどの恐怖を刻みつける体験ができることだろう。

 しかしモルガンの心に刻まれたこの場所の記憶は、恐怖とは程遠い――安心だ。

 あの〈事故ロスト〉の日、監理局の施設から逃げ出してから、レインバードに連れ戻されるまで、ニーナと共に過ごした隠れ場所。


(……ニーナ)


 記憶を頼りに、遺体収納庫の錆びついた扉をそっと開けて、その中を覗き込む。

 溢れ出てきた冷気が、彼女の肌をちくりと刺した。

 中にはモルガンの記憶通りに、両眼のない女性――ニーナの死体があった。

 モルガンは安堵したように息を吐くと、すぐに扉を閉める。

 外部の電力供給を失った今でも、遺体収納庫の保存機能が未だに維持されている理由は、ほとんど奇跡と言ってもいい。病院内に設置された太陽光発電システムと、余剰の電力を蓄えるためのバッテリー。それらが正常に機能していることが、病院内の一部の設備に対して、外部とは独立したエネルギー供給を持続させているのだ。

 モルガンは続いて、ニーナの隣の扉を開く。

 彼女の足元には、人間ほどの大きさのある青いビニール製の袋。

 そのジッパーを開き、彼女は袋の中身をゆっくりと、慎重に持ち上げた。

 満足気な表情のままに冷えて硬くなった、京極玲。

 を、ニーナの隣の収納庫の中へと納めていく。

 なぜこんなことをしているのか、モルガン自身にもよくわからなかった。

 ただこうすることが、彼女の人生において儀式的な意味を持っているように思えてならないのだ。それは、理屈では言い表すことのできない直感であった。

 モルガンは監理局に戻ってからも、時折この場所を訪れている。

 彼女にとってここは、懺悔のための告解室であり、愛する者の墓標なのだった。


(神様って、あたしみたいな人間を地獄に落とすのかな……)


 冷静な精神状態なら、自分でも突拍子がないと思ってしまうようなことを考えながら立ちすくんでいると、突然彼女の電子端末フレキシが通話を受信した。

 レインバードからだ。

 モルガンは普段の癖で周囲に人がいないか確認すると、フレキシと接続されたワイヤレス・イヤホンを装着し、通話に出た。


『二日後には〈D-Day〉だ。任務は容赦なく遂行されなければならない。。無駄な情緒は不要だ。降りたい場合は、直ぐに連絡しろ』


 任務への参加を辞退するという選択肢が与えられたのは意外だった。

 だが、それも彼女の心情に対する配慮などではないのはわかっている。

 足をっ引っ張るくらいなら出て来るな。そう言っているだけのこと。

 モルガンはできるだけ普段の調子を装うよう努めて、こう答えた。


「わかってるよ。任務には、ちゃんと参加する。でなきゃ、状況は変わらないでしょ」


 〈D-Day〉――最重要捕獲対象である〈RedPredator〉の奪還作戦に参加して成功させることができれば、機密情報を漏洩リークさせた疑いについての弁解を、評議会が聞き入れてくれる可能性も少しは出てくるはず。それと、レインバードの指令を一度無視したことについての精算も。 


『では、万全の態勢で作戦に備えておけ。以上だ』


「了解。、ね」


 そして、通話は切断される。

 レインバードとの会話の影響で、少しだけ思考は纏まってきた。

 まずは、二日後の作戦までに、この力を制御できるようにならないと。

 京極玲の死を招いた、まだ秘められた真の能力さえあれば――。


(――和泉紗香レッドプレデターだって、殺せるはず――)


 それは、エリクシアのための、復讐で。

 ニーナに対する、贖罪であり。

 京極玲――リサ・ストロングマンへの、弔いだ。


『素晴らしい決意だ、ファタ・モルガーナ』


 突如、どこかからそんな声がした。

 女性の声。それはとても懐かしい響きをもっていた。

 だが、どれだけ周囲を見回しても、誰の姿も見当たらない。


『――こっちだ』


 声がそう呼び掛けてくる。

 ベータとの会話と同じ、脳に直接情報を送られている感覚。

 それでいて指向性が知覚できて、モルガンはその方向へと視線を飛ばした。


「ん……?」


 モルガンは、目を凝らす。

 床にできた、小さな水たまりに。

 古びた天井からと滴った水が、そこへ落ちていく。

 周期的に水面に生まれる波紋。広がっては、消えてを繰り返す。

 ――違う。天井の水滴以外にも、波紋を起こしている原因がある。

 何かが、水たまりの中でうごめいているのだ。


『――気づいたか』


「――――⁉」


 発生源を認識した途端、その声はより鮮明になっていた。

 モルガンは驚いて飛び上がりそうになるのをなんとか抑えた。

 一歩近づいて、水たまりをじっと見つめる。

 濁りきった水の中で、奇妙な生き物が動いていた。

 透明で、液体のように柔らかそうな姿。形を定めずにゆっくりと波打ちながら移動するその生物は、まるで生きたゼリーの塊のようだった。

 モルガンはその異質な光景に息を呑んだ。生物は彼女の存在に気づいたかのように、一瞬動きを止め、次の瞬間にはまたゆっくりと蠢き始めた。


『アメーバ、原生生物の一種だ』


 は水溜まりの中をゆっくりと泳ぎ回り、時おり周囲の水分を吸収してその体を引き伸ばしている。

 彼女は恐怖と興味が交錯する中で、その生き物の動きを目で追った。


「あんた、誰……?」


『この有機生命体型インターフェースについて誰何すいかしているのであれば、正確な答は、ネグレリア・フォーレリの近縁種にあたる』


「……はい?」


『訂正。疑問はソフトウェアについて向けられたものであると推測。疑問に対する適切な答は、リサ・ストロングマンを初期点とする連続的な意識情報である』


「どういうこと、あんた、リサなの……?」


Himmelsträumerヒンメルシュトロイマー、と言えば信じられるか』


 それは、かつてのモルガンの呼び名だった。

 まだリサに棄てられる前、二人で港の街に住んでいた頃の。

 ドイツ生まれの母親は、日常生活の中でもふとした瞬間に母国語を使うことがあった。そして、モルガンが押し入れに隠れて家庭用プラネタリウムを使っているのを見つけたとき、そのあと二人で星空を眺めているときにだけ、母親は、彼女のことをそう呼んだ。

 意味は、〈星空を夢見る者〉。

 その元ネタはアイヒェンドルフという名前のドイツの詩人の言葉だそうだが、実際にその作家の作品を読んだことはない。

 とにかく、いま言えることは――この原生生物が、リサ・ストロングマンであるということだ。


「でも、その喋り方は何?」


 アメーバから伝わる声の口調は、驚くほどに冷たく、機械的だ。

 いつも意地悪く回りくどいリサ・ストロングマンの話し方とは、まったく違うのだ。


『〈現任管理者〉に気づかれないために、最低限の演算能力のみで実行している。修辞技法に拘っているほどの余裕は残されていない』


「じゃあ、ホントにあんたがリサってわけね。あんた、なんでまだ生きてるの? だって、あたしが――」


 玲の身体を納めたばかりの収納庫に視線を戻す。

 冷たくなった母の身体が、そこには変わらず入っていた。

 左手に、引き金を引いた時の感触がよみがえり始めた。


『私の肉体は、遠に存在意義を失っている。単なる有機生命体型インターフェースに過ぎない。生命活動の有無も、その形態にも意味はない。必要なのは、普遍的無意識に同期された意識と記憶のデータだけである』


 脳に響き渡る声に導かれ、モルガンは思い出す。

 いつの日かの夢探索で目にした、衝撃の光景。

 リサ・ストロングマンの奇妙な実験。

 分裂し、再構築されていった彼女の肉体。

 生々しく脈動する生きた肉の二重螺旋と、ぎょろぎょろと回転する二つの眼球。

 思い出すだけでも、胃液が逆流してきてしまいそうになる。


「だからって、なんでそんな姿なの? その、有機生命体型インターフェース? の形態に、意味がないんだとしても……前と同じ身体に戻ればいいじゃない」


『〈現任管理者〉が我々の存在に気付き始めている。最低限の演算能力で実行するために、肉体も最低限の機能のみを持ったインターフェイスが必要だ』


「それで単細胞生物ってわけね。……その、さっきから言ってる〈現任管理者〉ってのはなに? 昨日も夢探索で、同じこと言ってたわよね」


 脳内の音声は、数秒ばかり逡巡したように思えた。

 まるでその名前自体が呪われていて、口にすることも恐ろしいかのように。

 無機質さの奥に強い使命感を込めた声で、リサは言った。


『普遍的無意識の現任管理者は、伊賀千夜かずよである』


「伊賀……?」


 その姓を持つ家系について、監理局のデータベースで読んだ覚えがある。

 古代、皇族の元で厄払いを担っていた一族。確認されている血統者は例外なく、在野――監理局による血清の投与を受けることなく超能力に発現しているのだと。


「どうして伊賀家の人間が、あんたの計画の邪魔をする必要があるわけ?」


『私の計画が、伊賀千夜の存在を脅かしているからだ。――私に与えられた使命は、伊賀千夜の暴走を止めること』


「そうなんだ。でも、その姿じゃ無理でしょ」


 モルガンは作業用のウエストバッグから、空になった血清の注射筒シリンジを取り出した。

 キャップを外し、水たまりに注射筒の口を入れる。

 流れ込んでいく水と一緒に、アメーバが筒の中へと入っていった。


「あたしが、あんたのになってあげるわ」


 リサがまだ存在して、こうして姿を変えても彼女の側にいる。

 自分でも驚くことに、その現実は、彼女に大きな安心感をもたらしていた。

 初めて会った時からは、想像もつかない心情の変化だ。

 アメーバの入った注射筒を、ぴん、と指先で弾いて、モルガンは訊いた。


「で、計画には何が必要なわけ?」


『比美子・ストロングマンだ』

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