第8話 組手/Recreate

 神崎が繚介の部屋に戻って行ったあと、紗香も三人と同じ部屋で過ごそうかと考えたが、結局は自室で眠ることに決めた。

 電気を消す。

 一人で眠るには大きすぎるセミダブルベッドの上に寝そべると、シーツから柔軟剤の香りがした。

 時計を見ると、時刻は午前四時十五分。

 明日も朝から学校なので、睡眠時間はあと二時間ほどしかないことになる。

 それでも、身体を休めておくに越したことはない。

 目を閉じる。

 陶然とうぜんとした感覚が、胸の奥から全身へと広がった。

 眠りの扉がゆっくりと開かれて、隙間から夢が溢れ出した。

 暴力的なまでに、深い眠りの波が押し寄せる。

 ああ、またいつも通りか、と紗香は思った。

 開け放たれた扉からほとばしる激しい流れは、一瞬にして紗香を吞み込んでしまう。

 彼女はいつもを水として想起していた。

 濁りのない、爽やかな青の水。

 彼女を傷つけるのではなく、ただ呑み込んで、掻き消そうとする力。

 彼女は現実と同じく、夢の中でも能力を使うことができた。

 だが現実と同じく、水中では無力だった。

 彼女はなにかに足首を掴まれて、深淵へと引きり込まれていく。

 見下ろすと、水底に影が見えた。

 紗香の足首を掴んでいるその影は――〈エリクシア〉。

 彼女の目は、紗香をさげすんでいる。

 紗香はいま、夢を見ていない。

 

 

 

 目を見開いて起き上がった。

 全身に汗が伝い、ネグリジェに染みをつくる。

 時計を見ると、午前四時三十分――目を閉じてから十五分しか経っていなかった。

 和泉紗香は、不眠症だ。

 彼女を苦しめるているのは、過去の記憶。

 紗香はのそりとベッドから出た。

 部屋の隅にある学習机は、繚介が買ってくれたものだ。机上の小さい本棚には参考書や教科書と、その他にいくつかの漫画雑誌が混じっているが、どれも綺麗に並べ立てて整頓されている。それ以外には、ペンケースの一つも置かれていなかった。

 彼女はその机を、学習には一切使っていない。

 学習机の引き出しを開ける。

 そこにあるのは文房具類などではなく、いくつかの錠剤。

 一つ一つ手に取ってみる。抗うつ薬、抗不安薬、睡眠薬……。

 すべて違法物だった。効果が強力すぎるのだ。

 紗香は睡眠薬の錠剤を、手のひらに乗せた。

 しばらくそれを見つめた後、彼女は意を決して飲み込んだ。唾液で崩壊する口腔内崩壊錠こうくうないほうかいじょうなので、水は必要ない。

 錠剤が舌に触れた瞬間、紗香の身体がふらりと大きく揺れる。支えられずに床に倒れ込んだ。

 彼女には、薬物全般に対する強い嫌悪感があった。

 フラッシュバックするのは、〈監理局〉施設での薬漬けの日々。

 口内に広がる薬物の感覚に消化器官が過剰に拒絶反応を起こし、胃液が逆流する。

 口腔内崩壊錠だけを選んでいるのも、薬物を服用する感覚を少しでもなくすだった。

 だが、それもあまり効果がない。

 紗香はトイレまで走り、便器の中に嘔吐した。


「っぐ……はぁっ」


 嗚咽するように便器に吐き出し続けていると、誰かが彼女の背中をさすった。

 大きく不器用そうな男の手だが、優しく繊細な動きで彼女の背を這う。


「……繚介」


「眠れないのか、紗香」


 こくり、と静かに頷く。


「繚介も、眠れないの?」


「ああ。夜中に二人あいつらと遊び過ぎた熱が、未だに冷めない」


 ふざけたような理由だが、本音である。

 彼女の兄は、二十一歳にして未だに少年のような男だった。

 それを再認識した紗香は妙に気が抜けてしまって、小さくため息をついた。

 薬への拒否反応も治まってきた紗香は、兄に背中をさすられながら、便器の方を向いたまま話し始める。


「神崎くんにも、話したわ。わたしたちのこと」


「……そうか。それは賢明だ。そのほうがいい」


「彼、呆然としてた。けど、繚介と同じこと言ってた」


「同じこと?」


「ええ、わたしにはなんの罪もないはず、って。馬鹿よ。神崎くんも、あなたも」


「……」


「ねえ、繚介」


「ん?」


「今日も、やりましょう」


  *  


 朝焼けの空と清々しい風にいざなわれるように、紗香は外に出た。

 裸足で踏む芝生の感覚は、睡眠よりも深い癒しであった。

 窓際に吊られた殺虫灯に集まった小さな羽虫が、時折ばちばちと音をたてる。


「それで、本当にのか? 今日も」


「……だめ?」


 紗香はわざと幼児のように、上目遣いになって訊いた。

 紗香は、和泉繚介にとって唯一残された家族であり最愛の妹である自分が、絶対的な保護対象であることを自覚していた。

 この兄は、妹の願いを簡単には無下むげにできない。

 だからその振る舞いは、和泉紗香の計略とも言えた。

 しかし繚介も馬鹿ではない。

 妹の計略に気づいているのかいないのか、繚介はしばらく考えた後、


「よし、来い」


 と言って身構えた。

 紗香は、途端に猟犬のような目つきになって身を屈める。

 そして真正面から繚介に向かって、走った。

 繚介の握り拳が、紗香の顔面に接近する。

 紗香は地面をスライドして回避し、そのまま繚介の背後に回り、飛び掛かった。

 突然背後から力を加えられ繚介は身を折るが、そのままの勢いで紗香を前へ投げ飛ばす。


「まだエリクシアの夢を見るのか? 紗香、過去は忘れるんだ」


 太陽に背を向けて逆光になった繚介の影を、紗香が見上げる。

 彼女が身に着けたピンク色の綺麗なネグリジェは、土まみれになっていた。

 陶酔したような顔つきで、紗香がもう一度、駆ける。

 今度は紗香のほうが先に手を出した。

 助走に乗った打撃を繚介は回避せずに胴体で受け止め、そのまま彼女の片腕を捉えたままにした。

 身動きのとれなくなった紗香は瞬時にもう片方の拳を握り、そこに赤い炎をまとわわせる。繚介はそれを氷のように冷たい目で見て、


「制御しろ。怒りは人を怪物にするが、人を強くはさせない」


 紗香の腕から炎が消えると、繚介はさらに言葉を浴びせる。


「お前、また人を殺したな」


「ええ」


 繚介の追及に、紗香は毅然とした態度で答えた。

 罪悪感や自省の念がないから、ではなかった。

 紗香にとって殺人とは、反論のしようもなく罪である。

 彼女が厳然としていられるのは、むしろ自身の背負うべき贖罪を――贖罪という使命を、理解しているからだった。 


「あのときの目的は、あくまで神崎を助けて仲間に引き入れることだった。相手が監理局の人間とはいえ、不要の殺生はよせ」


 紗香は無言だった。


「いいか紗香、怒りを制御するんだ。俺たちはもう、兵器じゃないんだよ」


 繚介の言葉には、単なる助言や命令などではなく、懇願するような色差いろざしがあった。


  *


 時間は、もう少し前に遡る。

 夜空に向かって高々と生い茂る歓楽街のビル群のなか、他の建物をはるかに凌駕する層楼が一つ。

 街のすべてを見下ろす姿は、さながら夜の王者の風格である。

 そのビルの最上階は、深夜二時を過ぎてなお衰え知らずの遊宴の最中だった。

 会場内の壁や天井は派手な電飾に彩られ、ゲストたちはバーカウンターで振る舞われる高級カクテルに酔いしれながら語り合う。


「それで……そのっていうのは、なんなの?」


 ある女が、上質なスーツを纏った男の隣に座って、訊いた。

 西洋人の血を感じさせる、金色の髪に碧い目を持った少女。

 彼女は露出度の高い、艶やかな紫色のラテックスドレスという、いかにも娼婦といった恰好をしている。

 

「それは教えられないな」


 にやけた笑いを浮かべながら答える男。

 少女は彼の目を見つめて微笑みかけながら、ドレスの中で、情報を受信した彼女の端末デバイスが振動するのを感じ取った。


「ねえ……そろそろ、わたしたちの部屋に戻らない?」


 と少女は提案する。


「もう始めたくなったのか?」


 男のにやついた笑みが、より一層いやらしい雰囲気を纏わせる。

 じれったくなった少女は、強引に男に唇を重ね、身を寄せた。

 筋肉質な肉体や分厚い胸板が、ジャケット越しにまで感じられる。

 男は立ち上がり、少女の身体を軽々と抱き上げた。

 二人はそのまま接吻を繰り返し、抱き合いながら隣の部屋へと移動した。

 部屋に入ると男は鍵をかけ、少女のドレスを脱がせ、全裸になった少女をベッドに放る。

 一面がガラス張りになった部屋の壁からは、夜の街が一望できる。

 男はその壁に沿って、興奮した足取りで歩きだした。


「この街は俺が描いたキャンバスだ。金も権力も、そして欲望さえも」


 アルコールと色情に酔った男独特の、昂揚した話しぶり。


「だが、お前たちはたかが娼婦。遊び相手であり、快楽の対象にしか過ぎない」


 少女は、男の言葉に何も答えない。


「謙虚に、俺の前にひれ伏すがいい。そうすれば、お前にも――」


 話しながら、男はベッドの方を振り向いた。

 だが、そこにあると思っていたはずの少女の姿は見当たらず。

 次の瞬間、男のすぐ目の前に彼女の姿が現れたとき、すでに少女は跳び上がって、男の顔面に蹴りを入れようとしている最中だった。

 突き飛ばされた巨体がガラスを突き破り、最上階から地面へ向けて落下しようと――


「あっぶなー……」


 全裸の少女は、間一髪のところで男のネクタイを掴んでいた。


「離すと落ちるけど、どうする? 落ちたい? そっか」


「ま、待てっ!! 薬の場所なら――」


「――とっとと教えて。はやく」


 男は今にも泣き出しそうな顔で、腕時計型の電子端末を操作した。

 すると少女の背後で、部屋の中にあった金庫がひとりでに開錠する。


「へえ、腕時計か……。あんがと、猛牛ビッグ・ブルさん」


 そう言うと少女は、、金庫に向かった。 

 悲鳴を上げる間もなく落下していった男のことなど歯牙にもかけず、少女は金庫の中身を取り出して確認する。

 それは、黒いカーボンファイバー製のアタッシェケース。

 彼女はケースを、天井のライトに向かってかかげ、その表面の紗綾さや形模様が角度によって変化するのを確認すると、小さく頷いた。


(うん、間違いなさそうね……)


 目当ての物を手に入れて満足した少女は、ベッドの上に脱ぎ散らされたドレスのポケットから、筒状に丸められた薄い紙のような端末を取り出した。

 広げると、それは薄型のタブレット状端末として使用することができる。

 フレキシブル・ディスプレイ――通称〈フレキシ〉と呼ばれる、監理局支給の電子端末。

 彼女の正体は、人類危機監理局の超能力諜報員アセットなのだ。

 その名も、〈FataMorganaファタ・モルガーナ〉。

 彼女の関係者は皆、略称して〈モルガン〉と呼んでいる。

 モルガンは、彼女のフレキシが先ほど受信した情報を確認すると、少しだけ顔をひそめ、誰にともなく呟いた。


「見つかったんだ、レッドプレデター……」


 夜の街のネオンは、瞬きのたびにその色彩を変えている。

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